第97章『総督の布告とその先の希望』
かつて大陸東方の真珠とまで讃えられた古都アンチルマは、見る影もなく変貌していた。
地下水門の崩壊によって溢れ出した濁流は、周辺の豊かな畑地や街道を底なしの泥海へと変え、初夏の陽光に照らされた泥水が不気味な鈍色の光を放っている。そして、その中央に佇むアンチルマの市街は、覇王エスゲイ・バールの放った炎によって完全に焼き尽くされ、黒く焦げた石壁だけが墓標のように乱立する、静寂の廃墟と化していた。
そこへ、大河コミュシュルツの方向から、数万の避難民と五千のアルヴェリア親王軍の縦隊がゆっくりと姿を現した。
「これが……私たちの、アンチルマ……」
隊列の先頭を行く親王妃リゼリアは、愛馬を止め、目の前に広がる凄惨な光景に息を呑んだ。隣に並ぶ側室のセシリアも、胸の前で手を固く握り締め、あまりの惨状に言葉を失っている。後ろに続く民たちからも、悲痛な呻き声や、嗚咽が漏れ聞こえてきた。藩地で決意を固めてきたとはいえ、現実に突きつけられた「故郷の死」は、彼らの心を激しく打ちのめした。
だが、その絶望の静寂を破るように、瓦礫の隙間から何条もの鋭い金属音が響いてきた。
カン、カン、カン、と、石を穿ち、木を削る力強い音が焦土に木霊している。
リゼリアたちが音のする方へと視線を向けると、そこには、すでに甲冑を脱ぎ捨て、泥に塗れながら巨大な梁を動かしている屈強な男たちの姿があった。オーレリア帝国軍の兵士たちだ。十三万の帝国軍は、ただ武器を持って佇んでいるのではなかった。彼らはすでに、この廃墟を再生するための「職人」として動き始めていたのだ。
「リゼリア! セシリア!」
焦土の向こうから、一騎の軍馬が泥を撥ね上げてこちらへと駆けてくる。
白銀の甲冑のあちこちに黒い泥を付着させ、しかしその双眸に確かな知性と力強さを宿した若い将——アンチルマ新総督、イリアード親王であった。
◇
「殿下!」
セシリアが叫び、リゼリアもまた安堵の表情を浮かべて馬を進めた。
イリアードは二人の妻の前で馬を止めると、その逞しい腕で二人を順に抱きしめた。帝都オクタヴィアの権力闘争から離れ、この不毛の死地でようやく、三人は本来の家族の絆を取り戻したかのようであった。
「よくぞ、民を連れてきてくれた。二人の尽力に感謝する」
イリアードの顔には疲労の色があったが、その声は驚くほどに張りがあった。
「イリアード、街の状況は……想像以上に入り組んでいるわ。地下水門の修復を進めなければ、この泥はいつまでも引かない」
リゼリアが周囲を見回しながら実情を口にすると、イリアードは力強く頷いた。
「ああ。だが、絶望する必要はない。すでに工兵部隊を地下暗渠へと潜らせ、崩落箇所の特定を始めている。そして何より——」
イリアードは、二人の後ろに佇む数万の避難民たちへと視線を向けた。彼らの顔にはまだ恐怖と困惑が残っていたが、兵士たちが懸命に働いている姿を見て、その瞳に僅かな火が灯り始めている。
イリアードは高頭の馬上で、民たちに向けて声を張り上げた。
「アンチルマの同胞たちよ! 私は新たな総督、イリアードである! 見ての通り、我らの故郷は泥に沈み、灰に塗れている。帝都の貴族どもは、この地を『死地』と呼び、我らが絶望して這い蹲るのを待っている!」
イリアードの言葉は、広場に集まった群衆の胸へと突き刺さった。
「だが、我らは生きている! 兵も、民も、この地に足をつけ、呼吸をしている! 敵がすべてを焼き尽くしたというのなら、我らはその灰を肥料にして、より強固な、より美しいアンチルマを築き上げるまでだ! 本日より、兵と民の垣根をなくす。軍の兵糧はすべて民へも分配する。共に泥を掻き出し、共に家を建てよう!」
ウオオオオオ! と、五千の親王軍、そして現地で働いていた兵士たちが一斉に歓声を上げた。その熱気に押されるようにして、避難民の男たち、そして女性たちもが、次々と拳を突き上げ始めた。
◇
復興の第一歩は、驚くべき速度で開始された。
知略に長けたイリアードの指揮のもと、十三万の軍勢と数万の民は、瞬く間に効率的な「組織」へと再編されていった。
親王妃リゼリアは、キャニオンポートから運び込まれた物資の管理と、臨時の救護所の設営を指揮した。彼女の的確な差配により、傷病者や幼い子供たちへの炊き出しが滞りなく行われ、民たちの間に「飢えの恐怖」が広まるのを防いだ。
一方、側室のセシリアは、泥まみれになりながら民たちの間を泥臭く回り、彼らの不満や要望を聞き取っていった。
「セシリア様、北の区画の井戸から泥水しか出ません!」
「分かったわ、すぐに工兵隊に連絡して、新しい水源を確保させます。それまで、この清めの水を使って」
彼女の細やかな気配りと、高貴な身分でありながら民と同じ泥を被る姿勢は、避難民たちの心をどれほど救ったか計り知れない。兵と民の心が、セシリアという存在を通じて一つに結びついていった。
そしてイリアードは、軍の精鋭を率いて、最大の難所である「地下水門の爆砕跡」へと降り立っていた。
崩落した巨大な石材が水路を塞ぎ、泥水を堰き止めている。これを排除しなければ、平原の泥濘は永遠に乾かない。
「総督閣下、中央の楔石を破砕せねば、周囲の瓦礫は動きませぬ。しかし、一歩間違えれば、再び大規模な崩落が起き、作業部隊が生き埋めになります」
工兵隊長が青ざめた顔で進言する。
「私が先頭に立つ」
イリアードは迷いなく、手にした大槌を強く握り直した。
「この最初の楔を打ち砕くのは、総督である私の役目だ。いくぞ!」
イリアードが放った渾身の一撃が、崩落した黒い巨石の割れ目へと叩き込まれた。
ガギィィン! と火花が散り、英雄の腕を伝って凄まじい衝撃が走る。それに続くように、百人の兵士と、ボロを纏った民の志願兵たちが一斉に槌を振り下ろした。
何度も、何度も、泥の底で金属音が響き渡る。
そして、ついに。
バリバリ、と不気味な亀裂の音が響いた直後、中央の巨石が真っ二つに割れ、堰き止められていた泥水が、轟音を立てて暗渠の奥へと流れ出し始めた。
「流れたぞ!」
「水が引いていく!」
地下から湧き上がった歓声は、地上の廃墟へと伝わり、アンチルマ全体へと広がっていった。
それは、グラッデェの質量に圧殺され、帝都の陰謀に縛られていた東方の地が、自らの力で息を吹き返した瞬間であった。
夕闇が迫る中、僅かに泥の引いたアンチルマの焦土には、無数の篝火が灯されていた。
リゼリアとセシリアが用意した温かいスープを啜りながら、兵と民が肩を並べて笑い合っている。
その様子を、再建された仮初めの本陣から見つめるイリアードの瞳には、希望の光があった。




