2 名前のない瑠璃色の鳥
お姫様は、鉄格子のついた窓から、ぼんやりと空を眺めていた。
どこまでも広がる青空。
浮かぶ白い雲。
やわらかな風。
それを、お姫様は深い青い瞳で、静かに見つめていた。
彼女には、額から目元にかけて赤紫の大きな痣がある。
生まれた日から、彼女はこの顔だった。
人はこの痣を醜いと言う。
だから――
お姫様は一人、城から離れた場所に建つ高い塔に幽閉されていた。
この日も、
お姫様はただ静かに、空を見つめ続けていた。
ある時から、彼女のもとにお客様が訪れるようになっていた。
格子の隙間から、彼は首を傾げながら、ひらりとお姫様の部屋に入り込んできた。
「瑠璃色の小鳥さん」
椅子に座っていたお姫様は彼に気づくと、ふわりと笑って立ち上がった。
彼女が白い指を伸ばしてやると、瑠璃色の小鳥はそれに乗る。
光沢のある瑠璃色の羽。
お姫様は指先でそっと撫でてやった。
小鳥はお姫様を見つめると、嬉しそうに小さく羽を広げる。
「うふふ。かわいい。
あなた、本当にきれいな色ね。素敵よ」
瑠璃鳥は彼女の指から飛び立ち、部屋の中をくるくると飛んだ。
お姫様はそれを、微笑みを浮かべながら目で追う。
瑠璃鳥が羽を動かすたび、光が散った。
彼女の目を楽しませるために、瑠璃鳥は部屋の中を飛んでみせる。
お姫様は、嬉しそうに笑っていた。
ある日も、瑠璃鳥はお姫様の部屋に飛んできた。
格子の隙間をするりと抜け、彼女の肩へ。
お姫様は少しだけ首を傾けると、瑠璃鳥に頬を寄せた。
「瑠璃色の小鳥さん。
あなたに会えるこの時間が、私は楽しみなの。
来てくれて嬉しいわ」
指先で羽を撫でてやると、瑠璃鳥は応えるように小さく鳴いた。
この日も瑠璃鳥は部屋を飛んでみせる。
部屋に差し込む淡い光を、その小さな身に纏うようにして。
お姫様に、少しでも楽しんでもらえるように。
お姫様は、それを目を細めて見つめた。
「本当に……あなたは美しいわね。素敵だわ」
やがて瑠璃鳥は、彼女の小さな書き物机の上に降りた。
机上に置かれたままの彫刻の施された木箱を、嘴で軽くつつく。
お姫様は机に寄ると、そっとその箱を開けた。
中には、色とりどりの宝石。
彼女がここへ入る時に、持たされたものだ。
「これが……欲しいの?」
小鳥は、応えるように首を傾げる。
「いいわ。あげる。
私が持っていても、見せる人もいなければ、使い道もないもの」
お姫様はその白い指先で、深い青色の宝石を一粒、持ち上げた。
「飲み込んじゃだめよ」
瑠璃鳥はそれを嘴で咥える。
「……また、来てくれる?」
お姫様の青い瞳が、寂しげに細められた。
瑠璃鳥は宝石を咥えたまま、彼女の肩に乗り、頭を彼女の頬に擦り付けるようにする。
そして、飛び立っていった。
お姫様は、その小さな姿を、見えなくなるまでいつまでも見つめていた。
瑠璃鳥は、街なかの小さな家まで飛んできた。
煙突から煙が細く吐き出されている。
赤い煉瓦造りの家。
壁は一面、蔦で覆われていた。
窓の縁に降り立ち、汚れで濁ったガラス窓を覗き込む。
中が見えず、結局嘴でガラスをつついた。
何度か繰り返す。
やがて、玄関扉の方から軋む音が聞こえた。
「おいで」
くすんだ木の扉の向こうから、黒いローブの老婆が手で瑠璃鳥を招く。
小鳥は、扉から部屋の中へと滑り込むようにして飛んで入ると、テーブルの上に降り立った。
物だらけのテーブルだった。
乾燥させた植物や、古いカップ、パン屑。
他にも、瑠璃鳥の知らない、不思議なものがたくさん置かれていた。
瑠璃鳥は、テーブルの上に宝石をコトリと置いた。
『僕を、人の姿にして欲しいんだ』
老婆はゆっくりと瑠璃鳥に近づくと、皺だらけの指先で宝石を摘んだ。
「こりゃずいぶん上物の石だね」
『でも、彼女の部屋に飛んでいかなきゃいけないから、鳥になったり、人になったりしたいんだ。
――魔女のお婆さん、できる?』
老婆は、目を細めて笑う。
「あたしを誰だと思ってんだい。
できるに決まってる」
『お願い』
老婆は宝石をポケットに押し込むと、軽く指を振った。
瑠璃鳥は自分の羽を広げて見つめる。
『……変わってないよ』
「お前が願ったとき、姿は変わる」
『……ありがとう』
老婆はしわくちゃの顔を、さらにしわくちゃにした。
「……幸せにしておやり」
瑠璃鳥は首を傾げると、やがて飛び立った。
扉から部屋を出て、空へと舞い上がる。
瑠璃鳥は、いつものように格子の隙間に降り立つと、部屋の中を見た。
椅子に座って静かに宝石を眺めていたお姫様は、彼に気づくと、ふわりと笑う。
「瑠璃色の小鳥さん。来てくれたのね」
彼女は立ち上がり、瑠璃鳥に向かって人差し指を差し出した。
瑠璃鳥はそこにはとまらず、床に降り立つ。
彼女を見上げる。
黒目だけの真っ黒な瞳で。
お姫様はそれを静かに見下ろし、瞬きをした、その瞬間――
そこにいたのは、一人の少年だった。
お姫様は驚いて、一歩下がる。
瑠璃色の髪。
澄んだ黒い瞳。
真っ白な肌の美しい少年。
彼は、お姫様に向かって、手を差し出した。
「これでもう……君は、寂しくないかな」
彼は、小さく首を傾げる。
「その姿に、その仕草……。
あなた、瑠璃色の小鳥さんなの?」
「そうだよ」
少年は小さく一歩、お姫様に寄ると、彼女の指先を取った。
「僕が一緒にいるよ。
もう、寂しくならないように」
お姫様は青い瞳で彼を見つめた。
その瞳が、じわじわと潤んでいく。
「……悲しいの?」
「嬉しいのよ」
「……そっか」
彼が笑うと、お姫様も、笑った。
お姫様の塔には、食事の上げ下げの時にしか人が来ない。
だから、いつも二人きりで過ごしていた。
晴れの日は、
手を繋いで、格子つきの窓から空を眺める。雲の形が何に似ているのかを言い合って遊んだ。
雨の日は、
お互いの髪にリボンを結び合って、一緒に笑った。
いつも一緒。
たくさん笑った。
だけど、夜になると、お姫様はよく泣いていた。
格子の形になって、月明かりが部屋に落ちている。
部屋の絨毯の上に座り込み、まるい月を見上げるお姫様。
その頬には、涙がいく筋も落ちていた。
瑠璃鳥の少年は、お姫様の隣に静かに座ると、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
顔を寄せて、お姫様の頬に自分の頬をそっと当てる。
少年が小鳥のときに、
お姫様がよくそうしていたように。
頬を離すと、少年の黒い瞳と、お姫様の青い瞳が真っ直ぐに交わる。
「……寂しいの?」
お姫様は答えずに、小さく首を振るだけだった。
月夜はあまりにも静かで、
少年はただ、お姫様の頬を伝う涙を見つめることしかできなかった。
瑠璃鳥の彼は、一日一回、鳥になった。
森へ飛び、花や綺麗な木の実をお姫様に届けた。
お姫様は、それを受け取ると嬉しそうに笑ってくれた。
だけど――
それでも彼女は、夜になると泣いてしまう。
ある日、お姫様が言った。
「私も鳥になって、ここから飛んでいきたいわ。
あなたと、空を飛びたいの」
手を繋いで空を見上げていた瑠璃鳥の少年は、驚いて彼女を見た。
お姫様は、まっすぐに少年を見つめている。
「……本当に?」
少年が震えた声で言うと、彼女はゆっくりと頷いた。
瑠璃鳥は悩んだ。
森の一番高い樹の上にとまって。
その鮮やかな瑠璃色は、沈もうとする陽の赤を纏って、暗く染まってしまう。
それでも、羽を伸ばした。
細い白い月。
小さな体を吹き飛ばそうとする強い風。
瑠璃鳥は空を舞う。
こっそり一人で泣いたりしながら。
どうしたらいいのかわからなかった。
でも、一つだけわかる。
瑠璃鳥がやりたいことは、たった一つだけ。
――あの子を、もうひとりぼっちにしないこと。
それだけなのだから。
格子の隙間から部屋に戻ってきた少年に、お姫様が駆け寄った。
彼の手をとって、自分の頬に当てる。
「……ただいま」
「……えぇ」
少年は俯き、また顔をあげた。
「僕に、君の宝石を分けてくれる?」
お姫様は頷いた。
机の上の木箱。
それを持って、彼の前に戻ると蓋を開けた。
「全部あげるわ」
深い青い瞳。
少年はそれを見つめて、目を伏せた。
箱から、鳥の彼が咥えられるだけの宝石を取り出す。
それは、箱の中の宝石の大半だった。
そして、彼は瑠璃鳥の姿になり、格子の向こうへ飛んでいった。
お姫様は木箱の蓋をしめると、遠ざかる瑠璃色の小さな鳥を見つめた。
夕焼けの中に溶けるその姿を、見えなくなるまで、静かに見つめ続けた。
魔女の老婆は、籐椅子に腰掛けたまま、少年を見つめた。
しわくちゃの顔はぐっと寄せられ、その瞳の色は見えない。
「……できない?」
少年は、手のひらに宝石をのせて、老婆に見せる。
「できるさ。
……でもな」
老婆は面倒そうに、その白い長い髪をぐしゃぐしゃとかき上げた。
「人間は業が深いからね。
鳥になったら、もう二度と人には戻れないよ」
少年の澄んだ黒い瞳が潤む。
唇を噛み、それでも老婆を見つめ続けた。
「……お願い。
お婆さん」
老婆は、大きくため息を吐く。
そして、少年の手からひったくるようにして宝石を取り上げると、ポケットに全て押し込んだ。
「ちょっと待ってな」
テーブルの上にあったガラス瓶を老婆が持ち上げた。
それが他の物に当たり、ばらばらと音を立てて床に散った。
少年は驚いて一歩下がったが、老婆はそれを気にもとめない。
彼女は瓶の蓋を開けて中から美しい赤い飴玉を一つ取り出した。
それに向かって小さく指を振る。
一瞬だけ、それは金色に鈍く光った。
老婆は、指で摘んで持ち上げると、夕陽に透かしてゆっくりと眺める。
やがて椅子から立ち上がり、彼の前に立った。
しわのある厚みのある手で彼の細い手を取ると、そこに、赤い飴玉をのせる。
夕陽を飲み込んでしまったかのような、真っ赤な艶々とした飴玉。
「これを、与えておやり」
彼は顔をあげる。
老婆が小さく頷くと、少年も応えるように頷いた。
「……ありがとう」
少年は鳥の姿になり、嘴で飴玉を咥えると、飛び立った。
夕陽の空へ、まっすぐ飛んでいった。
月が空に一つだけ浮かぶ頃、
瑠璃鳥はお姫様の部屋に戻ってきた。
格子の隙間を抜け、少年の姿になると、お姫様が彼に駆け寄る。
「……小鳥さん」
彼が顔をあげた。
ゆっくりと、握りしめていた手のひらを広げ、彼女に見せる。
その指先は、ひどく震えていた。
お姫様の頬を、涙が伝う。
「やっと、自由になれるわ」
少年の頬にも、涙が落ちた。
「本当に……それでいいの?」
お姫様は、彼を抱きしめた。
「私のために泣いてくれるのはあなただけよ。
一緒に空を飛びましょう」
少年も、お姫様の背に腕を回すと強く抱き返す。
「ずっと一緒にいるよ」
「えぇ、ずっと一緒にいましょう」
体を離し、二人は顔を寄せ、濡れた頬を互いに当てた。
静かに、見つめ合う。
お姫様は、口を開けた。
少年は眉を歪めて、泣いた。
大粒の涙がこぼれ落ち、嗚咽が漏れる。
震える手で飴玉をつまむと――
そっと彼女の口に入れた。
「……甘いのね」
「……うん」
見つめ合い、泣きながら、微笑み合う。
お姫様が、彼の頬の涙を指先で拭った。
「……とっても、甘いわ」
「……うん」
朝陽が森を金色に染めていた。
鳥のさえずりが響いている。
二羽の瑠璃色の鳥が、
青空を仲良く飛んでいた。
それは、どこまでも高く、飛んでいた。
城から離れた高い塔。
その部屋には、ほとんど空の宝石箱が、たったひとつだけ残されていた。
窓から見える青空は、どこまでも広がっている。
浮かぶ白い雲。
やわらかな風。
鳥の歌う声。
名前のない瑠璃色の鳥は、今日も空を飛んでいる。




