1 名前のない白猫
こちらは、過去に短編として投稿していた作品を、ひとつの連作として編み直したものです。
すでにお読みくださった方は、二話目以降からでもお楽しみいただけます。
この世には、恋の物語がたくさんある。
だが、名を持たぬ者もまた、確かに存在する。
これは、そんな者たちの――
名前のない、ひとつの恋の物語。
◇
弓形の出窓の下。
やわらかい日差しが、並んだ三つの窓から差し込んでいた。
よく磨かれた木床は白く光を弾いている。
彼女は、そこにいた。
木床に、癖のない真っ白な長い髪が散っている。
まるで猫のように、体を丸めて小さくなって眠っていた。
ふと、白い長い睫毛が震える。
ゆっくりと開いた瞳から覗くのは、澄んだ水色。
起き上がり、あくびをひとつして、あぐらをかく。
艶のある白髪を、指で払うようにかき上げると、視線を上げた。
壁際に置かれた大きな机。
胡桃色の髪の青年が、インク壺にペン先を浸している。
金茶の瞳は、静かに手元へ落ちていた。
まくり上げられたシャツの袖からは、白い手首がのぞいている。
白髪の彼女は、それをじっと見つめた。
「……今は春だから、そういうことをしたくなる季節なんだよ、リオ」
呼びかけられた青年は手をとめると、視線だけ彼女に向ける。
「今は夏だよ。白猫さん」
「そうだったかな」
「そうだよ」
白髪の眠たげな彼女は――
元・白猫。
近所の魔女婆にお願いして、ある日人間にしてもらった。
白猫の彼女はもう一度あくびをすると、立ち上がってリオの近くの椅子に座り直した。
彼の長い指先が、丁寧に文字を紡いでいく。
それをただ、眺める。
椅子の上で膝を抱えた。
まどろみ。
また、目を閉じる。
ペンが紙を擦る音が、そっと、まぶたをなぞった。
――それは少し前の、雨の日。
白猫だった彼女はひとりぼっちで鳴いていた。
毛が雨を吸い、身体が重い。
寒さで震えが止まらない。
好奇心のままに歩いていたら、たどり着いたのは、知らない街だった。
雨から逃げる場所がどこにあるのかも、わからない。
心細い夕方。
雨だけが、淡々と彼女の白い毛並みを濡らした。
ふっと、影が落ちる。
白猫が顔を上げると、やわらかそうな胡桃色の髪の青年が、こちらを覗き込んでいた。
無骨な黒い傘。
透き通った金茶の瞳。
「……迷子なの?
こんなに濡れてしまって……かわいそうに」
澄んだ甘い声。
青年が屈むと、猫はその腕に飛び込んだ。
彼は一瞬目を見開いたが、そのまま優しく猫を抱く。
「……連れて帰ってあげたいけど、大家さんが動物が苦手でね」
白猫は、彼を見上げる。
優しい香り。
温かな体温。
青年は猫を抱いたまま、雨の中をゆっくりと歩いた。
雨が霞をつくり、世界がぼやける。
猫は青年の腕の中で、ぼんやりとそんな景色を眺めていた。
広場の端に生える大きな木。
そこにある小さな樹の虚。
青年は腰を下ろすと、猫をその中に入れた。
ポケットからハンカチを取り出し、少し乱暴なくらいに猫の毛の水気を拭う。
傘をその虚にかかるように立てかけた。
「……僕には、こんなことしかできない。
ごめんね」
寂しげにそう言う青年の瞳を、白猫は静かに見つめる。
やがて彼は立ち上がると、着ていたコートを頭から掛け、駆け去っていった。
――出会いはそれだけ。
――でも、好きになるにはじゅうぶんだった。
白猫は、どこかで盗んできた宝石を、魔女婆に渡した。
“彼と恋をしたい。
――だから、人間の女の子にしてくれ”
猫がそう言うと、婆はだるそうに頭を掻く。
宝石をポケットに押し込んで、指先を振った。
そして、もともとしわくちゃの顔のしわをもっと深めて、婆は言った。
“幸せにおなり”
元・白猫は、走った。
慣れない二本足で。
彼の優しい匂いをたどって。
途中、転んだりしながら。
あの、胡桃色の髪の、愛しい人をただ探した。
――そうして彼女は今、リオの家に入り浸るようになっていた。
彼女の髪は、人間ではありえないほどに真っ白。
それだけで、どこかこの世のものではない。
このような見た目でリオと恋ができるのか――
白猫は、少しだけ目を伏せた。
「あのくそババア……」
「そういう言い方は良くないよ」
元・白猫の彼女が顔を上げると、リオは手元に視線を落としたまま、苦く笑っていた。
白猫を叱る声さえ甘いのだから、どうしようもない。
「リオ、好きだ。抱っこしてくれ」
「嫌だ」
白猫は頬を膨らませた。
窓の向こうの光が、白から橙に変わっていく。
白猫は膝を抱えたまま、金色に縁取られているリオの横顔を静かに見つめた。
ある日、扉が強く叩かれる。
リオは顔を上げると、ペンを置いた。布巾で丁寧に手を拭い、席を立って扉に向かう。
白猫の彼女は、出窓の下に寝っ転がったまま、それを目で追っていた。
木床を踏む音。
部屋には穏やかな白い光が満ちていた。
――だが、間を置かず、扉が叩かれる。
リオは、扉を押し開けた。
扉の向こうに立っていた人物。
リオの肩が、小さく震えた。
「いつまで遊んでいるつもりだ!!」
突然の怒声。
白猫は跳ねるようにして起き上がった。
「……父さん」
「早く戻ってきなさい!
婚約もとっとと調えねばならないだろう!
お前は我が伯爵家の跡取りなのだぞ」
リオは眉を寄せる。
「……僕は弟こそ、跡取りにふさわしいと思います」
「四の五の言うな!」
リオの父親は、彼の胸ぐらを掴んで強く引いた。
門の向こうには、黒い馬車。
リオの身体が、わずかに揺れる。
白猫は背後から飛びつき、その手に噛みついた。
「痛っ!」
男は手を払うと白猫を強く押した。
白猫はその場に転がる。
「なんだこの娘は!」
拳が振り上げられた。
――鈍い音。
白猫に覆いかぶさるようにして庇ったリオの背が、強く叩かれた。
父親は舌打ちをした。
男はそのまま踵を返し、大股で前庭を踏む。馬車に乗り込むと、それは音を立てて走り出した。
小さくなる、馬車の背。
石畳の砂が、わずかに舞った。
二人はそれを、呆然と見送る。
リオは小さく息を吐いた。
「リオ……大丈夫か?」
リオは白猫の服についた泥をそっとはたき落とす。
ゆっくりと顔を上げ、水色の瞳をまっすぐに見た。
「白猫さん……ありがとう。
――でも、僕のために、無茶はしないで」
リオの金茶の瞳に影が差す。
白猫は座り込んだまま、それを見上げた。
「お前……貴族だったのか」
リオは白猫の前にしゃがみ込むと、小さく首を傾げた。
そして、苦く笑う。
「僕の弟、すごく優秀なんだ。
家督の権利も……ちゃんと放棄して出てきたはずなんだけど……」
視線が下がり、リオは地面を見つめた。
「弟と父さんは、よく小さなことで衝突してた。
……何か、揉めたのかもね」
「……リオ」
白猫が手を伸ばしてリオの頬に触れようとすると、リオは逃げるように立ち上がった。
「僕には……関係のないことだよ」
白猫が何か言う前に、リオは背を向けて部屋の中に入っていった。
少しだけ、小さく見える背中。
白猫は黙ってそれを見つめた後、自分の指先を見た。
触れたかったのは、頬じゃない。
――それが何なのか、白猫にはまだわからなかった。
ガラス窓を雨が叩いていた。
雫が砕け、滑り落ちていく。
白猫は窓枠に肘をつき、それを眺めていた。
やがてそれに飽きると、リオから与えられた毛布を引きずり、木床を歩いた。
リオは、机で仕事をしている。
オイルランプがその手元を橙に照らしていた。
白猫は椅子を引き寄せ、彼の隣に座った。
膝を抱えて、その金茶の瞳をぼんやりと見つめる。
「リオは……帰らないよな」
リオは、手をとめた。
一度壁に視線をやり、それから白猫に顔を向けた。
「……実家に?
帰らないよ」
雨音だけが、部屋に落ちていた。
金茶の瞳の中で、橙の光がゆらゆらと揺れている。
「……ここに、私といてくれるよな?」
リオは、ふっと笑うと、わずかに目を伏せた。
遠くで、雷の音がする。
彼はまた、ペン先にインクを吸わせると、作業を続けた。
「……白猫さんは……猫にはもう戻れないの?」
「……戻ってほしいのか?」
白猫は、その横顔をただ見つめた。
「僕とここにいても……白猫さんは、幸せになれるか分からないよ」
雨音が、彼の声を覆い隠してしまう。
ふいに、リオが顔をあげた。
「……白猫さんは、名前は?」
「……白猫」
「名前がないってこと?」
きょとんと白猫を見るリオの表情は、少し幼く見える。
白猫は少し間の抜けた顔で口を開けてそれを見つめた後、両手を広げた。
「抱っこしてくれ」
「会話にならないな」
リオがふわりと笑い、白猫もつられるようにして笑った。
また彼は、手元に視線を落とした。
口角を楽しそうにあげたまま。
「猫に戻ったら、抱っこしてあげる」
「……せっかく人間になったのに」
白猫が頬を膨らませると、リオはまた小さく笑った。
雨音が、二人の間に落ちる。
白猫は、やっぱりあの頬に触れかった。
白猫は一人、小さな庭の椅子に座って日向ぼっこをしていた。
空を仰ぐと、長い白髪が背もたれに触れる。
手を伸ばして、雲の数を数えた。
だが風に押されて形を変え、数はすぐにわからなくなる。
ため息をついて、またぼんやりと空を眺めた。
馬車の音。
白猫が目をやると、門の前に黒い馬車が停まった。
そこから、青年がゆっくりと降りてくる。
彼は、家の扉の前で息を細く吐き出すと、ノッカーに手をかけた。
澄んだ低い音が響く。
リオは今、外出中だ。
初めは無視するつもりだったが、なぜか、白猫はその青年が気になった。
どことなく、リオに似ている。
そっと歩み寄り、首を傾げた。
――やっぱり似てる。
「弟か?」
青年は白猫に気づくと、驚いて肩を震わせた。
「君は……?
……兄さんの恋人か何か?」
「そうだ」
――嘘だが。
「……そう」
青年は、少しだけ頬を緩めた。
ほっとしたような、寂しいような。
白猫はそれを、ただ見ていた。
「幸せなんだ……兄さん。
……良かった」
白猫はじっと青年を見つめる。
彼はわずかに目を伏せたあと、白猫の水色の瞳をまっすぐに見た。
その瞳は、どこかリオに似ていた。
「……僕のことを、兄さんから何か聞いた?」
白猫は首を振った。
「……僕、好きな人がいるんだ。
兄さんの政略結婚の相手の女性。
まだ婚約は、調っていないけど。
兄さんは、僕に彼女を譲るために、家を出たんだ」
彼の瞳が、痛みをこらえるように細められる。
「……不便はない?
僕が兄さんにできることは、ある?」
「わからない」
「……そう」
青年は俯いた。
やがて、顔をあげて、淡く微笑む。
「……兄さんに、また来ると伝えて」
「……うん」
弟は、白猫に向かって深く頭を下げた。
そして、静かに踵を返して去っていく。
白猫は、ただ、その背を見ていた。
背の向こう。
空に浮かぶ雲は、さっきとは違う形をしていた。
風に揺れる胡桃色の髪。
白猫は背伸びして、手を大きく振る。
石畳の道の向こう。
リオが、ゆったりと帰ってきた。
「リオ! おかえり!」
「ただいま」
リオは、黒い鉄柵の門を押して入ってくると、門前にいた白猫に包みを渡した。
白猫は、それを高く掲げる。
「ミートボール!」
「そうだよ。今日の夜ご飯に。
白猫さんは、それが好きでしょ?」
「リオ! 好きだ! 抱っこしてくれ!」
「嫌だ」
リオは笑いながら家の中に入っていった。
白猫も、ミートボールの包みを大切に抱えて後を追う。
部屋に、紅茶の香りが満ちた。
リオは、部屋の中央のテーブルにカップを二つ置いた。
リオには紅茶。
白猫にはミルク。
リオが静かに席に着くと、白猫は椅子を引き寄せて隣に座った。
「リオ」
「ん?」
カップを口に当てていたリオが顔を上げる。
「交尾しようか」
リオはふっと笑った。
「……しないよ」
「じゃあキスしよう」
彼は片眉を上げる。
「猫は交尾のときにキスはしないでしょ」
「毛づくろいはする」
白猫が顔を寄せて、リオの頬を小さく舐めた。
リオは驚いて肩を震わせる。
彼は恐る恐る頬に指先で触れた。
「……痛くないんだね。猫の舌は痛いのに」
白猫は目を見開く。
「……よその猫に舐めさせたのか?
浮気じゃないか」
「何言ってんのさ」
リオが眉を寄せて白猫を見るが、彼女はそれを無視した。
白猫はため息をつくと、カップを持ち上げてミルクを飲む。
「……リオは優しい兄なのだな。
でも、もう少し自分に優しくしてもいいんじゃないか?
――そんなお前も好きだが」
壁時計の針の音。
リオがカップをテーブルに置いた。
彼は小さく息を吐く。
そして、席を立った。
白猫も、静かにカップを置く。
カップを揺らすと白い水面も揺れた。
――ふいに、白猫の大好きな香りに包まれる。
リオが白猫を、後ろからそっと抱きしめた。
白猫は、頬が熱くなった。
振り向きたいのに、なぜか振り向けなかった。
少しだけ、リオの腕に力がこもる。
やがて、彼は離れた。
木床を踏む音。
白猫が振り返ると、彼はいつもの仕事机に向かっていた。
「……リオ! もっと!!」
「……うるさい!」
リオの耳は赤かった。
白猫の頬も赤かった。
白猫は椅子の上で膝を抱えると、一人で笑った。
あたたかくて、くすぐったい。
紅茶の香り。
インクと紙の匂い。
そして、大好きな、彼の香り。
出窓から差し込む光は、今日も、やわらかかった。




