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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴304年
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第93章『時流を征する者』

帝都オクタヴィアの朝は、紫煙を含んだ重い霧とともに明ける。

中央宮殿『白亜宮』の最奥に位置する大広間には、寒々とした大理石の床が広がり、高窓から差し込む初夏の薄光が、居並ぶ貴族たちの豪華な衣装と冷ややかな面持ちを浮き彫りにしていた。

「——尚書省、前線よりの奏上を奉る!」

尚書令ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルクの声が、静寂を切り裂いて大広間に響き渡った。

ジョヴァンニの立ち姿には、帝国随一の門閥貴族としての傲然たる威厳が満ちていた。父親であり司徒を務めるリヒャルトの威光を背に受けながら、ジョヴァンニは上座の玉座を見上げる。

玉座に鎮座するのは、第十四代皇帝アラリックであった。二十七歳。若き威容を誇るはずのその顔立ちには、しかし影が差している。戴冠から数年、叔父や祖父たちの重圧に晒され続けてきた若き君主の瞳は、静かな冷気を孕んでいた。

アラリックの傍らには、皇后ロザリアが座している。皇太后の姪にして皇帝の従妹——シュタインベルクの血を極限まで濃縮した美貌の女性だ。彼女の指先は、まるで氷細工のように隙なく組み合わされ、動き一つ見せない。

「奏上せよ、尚書令」

アラリックの声は低く、平坦だった。

「はっ」

ジョヴァンニは手に持った革巻きの書状を広げ、周囲を威圧するように居並ぶ高官たちを一視した。

「去る帝国歴304年5月、古都アンチアルマにおける戦闘の決着に関する報せにございます。叛逆者ブランガ・オデュヌは、騎馬民族グラッデェの軍勢三十五万に対し、古都の地下水門を爆砕。水攻めをもって敵騎兵を泥の海へ沈め……自らは敵首領エスゲイ・バールと交戦し、戦死いたしました」

ざわり、と朝議の場が揺れた。

「……戦死したか」

アラリックが呟くように漏らす。

「左様にございます。敵首領エスゲイ・バールは三男カガン、および右腕たる弟タルスを失い、さらにブランガによって片目を討たれた模様。大損害を被ったグラッデェ軍は、古都アンチアルマを焼き払い、西方の大草原へと敗走いたしました」

ジョヴァンニの説明が終わるやいなや、列の先頭から一人の巨漢が一歩前へと踏み出した。

太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼ親王である。軍事を統括する三公のひとりであり、その鋭い眼光は野獣のそれを思わせた。何より、彼は叛逆者ブランガの手によって惨殺された前親王イザークの叔父であった。

「相果てたか、あの犬めが!」

ヴァレリオの怒号が大理石の柱を震わせた。

「我が甥イザークを殺し、ボルゲーゼ親王領を奪い荒らした盗賊どもが頭目! 生きてこのオクタヴィアへ引っ立て、車割りの刑に処せなかったことだけが心残りでございます!」

ヴァレリオは拳を激しく握り締め、玉座へ向け深く頭を下げた。

「陛下! 賊軍が壊滅し、グラッデェが去った今こそ、直ちにボルゲーゼ領およびアンチアルマ全域の復旧に取りかかるべきにございます。また、我がボルゲーゼ家に与えられていた南西部の利権の再承認を求めまする!」

「待たれよ、太尉」

静かな、しかし確かな重量感を持った声がそれを遮った。

侍中ゲオルグ・フォン・フェルゼンである。老獪な政治家として幾多の政変を生き抜いてきた男の顔には、皺に刻まれた薄笑いが浮かんでいた。

「復旧はおっしゃる通り。しかし、ボルゲーゼ領はもとより、古都アンチアルマ一帯は今や水攻めによって泥の海、さらには退く敵の手によって焦土と化しております。ただちに旧領主の手へ戻したところで、復興の財源はどこから捻出されるのかな? まさか、莫大な国庫の補填なしに立て直せるとはおっしゃるまい?」

「ゲオルグ殿! 貴様、我が領地の悲劇を嘲笑うか!」

「滅相もございません。ただ、国家の財政を鑑みれば、慎重な議論が必要かと申し上げたまで」

ふたりの言い争いを、玉座のすぐ下に控える老人が冷ややかな目で見下ろしていた。

三公の長、司徒リヒャルト・フォン・シュタインベルク。皇帝アラリックと皇后ロザリアの祖父であり、現帝国の民政・内政を完全に掌握する絶対的な権力者である。彼が僅かに眉を動かすだけで、周囲の貴族たちは息を呑んだ。

「喧しいぞ、ヴァレリオ」

リヒャルトの声は高くなかったが、場を一瞬にして静まり返らせる力があった。

「国難は去ったのではない。一時的に敵が引いたくだけだ。グラッデェの主力は撤退したとはいえ、奴らがいつ再び東進するかは分からん。今重んじるべきは、復興の順序と防衛線の再構築だ」

リヒャルトは視線をジョヴァンニ、そして尚書省の面々へと向けた。

「アンチアルマの西、フェルゼンヴァルデン砦におわすアルヴェリア親王イリアード殿下の状況は?」

ジョヴァンニが即座に答える。

「はっ。イリアード殿下は十三万の帝国軍を指揮下に置き、強固な防衛体制を維持しておられます。グラッデェの残党および南西部の動揺を抑え込むため、見事に軍を掌握されております」

二十一歳になる皇帝の異母弟、イリアード親王。帝国軍十三万を率い、前線の要衝を守り抜いた若い英雄の名が上がると、朝議の場に僅かな緊張が走った。イリアードの軍功があまりに顕著となれば、帝都の中枢を占めるシュタインベルク家にとっても無視できない存在となるからだ。

「イリアードか……」

アラリック皇帝がぽつりと呟いた。

「弟はよくやってくれた。十三万の将兵を預かり、敵の侵攻を食い止めた功績は大きい」

「恐れながら陛下」

今度は、三公の最後の一人、司空ベアトリクス・フォン・オルデンブルクが声をあげた。国家事業と土木を統括する男の顔は、現実的な計算に満ちていた。

「イリアード殿下の軍功は誰もが認めるところ。されど、十三万の大軍を砦に留め続けるには、膨大な兵糧と維持費がかかります。アンチアルマの復興事業、さらには泥の海と化した地下水門の再建工事(土木事業)を主導せねばならぬ私どもといたしましては、速やかに一部の軍を解体、あるいは各地へ再配置し、軍費を復興へと回していただきたく存じます」

ベアトリクスの提言は至極まっとうに聞こえたが、その裏には「イリアード親王の手から十三万の兵力を削ぎ落としたい」という中央貴族たちの意図が見え隠れしていた。

「解軍だと? 戯れ言を!」

ヴァレリオ太尉が再び口を挟む。

「西方の脅威が完全に去ったわけではないのだぞ! 今、軍を縮小してみろ。残った賊軍や地方の叛徒が再び跳梁跋扈するわ!」

「しかし太尉、国庫は底をつきかけております!」

「軍費削減ならば、中書省の無駄な予算から削ればよかろう!」

指弾された中書令マートル・フォン・ブライトクロイツが、不快そうに扇を鳴らし、冷ややかな視線をヴァレリオに向けた。前帝の第4皇子の叔父であり、名門ブライトクロイツ家の当主である。

「これは見苦しい。軍を司る太尉ともあろう方が、朝議の場で感情を爆発させるとは。我々中書省が管理する宮廷予算は、帝国の威信と秩序を保つためのもの。軍費の膨張を棚に上げてこちらを責められるのは心外にございますな」

「何だと……!」

各派閥の思惑が激しくぶつかり合い、朝議室の空気は急速に険悪さを増していく。

・ボルゲーゼ領の権益を取り戻したい軍部(ヴァレリオ)

・復興事業の利権と予算を確保したい土木・内政派(ベアトリクス)

・イリアード親王の軍権肥大化を警戒する中央官僚派(ゲオルグ、マートル)

・そして、それら全てを上空から見下ろし、操ろうとするシュタインベルク家(リヒャルト、ジョヴァンニ)

だが、彼らがどれほど議論を戦わせようとも、本質的な事実に変わりはなかった。帝国は、一人の叛逆者——ブランガ・オデュヌという男の命がけの狂乱によって、辛うじて滅亡を免れたに過ぎないのだ。

ブランガは、帝国を脅かしたグラッデェの三十五万を相手に泥の海を作り出し、自らの命と引き換えに敵の野望を挫いた。帝国軍の重装騎兵団が惨敗し、落城した古都アンチアルマを奪還し、最後には敵の首領の目をくり抜いて戦死した。

帝国の高貴な血を引く貴族たちが、豪華な衣を纏って大理石の床の上で利権を貪り合っているこの瞬間も、西方の土にはブランガの血と、彼が討ち果たした兵たちの屍が転がっているのだ。

「……静粛に」

皇帝アラリックの声が響いた。決して大きな声ではなかったが、その一言には奇怪なほどの冷徹さが含まれていた。

重臣たちは一斉に口をつぐみ、玉座へとおじぎをした。

アラリックは背を伸ばし、ゆっくりと居並ぶ臣下たちを見回した。

「ブランガ・オデュヌの死は確認された。奴は我が弟イザークを殺した逆賊でありながら、結果として帝国を滅亡の淵から救った。何という皮肉だ」

アラリックの視線が、祖父リヒャルトへと向けられる。

「司徒。復興と軍費の調整については、尚書省と司空が中心となって草案を作成せよ。ただし、イリアードの軍から兵を引くのは時期尚早だ。西方の監視は強固な維持させる」

「……御意にございます、陛下」

リヒャルトは静かに頭を下げた。一見すると皇帝の意思を尊重したように見えたが、その瞳の奥には「若き皇帝にこれ以上の主導権は渡さない」という計算が暗く宿っていた。

「それから」

アラリックは言葉を続けた。

「アンチアルマの地には、新たな総督を派遣する。泥に沈んだ古都を再建し、西方の砦を守るイリアードと連携できる者をな」

その言葉に、朝議の場にいる誰もが「その総督の座をどの派閥が奪うか」という新たな野心を燃やし始めた。

朝議が終わりの刻を迎える。

「これにて、本日の朝議を終了する!」

ジョヴァンニの宣言とともに、重臣たちは深々と頭を下げた。

貴族たちが次々と大広間を退出していく中、アラリックは玉座から立ち上がろうとはしなかった。隣に立つ皇后ロザリアが、そっと声を入れる。

「陛下。お顔色が優れませんわ」

「ロザリア……」

アラリックは静かに呟いた。

「余の帝国は、本当に余のものなのだろうか」

「戯れ言をおっしゃいますな、陛下」

ロザリアの声音には感情がなかった。

「このオーレリア帝国は、陛下のもの。そして、我がシュタインベルクの血が支えるものにございます」

アラリックは答えず、ただ高窓の向こうに広がる灰色の空を見つめた。

帝都オクタヴィアの平穏の裏で、西方のアンチアルマから吹き寄せる泥と血の匂いは、未だ消え去ってはない。ブランガ・オデュヌという一立の猛火が消えた今、次に帝国を呑み込むのは、内部から渦巻く権力という名の泥沼であった


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