第98章『戦い抜くための絶対的な力』
地下水門を塞いでいた巨石が打ち砕かれたことで、古都アンチルマの平原を覆っていた泥海は、日に日にその水位を下げていった。
大地を侵していた濁流が暗渠の奥へと吸い込まれていくたび、焦土と化していた街並みが少しずつその黒い骨組みを露わにしていく。
しかし、泥が引いたのは市街地だけではなかった。
かつて地下貯水池が存在し、ブランガの水計によって最も激しく陥落したアンチルマ城の直下——その抉られた泥の底から、誰もが予想だにしなかった「異形」が姿を現したのである。
「総督閣下! 妃殿下! 至急、地下暗渠の最奥へお越しください!」
息を切らせた工兵隊長が本陣へ駆け込んできたのは、水門開放からわずか数日後のことであった。その顔は恐怖と、それを遥かに上回る極限の興奮に上気している。
イリアード親王は、物資の差配を行っていたリゼリア、民の体調を労っていたセシリアを伴い、松明の灯る地下の空洞へと降りていった。
ひんやりとした湿気と、引いたばかりの泥の匂いが立ち込める暗闇を進む。やがて、水門の爆砕によって大きく陥落した大穴の前に辿り着いたとき、三人は揃って足を止め、言葉を失った。
松明の烈しい炎に照らされていたのは、アンチルマの土台となっていた古代王国の石組み……そのさらに下層から突き出すように現れた、見たこともない巨石の建造物であった。
それは、西方の大秦国すら遥かに遡る、神話の時代の「古代遺跡」であった。
崩落した土砂と泥が洗い流されたことで、数千年の眠りから目覚めた未知の神殿の入り口が、ぽっかりと口を開けている。さらに驚くべきは、その神殿の崩れた前庭に、泥にまみれながらも燦然と鈍い輝きを放つ、無数の「山」が存在していることだった。
「これは……すべて、金塊と、古代の宝石か……?」
セシリアが、信じられないものを見るように呟き、泥の中に埋もれた金色の延べ棒にそっと触れた。
遺跡の全容を調査した工兵たちの報告は、イリアードたちを戦慄させた。
そこにあったのは、かつての古代王国が東方進出の折、この地に隠匿したとされる伝説の「至聖不可侵の国庫」——すなわち、一国を数度買い戻せるほどの莫大な古代の財宝であった。金貨、純金の彫像、魔導の触媒となる希少な原石、そして錆びることのない古代の武具が、大穴の底に幾重にも積み重なっていた。
◇
「天は、私たちを見捨ててはいなかったわ」
親王妃リゼリアが、震える手で胸元を押さえながら、夫イリアードを見上げた。
「殿下、これだけの財源があれば、帝都の尚書省やシュタインベルク家からの予算がどれほど削られようとも、完全に孤立してでもアンチルマを再建できる」
「いや、それだけではない」
イリアードの瞳に、鋭く、そして野心的な光が宿った。
「これほどの財宝だ。帝都の狐どもに知られれば、必ずや『国家の資産』と言い掛かりをつけて没収しにくる。……この発見は、絶対に隠匿せねばならぬ。この地下遺跡を軍の厳重な管理下に置き、財宝は少しずつ、キャニオンポートの商人たちを通じて物資や兵糧へと形を変えるのだ」
イリアードの冷徹な決断により、古代の遺産はアンチルマ再建の「隠された心臓」となった。
地下から秘密裏に汲み上げられる莫大な黄金は、即座に現実の「質量」となって地上へと還元された。
資金不足で滞っていた建築資材の買い付けは、倍以上の規模で再開。キャニオンポートからは連日、数千頭の馬車に積まれた極上の木材、鉄鉱石、そして前線の兵士十三万と数万の民を数年養ってもお釣りが来るほどの大量の小麦と干し肉が、アンチルマへと流れ込み始めた。
「新しい家が建つぞ!」
「今日からの炊き出しは、なんと白米と肉のシチューだ!」
焦土に、民たちの割れんばかりの歓声が響き渡る。
金が潤沢にあるということは、民への労働の対価として、正当な「給金」を支払えるということでもあった。ただの奉仕活動から、未来を創るための「仕事」へと変わったことで、避難民たちの士気は狂気的なまでに跳ね上がった。
セシリアは、給金を手にして涙を流す老婆の肩を優しく抱きしめ、リゼリアは新しく買い付けられた医療品で、次々と病人を癒していった。
泥海だった平原には、古代遺跡の強固な石材を転用した新たな防波堤が築かれ、焼き払われた市街地には、以前よりも遥かに碁盤の目が整った「強固な石造りの新都市」が、驚異的な速度でその姿を現し始めていた。
◇
アンチルマの復興が「わずか数か月」で奇跡的な加速を見せているという報せは、やがて帝都オクタヴィアの白亜宮へと届くこととなる。
「馬鹿な……! 予算も兵糧の追加も、我が尚書省がすべて握って止めているのだぞ!」
司徒リヒャルト・フォン・シュタインベルクは、届けられた現地の偵察報告書を握り潰し、その老いた顔を怒りで歪ませていた。
「なぜ十三万の軍勢が飢えず、数万の民が暴動も起こさず、それどころか新しい城壁が完成しつつあるのだ!? イリアードめ、一体どこからそれほどの『金』を湧き出させている!」
帝都の文官たちも、軍部のヴァレリオ太尉も、この不条理な現実に背筋を凍らせていた。彼らが干し殺そうとしていた西方の猛虎は、帝都の仕掛けた経済の枷などあざ笑うかのように、独自の莫大な富を得て、巨大な「独立王国」へと変貌しつつあったのだ。
一方、その報せは、西方の大草原の果て——。
片目を失った覇王エスゲイに代わり、グラッデェの全軍権を掌握した次男の英雄ベグの元にも届いていた。
「……古代の遺跡、か」
大秦国を滅ぼした際の主功者であるベグは、不気味な薄笑いを浮かべながら、愛刀の刃を静かに研いでいた。
「あのブランガが死に、今度は帝国の若き親王が、遺産の上に城を築いているというわけだ。面白い……。あの肥沃な東方の地が、ただの焦土のままであれば踏み潰す価値もなかったが、再び黄金で満ちたというのなら、今度こそ我が鉄蹄で全てを略奪し尽くしてやろう」
アンチルマの泥の底から溢れ出た古代の黄金。
それは、古都を救う奇跡の血肉であると同時に、帝都のさらなる嫉妬と、草原の獣たちの飽くなき飢えを呼び寄せる、新たなる「戦乱の呼び声」でもあった。
篝火に照らされた新城壁の上で、イリアードは二人の妻と共に、満天の星空を見上げていた。彼らの手には、未来を戦い抜くための絶対的な力が握られていた。




