第96章『忘れえぬ故郷と共に行く決意』
大河コミュシュルツの川面を渡る風は、初夏の匂いを含みながらも、どこか物悲しく吹き抜けていく。
古都アンチルマ側のフェルゼンヴァルデン砦、港町キャニオンポート、そして帝都オクタヴィア側のグリムシュルヒト砦——。これら三つの要衝に囲まれた中央の平原に、無数の粗末な木造小屋と天幕がひしめき合う場所があった。
「アンチルマ避難民藩地」。
そこは、昨年——帝国歴303年春に、騎馬民族グラッデェ十五万の鉄蹄によって古都アンチルマが陥落した際、命からがら逃げ延びた数万人の市民や領民を収容するために作られた集落であった。
着の身着のままで故郷を追われ、絶望の底にあった人々を救い、この大規模な避難所を造営したのは、アルヴェリア親王イリアードと、彼の二人の妻——親王妃リゼリア、そして側室のセシリアであった。簡易的な造営が終了してからは、軍務に忙殺されるイリアードに代わり、主にリゼリアとセシリアの二人が、細やかな知恵と慈愛をもってこの藩地の運営を担ってきたのである。
「姉様、本日分の炊き出しの穀物が届きました。それと、東の区画で新しく生まれた赤子の容態も安定したとのことです」
藩地の中心にある素朴な木造の詰所で、側室のセシリアが書類を胸に抱えながら報告した。彼女の柔和な顔立ちには日々の激務による疲労が滲んでいたが、その瞳には避難民たちに寄り添い続ける確かな意志が宿っている。
「ありがとう、セシリア。あなたが毎日、各区画を細かく回ってくれるおかげで、大きな暴動も起きずに済んでいるわ」
親王妃リゼリアは優しく微笑み、セシリアの労をねぎらった。リヒャルトら帝都の門閥貴族たちが利権を貪り合っている間、彼女たちはこの泥臭い藩地で、数万の民の「命」と直接向き合い続けてきたのだ。
ちょうど一年が経とうとしていた。
最初は誰もが「一時的な仮住まい」だと思っていたこの藩地も、時が経つにつれ、簡易的な市場が立ち、子供たちの笑い声が響くようになり、人々はここでのささやかな生活に慣れ、奇妙な親しみさえ感じ始めていた。
しかし、そんな穏やかな日常を破る風が、再び西方から吹き付けたのは、帝国歴304年5月のことであった。
◇
前線から届いた報せは、あまりにも凄絶なものであった。
新興の将ブランガ・オデュヌが占拠していた古都アンチルマを、グラッデェの全軍が再び急襲。激戦の末にブランガは殺害されたが、グラッデェの首領エスゲイ・バールもまた、あまりにも多くの身内と精鋭を失ったことに失意し、狂気のごとく古都アンチルマを焼き尽くして、西の大草原へと立ち去ったという。
残されたのは、水計によって泥の海と化し、覇王の怨嗟によって完全に焼き払われた、不毛の廃墟であった。
そして明くる6月、帝都オクタヴィアの皇帝アラリックは、弟であるイリアード親王を「アンチルマ総督」に任命。イリアードは自ら率いる帝国軍十三万の兵と共に、焦土となった故郷を蘇らせるべく、すでに出陣の途に就いていた。
「姉様。親王殿下の本隊が、アンチルマの境界へ向けて進軍を開始されたそうです。……私たちも、決めなければなりませんね」
セシリアが静かに告げた。詰所の窓の外では、アンチルマの崩壊と再建のニュースを聞きつけた避難民たちが、不安と期待の入り混じった表情で集まり、ざわざわと議論を戦わせているのが見えた。
「ええ。彼らにとって、ここはもう『ただの避難所』ではないわ。だけど、故郷を捨てたわけでもない。……みんなに、問いかけましょう」
リゼリアは決意を秘めた表情で立ち上がり、藩地の中央にある広場へと向かった。
広場には、またたく間に数千人の避難民たちが集まった。衣服はどれも継ぎ接ぎだらけで、顔は煤や泥に汚れている。しかし、その全員の視線が、高台に立った二人の高貴な女性へと真っ直ぐに向けられていた。
リゼリアは、集まった民たちの顔を一人一人見つめるように、ゆっくりと視線を巡らせた。
「アンチルマの同胞たちよ。すでに耳にしている者も多いでしょう。私たちの故郷アンチルマから、グラッデェの脅威は去りました。……しかし、戦いの爪痕はあまりにも深く、残酷です」
リゼリアの声は、広場に集まった群衆のざわめきを静めていった。
「古都周辺は、あの激しい戦闘の際、地下水門が崩壊したことにより、いまや一面の泥の海となっています。さらに、撤退する敵の手によって街のすべてが焼き尽くされ、文字通りの『完全な焼野原』と化しているのが、現在の厳しい状況です。家も、畑も、かつて私たちが愛した美しい街並みも、そこには何一つ残されていません」
民たちから、小さく悲痛な溜息が漏れた。中には、あまりの絶望的な状況に、その場にへたり込んで泣き始める老人や女性の姿もあった。この藩地での一年間の生活で、ようやく心の傷が癒えかけていた彼らにとって、故郷が「泥と灰の死地」になったという現実は、あまりにも重かった。
◇
リゼリアは一歩前に出ると、さらに声を張った。その瞳には、民を導く王妃としての、力強い光が宿っていた。
「故郷に戻りたいという皆さんの気持ちは、痛いほどによく分かります。ですが、あそこへ戻るということは、飢えと泥に塗れながら、一から石を積み上げるという、果てしない苦難の道を歩むということです。……だからこそ、私は皆さんに問いかけたい。このまま、慣れ親しんだこの藩地に留まり、新しい平穏を築くか。それとも、どれほどの苦難が待ち受けていようとも、あのアンチルマの地へ戻り、私たちの故郷をもう一度、自らの手で再建するか」
広場は、水を打ったような静寂に包まれた。民たちは互いに顔を見合わせ、葛藤していた。ここでの生活は決して豊かではないが、安全だ。しかし、あの美しかった古都の記憶が、彼らの胸の奥で燻り続けているのも事実だった。
沈黙の中、今度は側室のセシリアが、リゼリアの隣へと並び立った。彼女の声音は、どこまでも優しく、しかし確かな温かさで民たちの背中を押した。
「もし、皆さんが『それでも戻る』というのなら……、私たち親王妃リゼリアと、このセシリアも、皆さんと共にアンチルマへ行きます」
その言葉に、民たちがハッと顔を上げた。
「殿下が率いる十三万の本隊は、西方の防衛のために動かなければなりません。ですが、ここには殿下が私たちのために残してくださった、アルヴェリア親王軍の精鋭五千の兵がいます。彼ら五千の将兵もまた、皆さんと共にアンチルマへ同行し、泥を掻き出し、木を切り倒し、共に復興のためにその力のすべてを尽くすと、約束いたします」
「リゼリア様……セシリア様……!」
群衆の中から、一人の男が声を震わせながら一歩前に出た。かつてアンチルマで石工を営んでいた男だった。涙を流しながら叫んだ。
「俺は……俺は戻りたいです! 家が焼かれ、街が泥に沈んでいようとも、あそこには俺たちの先祖が眠っている! 殿下や妃殿下たちが、俺たちのような雑兵や民と共に泥に塗れてくださるというのなら、この命、何度でもアンチルマの復興に捧げます!」
「俺もだ!」
「私も戻るわ! 私たちの街を取り戻すのよ!」
一人の叫びは、またたく間に広場全体へと伝染し、数万の避難民たちの地鳴り劇な咆哮へと変わっていった。絶望の泥海へと向かうはずの決意は、リゼリアとセシリア、そして五千の親王軍が「共に歩む」という言葉によって、未来への不屈の希望へと昇華したのである。
「分かりました。では、行きましょう、私たちの故郷へ」
リゼリアは満面の笑みを浮かべ、民たちに向けて強く頷いた。
帝国歴304年6月。
総督に任じられたイリアード親王の十三万の大軍が西方の前線を見据える中、アンチルマの避難民藩地からは、二人の妃に率いられた数万の民と五千の親王軍が、瓦礫と泥の広がるアンチルマへ向けて、力強い歩みを開始したのであった。




