『古代の黄金を手にした猛虎』
アンチルマの泥の底から汲み上げられる古代の黄金は、古都の姿を瞬く間に変えていった。だが、イリアード親王がその富で買い求めたのは、石材や兵糧だけではなかった。彼は、帝都オクタヴィアの「情報」をも、黄金の力で買い漁っていたのである。
「殿下、帝都からの密使が到着いたしました」
深夜の総督府、鋭い眼光の側室セシリアが、一人の男を密室へと引き入れた。男は泥に汚れた旅装を脱ぎ捨てると、若き皇帝アラリックの私印が押された、極小の絹布の書状をイリアードへと差し出した。
親王妃リゼリアが、男に温かい葡萄酒を注いで労う傍らで、イリアードは書状に目を走らせた。
書状に記されていたのは、兄アラリックの血を吐くような「孤立」と、帝都の腐敗の極みであった。司徒リヒャルト・フォン・シュタインベルクは、アンチルマの復興が独力で進んでいることに激しい危機感を抱き、皇帝への監視をさらに強めていた。今や皇帝の食事から発言まで、すべてがシュタインベルク家の操り人形と化しつつあったのだ。
「兄上は、内側から門閥貴族の手足をもぎ取る機会を待っておられる」
イリアードは書状を蝋燭の炎で焼き捨てながら、冷徹に告げた。
「シュタインベルク家をはじめとする中央貴族どもは、このアンチルマの富を、ただの『地方の成金』程度にしか思っていまい。だが、彼らが金に目が眩み、油断している今こそが、帝都を奪還する唯一の好機だ」
イリアードの脳裏には、潤沢な黄金を背景にした、壮大な「帝都奪還計画」の青写真がすでに描かれていた。
それは、武力による強引な都への進軍ではない。そんなことをすれば、帝国は完全に内戦へと突入し、西方のグラッデェに漁夫の利を与えてしまう。目指すは、宮廷の「内側」からの崩壊であった。
◇
数日後、アンチルマから帝都オクタヴィアへ向けて、例年を遥かに上回る規模の「特産品と賄賂の馬車」が極秘裏に出発した。
馬車に積まれていたのは、古代遺跡から発掘された貴重な香料、魔導原石、そして帝都の鋳造所では見られない、純度極高の古代の金貨である。
「ゲオルグ殿、マートル殿。アンチルマの新総督より、日頃の無礼を詫びるための『些少な品』にございます」
イリアードの手先となったキャニオンポートの豪商たちが、中央官僚派の重鎮たちへと、目を剥くような黄金をばら撒き始めた。
昨日までイリアードを「危険な英雄」と呼び、兵糧攻めを企てていた貴族たちは、その圧倒的な富の前に手のひらを返した。
「ふむ、イリアード殿下もようやく大人の付き合いが分かってきたようだな」
「あの泥の地から、これほどの富が出るとは。やはりボルゲーゼの武骨者どもに任せなくて正解であった」
ゲオルグやマートルらは、シュタインベルク家への対抗資金として、その黄金を喜んで懐に収めた。
だが、それこそがイリアードの罠であった。黄金と共に帝都に送り込まれたのは、親王軍の精鋭が変装した「密偵」たちであり、彼らは賄賂を受け取った貴族たちの弱みや、宮廷の防衛体制、近衛軍の将校たちの買収工作を、静かに、しかし確実に進めていった。
シュタインベルク家を支える大貴族たちの足元は、イリアードの黄金という名の「白蟻」によって、内側からじわじわと食い荒らされていったのである。
◇
帝都オクタヴィア、白亜宮の奥深く。
皇帝アラリックは、祖父リヒャルトから差し出された尚書省の書類に、無感情にサインを続けていた。
「陛下、アンチルマのイリアード殿下は、最近ゲオルグらへ熱心に贈り物を届けているようです。所詮は前線の小倅、中央の権力者に命乞いをしているのでしょう」
尚書令ジョヴァンニが、傲慢な笑みを浮かべて報告する。
「そうか。弟も、ようやく我が帝国の『序列』を理解したようだな」
アラリックは冷ややかに応じた。その芝居がかった無能な君主の振る舞いに、リヒャルトは完全に満足し、若き皇帝への警戒を緩めていった。
しかし、リヒャルトたちが退出した直後、アラリックの傍らに立つ皇后ロザリアが、隙のない動作で一枚の薄い紙片を皇帝の袖へと滑り込ませた。
シュタインベルクの血を引きながらも、完全にアラリックの「影」となったロザリアがもたらしたのは、イリアードからの最終作戦の合図であった。
『準備は整った。近衛軍の三割を買収、中央官僚派の連判状(弱み)を掌握。六月二十日、アンチルマの貢納部隊を装った精鋭三千が、白亜宮の西門に到達する。兄上、内から門を開けられたし』
アラリックは、紙片を口の中に放り込み、噛み潰して飲み込んだ。その瞳には、かつてない狂おしいほどの歓喜と、冷酷な決意が宿っていた。
「祖父上、ジョヴァンニ……。お前たちが大理石の床の上で利権を貪る日々も、あと数日だ」
◇
帝国歴304年6月19日。作戦決行の前夜。
再建されたアンチルマの新城壁の上で、イリアードは二人の妻を連れて、帝都の方向を見据えていた。
「イリアード、本当に明日、行くのね」
親王妃リゼリアが、夫の夜着の袖を強く握りしめた。彼女の知性は、明日の作戦が成功しても失敗しても、帝国の歴史が血で塗り替えられることを理解していた。
「心配するな、リゼリア」
イリアードは妻の頭を優しく撫でた。
「ここに十三万の主力は残していく。西方のグラッデェに対する備えは完璧だ。私が連れていくのは、セシリアが鍛え上げた、影の戦士たち三千のみ。武力で都を落とすのではない。腐った巨木を、最後の一押しで倒しにいくのだ」
セシリアは、自らの短剣の刃を夕闇の中で確かめながら、不敵に微笑んだ。
「殿下、帝都の文官どもは、本物の戦というものを知りません。明日、彼らは自らが飼い慣らしていたと思っていた『黄金』が、自分たちの首を絞める索に変わる恐怖を知るでしょう」
アンチルマの民たちは、自分たちの総督が帝都へ向かう本当の理由を知らなかった。ただ、自分たちに豊かな暮らしと家を与えてくれた若い英雄のために、一斉に篝火を焚き、その旅路の無事を祈って神に祈りを捧げていた。
泥の海から這い上がり、古代の黄金を手にした猛虎。
その牙は、裏切りに満ちた帝都オクタヴィアの、最も脆い喉元へと今、真っ直ぐに突き立てられようとしていたのであった。




