第95章『復興の狼煙』
「アンチアルマの新たな総督に——アルヴェリア親王イリアードを任ずる」
白亜宮の私邸、冷たい雨のそぼ降る夜の終わりに、皇帝アラリックが放ったその一言は、帝都の闇で蠢いていたすべての陰謀を真っ向から叩き潰す、文字通りの「奇手」であった。
翌朝、再び緊急で招集された朝議の大広間は、昨日以上の混沌と、形容しがたい静寂に包まれていた。
高窓からの光を浴びた貴族たちの顔は一様に青ざめ、互いに目配せを交わしながら、玉座の若き君主の意図を測りかねていた。
「へ、陛下……! 今、何とおっしゃいましたか?」
最初に沈黙を破ったのは、軍部の巨頭、太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼであった。彼の野獣のごとき眼光は、驚愕のあまり見開かれている。
「イリアード殿下はすでに、フェルゼンヴァルデン砦にて十三万の帝国軍を掌握しておられる前線の要! その殿下に、さらにアンチアルマ総督の地位まで与えるなど……! それでは西方の軍権と内政権のすべてを、一人の若者に握らせることになりまするぞ!」
「太尉の言う通りにございます!」
中書令マートル・フォン・ブライトクロイツが、激しく扇を打ち鳴らして同調した。中央官僚派のゲオルグも、いつもの老獪な薄笑いを完全に消し去り、厳しい表情で玉座を見上げている。
「一人の皇族への権力の過度な集中は、帝国の全土のバランスを崩しかねません! 司空ベアトリクス殿の土木省を差し置いて、前線の軍人に復興予算の全権を委ねるなど、到底承服いたしかねます!」
軍部と中央官僚派。昨日までアンチアルマの利権を巡って醜く罵り合っていた両派閥が、イリアードという「巨大すぎる英雄」の台頭を前に、瞬時に手を結んで猛反発を始めたのだ。
だが、彼らがどれほど声を荒らげようとも、玉座のアラリック皇帝は眉一つ動かさなかった。その瞳には、昨夜の空中庭園で見せた絶望の影はなく、ただ冷徹な絶対者の光だけが宿っている。
「喧しいと言ったはずだ、諸卿」
アラリックは平坦な、しかし有無を言わせぬ声で全高官を圧した。
「ボルゲーゼ領はもとより、アンチアルマ一帯はグラッデェの三十五万とブランガの狂乱によって焦土と化し、いまだ泥の海だ。いつ西方の獣どもが再び東進してくるかも分からぬこの国難の折に、帝都の温室でぬくぬくと育った文官や、私怨に狂うボルゲーゼの者に、あの死地を任せられると思うか?」
アラリックは上座から、居並ぶ重臣たちを冷ややかに見下ろした。
「十三万の兵を飢えさせることなく掌握し、グラッデェの残党を完全に抑え込んでいるのは誰だ? 異母弟イリアードをおいて他にない。彼こそが、泥に沈んだ古都を再建し、同時に西方の盾となり得る唯一の男だ。これ以上の反論は、帝国の防衛を軽視する利敵行為とみなす」
「くっ……!」
ヴァレリオは拳を血が出るほどに握り締め、マートルは言葉を失って引き下がった。皇帝の正論の前に、私利私欲にまみれた彼らの反論は、あまりにも無力であった。
◇
この劇的な決定を、玉座のすぐ傍らで最も冷徹に見つめていた男がいた。
三公の長、司徒リヒャルト・フォン・シュタインベルクである。
現帝国の民政・内政を完全に掌握するこの老政治家は、孫である若き皇帝の「裏切り」に、内心で激しい怒りを燃やしていた。
(アラリックめ……、シュタインベルクの血を引く傀儡でありながら、余の頭越しにこのような大博打に打って出るとはな)
リヒャルトの当初の計算では、無能な中立派を総督に据え、尚書省が前線の兵糧の「紐」を握ることで、イリアードをじわじわと干し殺すはずだった。しかし、イリアード自身が総督となり、内政権と復興予算の執行権まで手にしてしまえば、帝都からの兵糧攻めなど通用しなくなる。現地で独自に財政を回し、十三万の軍勢を完全に「私兵化」することが可能になってしまうのだ。
朝議が終わり、重臣たちが重い足取りで退出していく中、リヒャルトは尚書令の息子ジョヴァンニを伴い、皇帝の前に進み出た。
「陛下。見事な御決断にございます。……されど、イリアード殿下へ与える権能があまりに大きすぎる。これは両刃の剣。万が一、殿下に邪心が芽生えたとき、帝都オクタヴィアを脅かす最大の『叛逆者』となり得ることを、お忘れなきよう」
リヒャルトの言葉は、恭順の形を取りながらも、明らかな脅迫であった。「これ以上余を怒らせれば、イリアード共々お前を玉座から引きずり下ろす」という、老権力者の暗い警告。
アラリックは、祖父の歪んだ瞳を正面から見据え、ふっと皮肉な笑みを浮かべた。
「邪心か。もし弟がこのオクタヴィアに刃を向けるというのなら、それも良かろう。……その時は、この白亜宮で死体の衣服を剥ぎ取り合っているお前たちから、真っ先に血祭りに上げてくれるはずだ」
「……っ」
リヒャルトは僅かに息を呑み、それ以上は何も言わずに深く頭を下げて退出した。
若き皇帝は、すでにシュタインベルク家の操り人形であることを止めていた。己の玉座を危うくしてでも、帝都の「泥沼」をかき乱すために、西方の「猛虎」に翼を与えたのだ。
◇
帝都オクタヴィアの政変から数日後。
その衝撃の報せは、早馬によって遥か西方、フェルゼンヴァルデン砦のイリアード親王の元へと届けられた。
堅牢な石造りの本陣。
二十二歳になる若い英雄、イリアード親王は、届けられた皇帝の親書を読み終えると、静かにそれを机の上に置いた。彼の周囲に控える将軍たちは、その内容を知るや否や、驚愕と興奮に沸き立っていた。
「殿下が、アンチアルマの総督に……!? 陛下はいったい何を考えておられるのだ」
「帝都のシュタインベルクどもが、これを黙って許すはずがない。これは、罠ではないのですか?」
将領たちの動揺を余所に、イリアードは立ち上がり、高窓から外の景色を見つめた。
砦の向こうには、かつてブランガ・オデュヌがグラッデェ三十五万を迎え撃ち、いまや一面の泥の海と焦土と化した古都アンチアルマの地平が広がっている。そしてそのさらに西には、傷を癒しながら不気味な沈黙を保っている騎馬民族の大草原があった。
イリアードの美しい顔立ちには、兄である皇帝アラリックと同じ、どこか冷徹で深い思慮が宿っていた。
「罠か、あるいは……兄上からの、最期の『賭け』か」
イリアードはぽつりと呟いた。
彼は、帝都の兄アラリックが、シュタインベルク家をはじめとする門閥貴族たちの重圧のなかで、どれほど孤独に耐えているかを知っていた。この総督の椅子は、利権の塊であると同時に、帝都の全貴族を敵に回す「死の宣告」でもある。兄は、自分という存在を最大の武器として、帝国の腐りきった内部に突き立てたのだ。
「面白い。荒れ果てたこの西方の地、私が引き受けよう」
イリアードは腰の剣の柄に手をかけ、鋭い眼光を放った。
「全軍に告げよ! これより我が軍はアンチアルマへと進軍、古都の再建と防衛線の再構築を開始する」
「応!!」
十三万の帝国軍の咆哮が、西方の荒野に響き渡ったのであった。




