第94章『権力の迷宮』
朝議が散会し、大理石の大広間から貴族たちが去った後も、白亜宮の回廊には目に見えない火花が散り続けていた。
「新たな総督」という果実が、泥に沈んだ古都アンチアルマの地平に実ったのだ。それは単なる地方官の椅子ではない。西方の軍権を握るイリアード親王の十三万の軍勢と結びつき、莫大な復興予算を我が物とし、さらには未来の帝国の覇権を左右する「要の楔」であった。
「ヴァレリオの猪め、吠えることしか能がないな」
白亜宮の西翼、豪奢な私邸の書斎にて、侍中ゲオルグ・フォン・フェルゼンは薄笑いを浮かべながら極上のワインを口に含んだ。その対面に座るのは、中書令マートル・フォン・ブライトクロイツである。
「しかしゲオルグ殿、ヴァレリオの執念を侮ってはなりません」
マートルが不快そうに扇をパチリと閉じた。
「甥のイザークを殺されたボルゲーゼ家にとって、アンチアルマは血の宿怨の地。自派閥の者を総督に送り込み、失った南西部の利権を力尽くで奪い返す腹づもりでしょう。すでに軍部の若手将校たちを抱き込み、皇帝へ直訴する準備を進めているとの噂です」
「軍人に政治はできんよ、マートル殿」
ゲオルグの細い目が、冷酷な光を放った。
「あそこは水攻めによって一面の泥海だ。今必要なのは武力ではなく、民を動かし土木を統括する『金』と『知恵』。司空ベアトリクス殿をこちらの神輿として担ぎ上げ、財政難を理由にボルゲーゼの要求を朝廷で圧し潰す。総督の座には、我が派閥の若き能吏を据えるべきだ」
二人の老獪な政治家は、互いの利益のために杯を掲げた。しかし、彼らの視線はすでに、互いの腹の底を探り合う陰険さに満ちていた。中央官僚派の結束もまた、利権の前には一枚岩ではなかった。
◇
同じ頃、帝都の軍部総督府の一室では、全く異なる熱気が渦巻いていた。
「財政だと? 狐どもの御託など聞いておれるか!」
太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼが、重厚な机を拳で叩き割らんばかりに激昂していた。その周囲には、前線から帰還した傷だらけの将軍や、門閥貴族に反発する若き軍官たちが居並んでいる。
「ブランガの犬めが戦死したとはいえ、ボルゲーゼ家の名誉は未だ泥に塗られたままだ。アンチアルマの総督の座を文官どもに渡してみろ。奴らは復興の予算を懐に納め、西方の守りを骨抜きにするに決まっている。再びグラッデェの鉄蹄が迫ったとき、血を流すのは我ら軍人なのだぞ!」
ヴァレリオは机の上に、一枚の羊皮紙を叩きつけた。そこには、軍部の有力者たちの名と、赤黒い「血判」が押されている。
「陛下は若く、シュタインベルクの老害どもに目を曇らされている。だが、異母弟のイリアード殿下は前線で十三万の軍勢を握っておられる。我がボルゲーゼ家の一族を総督として現地に送り込み、イリアード殿下と直に手を結ぶのだ。さすれば、帝都の文官どもがどれほど囀ろうとも、西方の『現実の武力』の前にひれ伏すしかなくなる」
ヴァレリオの野獣のごとき眼光が、集まった将領たちを射すくめた。
「力なき法など無価値だ。アンチアルマは我ら軍部が力で毟り取る!」
◇
白亜宮の最も深く、皇帝の玉座すら見下ろすと言われるシュタインベルク公爵邸。
そこには、一切の怒号も、密談の笑い声もなかった。あるのは、ただ書類を捲る静かな音と、冷徹なまでの静寂である。
三公の長、司徒リヒャルト・フォン・シュタインベルクは、息子の尚書令ジョヴァンニが持参した各派閥の動向書に目を通していた。
「ヴァレリオは軍部を動かし、イリアードとの結託を狙っているようです。また、ゲオルグとマートルは司空のベアトリクスを巻き込み、復興予算の管理権を大義名分として総督の座を要求しております」
ジョヴァンニが淡々と報告する。
リヒャルトは老いた指先で机をトントンと叩いた。その表情には、すべてを掌の上で転がす絶対者の余裕があった。
「愚か者どもめ。木を見て森を見ぬとはこのことだ」
老司徒は冷ややかに言い放った。
「ヴァレリオがイリアードと結ぶのは、我がシュタインベルク家にとって確かに愉快なことではない。イリアードの軍権がこれ以上肥大化すれば、皇后ロザリアの地位、ひいては我が血統の未来を脅かす。だが——ゲオルグたちの言う通りに文官を据えれば、軍部の反発を招き、西方の防衛線が内部から崩壊しかねん」
「では、いかがなさるのですか、父上」
リヒャルトは不気味な薄笑いを浮かべた。
「総督の座には、我がシュタインベルク家の息がかかった、一見すると無能で無害な中立派の男を据える。そして、ヴァレリオには『アンチアルマ周辺の治安維持権』を、ゲオルグたちには『地下水門再建の予算執行権』を、それぞれ切り分けて与えてやるのだ」
「権力の分散、にございますか」
「左様だ」
リヒャルトの瞳の奥に、暗い昏い計算が宿る。
「互いに利権の骨をしゃぶらせ合い、猜疑心の火を絶やさぬようにする。犬どもが互いに噛み合っている限り、奴らの視線がこのシュタインベルクの頂座に向くことはない。そして、最も重要なのは——」
老司徒は立ち上がり、高窓から遥か西方、泥に沈んだ古都の方向を見据えた。
「新たな総督を通じて、イリアードの十三万の軍勢へ送られる兵糧の『紐』を、我が尚書省が完全に握ることだ。どれほど前線の英雄が優れていようとも、帝都からの干し肉一塊、矢一本が届かねば、ただの案山子に過ぎぬ。ブランガという狂火が消えた今、西方の荒野は、あの若き英雄イリアードをじわじわと干し殺すための『揺り籠』となってもらう」
◇
その夜、白亜宮の空中庭園には、季節外れの冷たい雨が降り注いでいた。
皇帝アラリックは、従者すら遠ざけ、一人で雨に濡れる薔薇を見つめていた。
「陛下。お体に障りますわ」
背後から気配もなく現れたのは、皇后ロザリアであった。彼女は漆黒の傘を広げ、皇帝の頭上を覆う。その美貌には、やはり一切の感情が通っていない。
「ロザリア……。昼間、太尉ヴァレリオから血判状が届いた。ボルゲーゼの者を総督にとな。そして夕刻には、侍中ゲオルグから司空を推薦する長文の奏上書が届いた。……誰も彼もが、余の顔ではなく、余の背後にある『椅子』と、アンチアルマの『泥』しか見ていない」
アラリックは自らの手を伸ばし、冷たい雨水を受け止めた。
「ブランガ・オデュヌは逆賊であったが、奴はたった一人の意志で、三十五万の軍勢に立ち向かい、そして死んだ。……それに引き換え、余の足元にいる者たちはどうだ。帝国が滅びかけたその直後に、死体の衣服を剥ぎ取るような真似をして、互いに牙を剥き合っている」
ロザリアは皇帝の言葉を、冷たい氷の瞳で受け止めた。
「それが、オクタヴィアの現実にございます、陛下。美しき理想など、この白亜宮の大理石を汚す血のシミに過ぎません。生き残り、支配し続けること。それだけが、シュタインベルクの血を引く我が夫の、唯一の義務にございます」
アラリックは小さく笑った。その笑みには、狂気にも似た深い絶望が混じっていた。
「ならば、余もこの泥沼の王として、相応しき振る舞いをして見せねばならぬな。祖父リヒャルトがどのような罠を仕掛けてくるか、ヴァレリオがどう動くか……すべてをこの目で見てやろう」
初夏の冷雨が、帝都を濡らし、人々の野心をさらに冷酷に研ぎ澄ましていく。
古都アンチアルマを巡る暗闘は、戦場での血の激突を超え、白亜宮という名の、より陰惨で、出口のない「権力の迷宮」へと突入していくのだった。




