3 名前のない銀の狼
満月。
その青白い光は、崖上に立つ銀の王を静かに照らし出していた。
森を支配する狼の群れ。
それを率いる狼王は、ひときわ体が大きく、美しい銀の毛を纏っていた。
彼の遠吠えが、遠くまで渡っていく。
それは森を越え、星々まで震わせるほどに、気高く澄んだ声であった。
森の近くに住む人間たちは、彼を銀狼王と呼び、恐れた。
民が森へ入ることを固く禁じるほどに。
そうして、古より、彼らの均衡は保たれてきた。
――そう。その時までは。
ある日。
愚かな人間の集団が、狩猟のために森に入った。
ほどなくして、その一団は狼の群れに襲われる。
狼の鋭い牙と爪。
統制のとれた動き。
圧倒的な膂力。
人間たちは、撤退を余儀なくされていた。
しかし、その中にいた一人の女が馬に振り落とされ、馬ごと崖下へ落ちていった。
人間たちは慌てた。
彼女を探すも、陽の落ちた闇の森では、人間たちの目は全く役に立たなかった。
狼に追い立てられるように、まだ生きている人間たちは女を諦め、森を去っていった。
――銀狼王は、それを見つめていた。
海よりも深い青い瞳に、月が鋭く映り込んでいる。
闇に沈む森を、彼はただ静かに見つめていた。
◇
血の匂いを辿り、銀狼王は、崖下で伏している女を見つけた。
一緒に落ちた馬はぴくりとも動かず、血の匂いのほとんどは、馬からだった。
彼女の周りには枝葉が散乱し、女からもかすかに血の匂いがする。
だが、下草を濡らすほどではなかった。
鼻先を女の手の甲に当てる。
小さなうめき声が上がった。
彼が顔を上げれば、近くで水と乾いた岩の匂いを感じる。
それから、雨の匂い。
銀狼王は女が身に着けていた厚い革のブーツごと足を咥えると、草の上を引きずっていった。
地面は草から次第に砂利へと変わり、細い小川の脇を行けば、小さな口を開けている洞窟がある。
その中に女を放った。
女は、光の差さない洞窟の中でも、光沢を失わない見事な金髪を持っていた。
肌も白く、滑らか。
しかし、女にしては体格も良く、服装からいっても武人のように見えた。
銀狼王はしばらく女を見ていたが、やがて辺りを見回す。
他の動物の気配は無い。
あるのは、水と岩と、わずかな苔だけ。
銀狼王は、そのまま洞窟を離れた。
彼が手を下さずとも、女は勝手に死ぬか、どこかへ去っていくことだろう。
翌日。
雨の隙間を縫い、銀狼王は遠目に女の様子を見に来た。
女は目を開けていた。
だが、ひどく眉を歪め、うめき声を漏らしている。
女は、身動きができないようだった。
手を伸ばせば、洞窟の中を走る小川に触れることができるはずだ。だが、彼女にはそれさえ、困難なようだった。
銀狼王は、草を蹴り、駆け出した。
女が落ちた崖上から少し下った先に、女の荷が落ちたままになっていた。
食糧の匂いはしない。
もともと持っていないか、他の動物に抜き去られたのかもしれない。
銀狼王はそれを口に咥えて運んだ。
女が眠りに落ちている間に、その手の近くに置く。
人間はよく道具を使う。
食糧はなくとも、女にとっては役に立つものがあるかもしれない。
女の顔色はひどく悪かった。
胸の動きに乱れはないが、細かな傷が体中にあり、どこかの骨もきっと折れているだろう。
明日には何か腹に入れなければ、この女でも死ぬ。
銀狼王は青い瞳で女を見、そしてまた戻っていった。
彼の走る道を、月が静かに照らしている。
闇に沈む森。
銀狼王の脚がゆったりと落ちた葉を踏む。
木々の隙間から月光が落ち、風が吹くたびに光の形を結び直していた。
王は、足を止める。
匂いを確かめるが、何も異常は感じられない。
湿った草と土の匂い。
彼を避けるように遠ざかる小動物の足音や羽音。
遠くの仲間の気配。
遥か先にある滝の音。
それしかないはずなのに、
木の影が揺れている。
彼の視線の先。
黒いローブを羽織った老婆がいた。
老婆がフードをわずかに持ち上げると、ぼんやりと滲むような金の瞳が覗く。
『何者だ』
「王よ。あたしを呼んだかい?」
『……誰がお前など呼ぶものか』
「あたしの力を欲しただろう。
いいよ。与えてやる。
……狼の血は強い。ただでくれてやろう」
背の毛が逆立ち、
彼は知らずに足先に力をこめた。
銀狼王がわずかに口端を持ち上げた時――
老婆は指先を小さく振った。
――強烈な違和感。
息を呑んだ。
『……貴様、何をした』
「……王よ、力に甘んじちゃいけないよ」
それだけを言い、老婆の姿は、闇に溶ける。
月光に、静寂が落ちた。
感じるのは、草と土の匂いだけ。
先ほどまで感じていた全ての感覚が削り取られてしまったかのような、
まるで膜で覆われてしまったかのような、
鈍い世界が訪れる。
頭上から葉擦れの音。
彼は見上げた。
――視線がいつもより高い。
目線を下げる。
そこにあるのは、震える人間の手。
人間の胴体。そして脚。
驚いて一本足を引く。
重い自分の足先が、草を踏み、湿った青い匂いが立ち上る。
背で揺れる髪。
指先で触れれば、それは、月光を溶かし込んだような銀。
そこにいたのは、
銀の髪を持つ、背の高い男。
ただ一人だった。
人となった銀狼王は、戸惑いながらも、柔らかい果実をいくつか手に持ち、女のいる洞窟へ向かった。
女はまだ眠っている。
呼吸は安定しているものの、変わらず顔色は悪い。
そばに置いておいた荷にも、触れた気配はない。
実を女のそばに放ると、彼は洞窟を出て、乾いた木の枝を集めた。
そうしてる間に、徐々にこの身体に馴染んでいく感覚がある。
洞窟に戻ると、女の荷を漁り、使えそうなものを探した。
理由は分からないが、扱い方は分かる。
荷の中にあった器で水を汲んで女の近くに置き、集めた枝を使って火を起こし始める。
狼の頃は、人間が扱うこれが嫌いだった。
眩しく、臭くて、どうしようもなく鬱陶しかった。
だが今は、パチパチと音を鳴らしながら揺れる火を見ていると、妙に落ち着く。
その時――
かすかなうめき声と、衣擦れの音がした。
銀狼王が目をやると、女がゆっくりと目を開ける。
焦点を合わせるように、視線がじわりと揺れた。
火を見つけ、女は驚いたように眉を寄せる。そのそばに座っている男を見ると、さらに目を見開いた。
「……誰だ」
掠れた声。
だが、なぜか腹の底がゾクリと震える。
銀狼王はゆっくりと腕を持ち上げ、女のそばに置いた器を指さした。
「水を飲め」
「……毒入りか?」
男は静かに火を見つめる。
「さぁな」
女は、痛みに顔を歪めながら体をわずかに持ち上げ、水を煽った。
手から離れた器が地面に転がる。
銀狼王は、それを目で追い、ゆっくりと女を見た。
彼の瞳は、透き通るような青い色。
海より深く、空より気高い。
女は、まるで縫いつけられたかのように、その目を見つめた。
やがて、彼女は息を呑み、震える息を吐く。
「お前……銀狼王か?」
男は、視線をまた火に戻した。
脇に置いていた枝を、焚き火に投げ入れる。
「実を食え。
それとも……何が食える」
女は視線を巡らせ、近くにあった果実を見つけると、それを手に取った。
ゆっくりと、それを齧る。
果汁が、彼女の口端からわずかに溢れ、滴った。
「……美味しいな」
「ならいい」
「なぁ、お前……」
「黙って食え」
銀狼王が視線だけを女に向ける。
「それとも――貴様は俺に食われたいのか?」
地を這うような、低い声。
女は小さく身を震わせる。
焚き火の火が、小さく爆ぜた。
二人の視線が静かに絡む。
女の瞳の奥にわずかな熱が宿り、その唇は弧を描いた。
「はは……死ぬ前に犬の慰みものになるか。
ずいぶん数奇な人生であったな」
「……何の話だ」
銀狼王は視線を外すと、赤く揺れる火を見つめる。
「……怪我して弱ってる個体を抱くほど、俺は落ちていない」
女は興味深そうに片眉を上げた。
「それに……貴様は死なない。
俺が命を繋いでやる」
女はその横顔を、静かに見つめる。
どこかで、風の細い音が鳴っていた。
人となった銀狼王は、そのまま洞窟に留まった。
自分の匂いが、かつてと異なることが己でも分かる。
群れの匂いが、もう自分にはない。
だが、人である彼がこの森を侵していても、彼の群れの気配が近づいてくることは無かった。
銀狼王は、女が目覚めるたび、彼女の器に水を汲んでやった。
必要な時に果実を運び、枝を拾っては火を維持し続ける。
女は、肋と脚を痛めているようだった。呼吸をするだけで、鈍い痛みにかすかに眉を寄せている。
だが彼女は、一度として弱音を吐かなかった。
得体の知れない男である銀狼王を怖がる素振りも見せない。
――妙な個体だ。
群れの雌たちとは、どこかが違う。
焚き火に枝を一本投げ入れる。
銀狼王は息を吐くと、視線を滑らせた。
川でつかみ取りしてきた魚を枝に刺し、火の周りに刺して置いていた。生では食べられないなどと女が言うので、面倒だが仕方なくこうしている。だが、段々と香ばしい匂いが立つようになってきた。
「狼の王よ」
寝そべったままの女が声をかけたが、銀狼王は特に応えず、魚を眺めている。
「なぜ……ここにいる」
「さぁな」
声は、どれほど低くしても洞窟の奥まで響いた。
「なぜ、私に構う」
「群れはどうした」
「なぜ、人の姿になった」
「……少し黙ってろ」
焚き火と、脇を流れる水の音だけが残り、女は小さく息を吐いた。
「狼の王よ」
「まだ喋るか」
「私はお前になら、殺されてもいい」
銀狼王がやっと女に顔を向ける。
視線が絡んだ。
女の瞳の奥には、やはり言葉にできない熱が沈んでいる。
「……なぜだろうな。
そう思った」
「……そうか」
銀狼王は視線を火に戻した。
手に持っていた枝で魚を少しいじってから、地面に刺していた枝ごと引き抜く。
それを持って女の近くにしゃがみ込んだ。
「食え」
女がそれを受け取ると、彼はまた火の前に戻る。
「なぁ、狼の王」
「食って寝ろ」
女はくつくつと笑った。
銀狼王も別の魚の刺さった棒を取り上げると、それを口に運ぶ。
「……美味い」
「美味しいな、狼の王」
「黙って食え」
女は耐えられずに声を立てて笑うと、傷に触ったのか顔を歪めた。
「ほら見ろ」
女は細く息を吐いてから、黙って魚を食べ始める。
銀狼王はそれを横目で見、ほんのわずかに息を吐いた。
そうして彼も、黙々と魚を食べる。
焚き火の音だけが、二人の間に落ちていた。
パチリと、火が小さく爆ぜた。
おもむろに銀狼王は立ち上がり、洞窟を出る。女はそれを静かに目で追った。
森は、夜が支配していた。
星が瞬き、上弦の月が浮かんでいる。
砂利を踏む。
月光は鈍く、足元に影さえ生まない。
目を伏せる。
やはり膜が張ったように世界は鈍い。
――だが、分かる。
円を描くように、それは自分を囲み始める。
むっとするような獣臭。
『おや、お前、銀狼王か。
ほぉ……生きてたのか』
黒い毛並みの狼が、銀狼王の前に現れる。
彼は、その獣を見下ろした。
「ここは、我が統べる地。貴様らが入ることは許されぬ地だ」
『王の匂いが薄れたからな。
……死んだと思ったのさ』
嘲笑うような気配がいくつも漂う。
「去れ」
瞳の青が、わずかに光を帯びる。
その刹那――
砂利を蹴る音。
黒狼が跳んだ。
銀狼王の喉元を狙った一撃。
身を引き、躱す。
後ろに引いた足で踏ん張り、前に身を屈めて腰を落とす。
背後から、
肩口に衝撃と鋭い痛み。
肩を噛まれたそのままで、体を捻り、振り落とした。
身を沈め、ろくに見えない視界の中で音を探す。
――何頭いる?
――なんて不便な身体だ。
唸り声。
砂利を踏む音。
――そこか。
左。
避けきれず、腕を噛まれる。
骨が軋み、低い声が喉の奥から漏れた。
熱い獣の息。
狼の頭をつかみ、身体から引きはがす。
肉が裂かれ、血が舞う。
「銀狼王!」
洞窟の入口。
見れば、ろくに動けもしないはずの女が、壁に手を添え、浅い呼吸で立っていた。
「お前は今は人の身だ!
距離を取れ! 狼の牙と爪には敵わん!」
女が、銀狼王に向かって、鞘ごとのダガーと矢筒、弓を投げ、
銀狼王はそれを受け止めた。
無意識にダガーを口に咥えかけて、舌打ちして腰に刺す。
矢筒を背負い、弓を構え、
一矢。
砂利が跳ねる。
足元を狙い、狼が身を引いて避ける。
立て続けに何本か放つが、女のための弓は、彼には軽すぎる。
舌打ちが漏れる
一頭に向かって弓を振り抜くように叩きつけた。
甲高い声が上がる。
群れの隙。
――ここだ。
地を掴んで蹴る。
――雑魚はいい。
――狙うは、一頭のみ。
ゾクリと腑が震える。
ダガーの柄を握り、鞘を投げ捨て、
滑るように駆ける。
視線の先、黒狼。
正面。
黒狼が、跳ぶ。
熱い風。
身を沈ませ、下へ。
向こうに、上弦の月が見える。
ダガーを振り、黒狼の腹を裂く。
温い血。
濃い生臭い匂い。
鈍い音がして、
黒い個体が砂利を滑って転がった。
砂利に手をつく。
腰を落とし、振り返る。
手を濡らすのは、血だ。
短い鳴き声。
他の個体が一斉に身を翻し、
引く。
砂利を飛ばしながら、狼の群れが去っていく。
呼吸に体を震わせる男だけが、その場に残された。
葉擦れの音。
かすかな耳鳴り。
足音が遠ざかる。
水の音が帰ってくる。
残る、重い血の気配。
浅い呼吸。
そっと、身を起こす。
落ちたままの黒狼を足で蹴り、動かないことを確かめると、銀狼王は顔にかかった血を拭った。
ゆっくりと、地面に落としていたダガーの鞘と弓を拾い、振り返る。
見上げれば、樹上に星が瞬いていた。
女は、洞窟の入口に座り込んでいた。
その瞳が、淡い月光に滲み、揺れている。
銀狼王がゆっくりと女のもとに戻ると、その前にしゃがみ、女を抱き上げた。
「血が出ている。私が手当てをしてやる」
「……ろくに歩けもしない奴が何を言う」
「恩返しだ。少しでいい。やらせてくれ」
銀狼王は女をそっと洞窟の中におろした。壁に背をもたれかかるようにして座らせ、彼女のそばに女の荷を置く。そうして女の前に座り、左腕を差し出した。
女は自分自身の痛みに息を詰めながらも荷を漁り、包帯を取り出す。銀狼王の服の袖を裂き、傷を改めて見つめると、情けなく眉を下げた。
「水を……用意してもらえないか」
女は、唇を小さく噛む。
銀狼王は立ち上がると、彼女の器に水を汲み、また戻った。器を、女の手に握らせる。
「私は……不甲斐ないな。
まともに手当てもしてやれない」
女の視線が下がる。
男は女の長いまつげを見つめた。
影は頬に落ち、少しだけ血色の良くなった唇は、まだ乾いてひび割れている。
銀狼王は、女に顔を寄せた。
なぜそうしたのか分からないまま、
唇が触れた。
呼吸が交わる。
熱が、ゆっくりと離れる。
女は驚いたように顔をあげた。
青い瞳は、女の目をまっすぐに見つめる。
そして、小さく首を振った。
黙ったまま、左腕をもう一度差し出す。
女は息を吐き出すと、器の水で彼の傷口を洗った。
男から、うめき声が小さく漏れる。
女はそれを聞いて小さく笑った。
「……痛いか?」
「……いや」
「素直じゃないな」
女が包帯を丁寧に巻く。
それを見下ろす銀狼王の口元は、少しだけ柔らかくなっていた。
あれから、幾日かが過ぎた。
変わらず、人の姿の銀狼王は女のそばにいた。
果実を集め、火を守り続けた。
女のために水を汲み、時に怪我の手当ても手伝ってやる。
女は未だにろくに動けもしないが、口だけは達者で、よく銀狼王に話しかけていた。
彼は、ただ火を見つめながら、それに頷いて返すだけ。
それでも二人は、自然とそばにいた。
ある日。
人間の一団が、また森を侵した。
だが、彼らは森の命には触れず、声を上げながら馬に乗って駆け回るだけ。
やがて、人間たちは洞窟にたどり着く。
「王女殿下!」
洞窟の壁に背を預け、火を眺めていた女が顔を上げる。
全身に鎧を纏った騎士の男が、女に駆け寄った。
砂利を飛ばし、金属の擦れる音が響く。
男は、女の全身を視線で確かめ、そして、思わず抱き寄せた。
「ご無事で良かった……。
もうお会いできないかと……」
一瞬だけ痛みで眉を歪めたが、女は視線を下げ、小さく口元だけで笑う。
「はは。まだ怪我が治ってないんだ。そんなに強く抱くな」
男は女をそっと離すと、その瞳を愛しげに見つめた。
「……戻りましょう、国へ」
女の瞳が揺れる。
唇が、かすかに震えた。
「……そうだな」
女は馬に乗せられる。男に抱きかかえられるように支えられながら、振り返った。
視線が、探す。
彼女の瞳に、わずかに陽が差し込み、潤ませた。
洞窟の上。
木々の影の向こうに、銀があった。
月光を流し込んだような銀の毛を纏った、狼。
青い透き通った瞳が、静かにこちらを見ていた。
「……王よ」
女の声は、誰の耳にも届かなかった。
銀狼王は、森へと、静かに姿を消した。
その晩、
王女は、窓辺に置かれた籐椅子に腰掛け、窓を見上げた。
光沢を失わぬ金の髪。
光を返す美しいナイトドレス。
そこからのぞく白い滑らかな肌。
だが、彼女の瞳は揺れる。
満月。
月光に照らし出される崖の上には、群れを率いる銀狼王の姿。
彼の遠吠えは、気高く、どこまでも響き渡った。
王女は震える息を吐き、静かに瞳を伏せた。
その遠吠えを、最後まで聞きながら。




