第十三話:十年の誓いと、溺愛の再契約。――「責任」という名の鎖で縛ったのは、私の方だ
「あ、あの、ギルベルト様……お迎えの馬車は……?」
「そんな悠長なものは待っていられません」
キョロキョロと周囲を見回して驚くユフィの腰を、ギルベルトは有無を言わさず片腕で抱き上げた。
「えっ、きゃあ!?」
フワリと体が浮いたかと思うと、そのまま彼の愛馬の背に乗せられ、自身もすぐさま背後に跨る。ピカピカに磨き上げられた純銀の甲冑がカチリと冷たい音を立て、ユフィは彼の逞しい胸板と腕の中に完全に閉じ込められた。
「……ユーフェミア殿下。もう二度と、貴女を私の腕の中から出さないと誓ったはずです」
耳元で響く、低く掠れた声。
分厚い甲冑越しなので彼の心音までは聞こえないが、自分の腰を囲う腕の力は、まるで絶対に獲物を逃がさない鉄の鎖のように一分の隙もない。
ギルベルトはそのまま馬を走らせ、王宮の離宮ではなく、王都の一等地にある自邸――レオンハルト辺境伯邸へと、彼女を「拉致」同然に連れ帰ったのだった。
屋敷に到着するなり、待ち構えていた侍女たち(こちらもギルベルトの『絶対に逃がすな』という指示により準備万端だった)によって、ユフィは瞬く間に浴室へと連行された。
「ああ、殿下! こんなに泥に汚れて……さあ、ピカピカに磨き上げますわよ!」
「えっ、ちょ、待って、自分で洗え……ひゃあっ!」
二週間の平民生活でついた汚れをあっという間に落とされ、最高級の香油でつま先から髪の毛一本に至るまで磨き上げられる。そして用意されていたのは、以前の「贈り物タワー」の中にもなかった、さらに最新の、彼女のハニーブロンドと柔らかな肌の色を最も美しく見せる真紅のドレスだった。
一方のギルベルトも、泥と血(※ならず者たちの)を落とし、ようやく人心地ついていた。
……いや、落ち着いてなどいない。
完璧に身支度を整えられたユフィが、侍女に促されておずおずとサロンへ案内されると、そこには既に甲冑を脱ぎ捨てたギルベルトが待っていた。
「……ユーフェミア殿下。こちらへ」
「あ……」
ユフィは思わず息を呑む。
そこにいたのは、いつもの隙のない第一級の正装姿ではない。純白のシャツのボタンを上からいくつか外し、濃紺のベストを羽織っただけの、少し着崩した姿。
まだ少し濡れた銀糸のような髪が額にかかり、そこから覗くターコイズグリーンの瞳は、獲物を狙う獣のような、あるいは熱に浮かされた恋人のような危うい色気を強烈に放っている。
「……遠いですね。もっと近くに」
ギルベルトは、座っているソファの自分のすぐ隣をトントンと叩いた。
戸惑いながらもそこに座ると、彼は即座にユフィの肩を引き寄せ、あろうことか、彼女のうなじから首筋にかけて顔を深く埋めるようにして、息を吸い込んだ。
「ギ、ギルベルト様……近い、近いです……っ!」
「二週間……二週間も、貴女の体温に触れられず、この甘い匂いも嗅げなかった私の身にもなってください。……狂いそうだった」
シャツ越しに伝わる彼のがっしりとした体温と、敏感な首筋に触れる熱い吐息。
これまで「王族への責任感」や「義務」だと思っていた彼の行動が、もっとドロドロとした、実体のある重たい『情熱』であることを突きつけられ、ユフィは心臓が口から飛び出しそうなほどにドギマギしてしまう。
「……さて。聞きたいことが山ほどあります」
甘い愛撫のような抱擁とは裏腹に、彼の声には逃亡を絶対に許さない、圧倒的な「主導権」が宿っていた。
「……なぜ、あんな悲しい手紙を置いて、私の元から逃げたのですか?」
首筋に唇を寄せたまま、逃げ場を塞ぐように紡がれた問いかけ。
その声の奥に潜む、かすかな震えと切実な響きに、ユフィはギュッと目を閉じた。
「……マリアンヌ様が、仰っていたんです。ギルベルト様には他に真実の愛を誓った方がいて、あの日の事故のせいで、心ならずも私に縛られているのだと……」
ぽつり、ぽつりと。ユフィが消え入りそうな声で白状すると、ギルベルトの動きがピタリと止まった。
彼のターコイズグリーンの瞳に、一瞬だけ、マリアンヌという存在そのものをこの世から氷結粉砕するような、絶対零度の殺意が閃く。しかし、腕の中のユフィを見つめ下ろした途端、それはひどく悲しげで、自嘲するような苦笑へと溶けていった。
「ユーフェミア様……。あのような女の浅ましい妄言を信じて、私から逃げたのですか。……私に恋人がいたことなど、この二十数年の人生で一度たりともありませんよ」
ギルベルトは大きな手でユフィの頬を包み込み、逃げ道を塞ぐように、その潤んだ瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「私の心にあるのは、十年前からただ一人……貴女だけです」
「十年前……?」
不意に告げられた長すぎる歳月に、ユフィはこてんと首を傾げる。
そんな彼女を、ギルベルトはまるで世界で一番壊れやすい硝子細工を扱うように、けれど絶対に逃がさない強さで、もう一度抱き寄せた。
「覚えていますか? 十年前、まだ幼かった貴女が、我がレオンハルト領を慰問された日のことを。あの年、ひどい干ばつと魔素の枯渇で荒れ果てていた大地を、貴女はその小さな手で癒し……最後には、己の限界を超えて熱を出し、倒れられた」
その言葉に、ユフィの脳裏に、霧の向こうにあった古い記憶が鮮明に蘇ってくる。
――確かに、幼い頃に地方へ行って、ひどく土の匂いがする乾いた大地に触れたこと。そして、泥だらけになって倒れ込み、数日間高熱にうなされたことがあった。
「あの日、泥だらけになりながら、見ず知らずの民のために涙を流して祈った貴女の姿に……私は魂を奪われたのです。一瞬で、永遠に」
ギルベルトの低い声が、懺悔のように紡がれる。
「だから、貴女に『責任』を取らせているのではありません。……あの夜会の事故を幸いに、私が、貴女を『責任』という名の鎖で縛り付けたのです。他の誰にも奪われないように、逃げられないように。……己の欲のために女神を騙した、狡猾で浅ましい男だと、どうか蔑んでくださっても構わない」
身を切るような彼の告白。
すべては自分を縛り付けるための、彼の強引な策略だった。
けれど、それを聞いたユフィの胸に広がったのは、怒りでも恐怖でもなく、どうしようもないほどの温かい歓喜だった。
「ギルベルト様……。そんな……蔑むなんて……っ」
ユフィは、彼の白いシャツの胸元を、すがるようにぎゅっと握りしめた。
見上げれば、最強の英雄が、まるで捨てられるのを待つ子供のように怯えた瞳でこちらを見ている。
「私……嬉しいです。責任感なんかじゃなくて、貴方が私を、私自身を選んでくれたことが。……私も、ギルベルト様が大好きです……!」
ユフィの口から真っ直ぐに返ってきた、熱い感情。
これまでのような「申し訳なさ」の混じった好意ではない、明確な「恋心」を帯びた彼女の告白。
その言葉が耳に届いた瞬間――ギルベルトの中で辛うじて形を保っていた理性のタガが、けたたましい音を立てて砕け散った。
「――ユフィ」
降ってきた唇は、夜会の時のようなどこか余裕のある触れ合いや、軽い事故などではなかった。
深く、熱く、彼女の吐息も思考もすべてを貪り食い、飲み込むような、圧倒的な激情に満ちていた。
「っ……あ、……ぁ……」
息が止まるほどの、甘く深い口付け。
ユフィは怒涛のような彼の情熱に翻弄され、頭の芯が痺れていくのを感じながらも、無意識に彼の首に腕を回し、その熱を必死に受け止めて応えようとする。
密着したシャツ越しに伝わる彼の心音は、まるで壊れた時計のように、あるいは早鐘のように激しく狂おしく打ち鳴らされていた。
「んっ……、……ぁ……」
そのまま彼女の華奢な体をソファに押し倒し、すべてを自分のものにしてしまいたい。
そんな獣のような衝動を、ギルベルトは断腸の思いで、己の奥歯が砕けるほどに噛み締めて踏みとどまった。
「……っ、はぁ、……危なかった」
荒い息を吐きながら、一度だけ自分から彼女の体を離したギルベルト。
けれど一秒も経たないうちに、今度は優しく、けれどユフィの骨が軋むほどに強く、その体を抱きしめ直した。
「……誰よりも、貴女を大切にしています。……だから、今は、これで我慢しましょう」
とろけるような甘い声。しかし次に続いたのは、英雄の皮を被った魔王の囁きだった。
「ですがユフィ、覚悟しておいてください。次に貴女が私の元から逃げ出そうとしたら……今度こそ私は、貴女を一生この屋敷から出さない、愛の牢獄を用意する」
「……はい、ギルベルト様。もう、どこにも行きません」
冗談ではなく本気で「牢獄(鳥籠)」を作る気満々の、天使のような、けれど独占欲全開の笑顔を見せたギルベルト。
そんな彼の重すぎる愛の鎖に、ユフィは満面の笑みで、幸せな降伏を宣言するのだった。




