第92章『燃えゆく古都』
「お前の知略は確かに天をも欺いた。だが、このエスゲイ・バールという『存在』そのものを超えるには、まだ器が足りぬ!」
覇王エスゲイの放った剛烈な一撃が、ブランガの防陣を完全に打ち砕いた。
限界を迎えていたブランガの剣は根元からへし折れ、その破片が鈍い音を立てて泥濘へと沈んでいく。
無防備になったブランガの胸元へ、エスゲイの黄金の宝剣が容赦なく突き出された。
肉を裂き、骨を砕く鈍い感触。黄金の刃は、ブランガの銀の胸当てを貫き、その背中へと突き抜けた。
「……がはっ」
ブランガの口から鮮烈な血が溢れ出し、夕闇に染まる泥をさらに赤く染める。
しかし、刃を突き立てられた瞬間、ブランガは退くどころか、むしろ自らさらに一歩前へと足を進めた。己の身体を深く貫く宝剣の刃をものともせず、エスゲイの懐へと肉薄したのだ。
「何っ……!?」
数々の修羅場を潜り抜けてきた覇王エスゲイの顔に、この日初めて、真の戦慄が走った。
ブランガは残された右腕で、折れた剣の「柄」を握りしめていた。そのへし折れた鋭利な刃の残骸を、渾身の力でエスゲイの顔面へと突き立てる。
肉が裂ける凄まじい音が響いた。
ブランガの最期の一撃は、覇王の右目を深く抉り、その頬を裂いていた。
「ぐ、おおおおおっ!!」
エスゲイが生まれて初めて上げる、苦悶の絶叫が戦場に轟く。
覇王は右目から大量の血を流しながら、反射的に宝剣を横一文字に薙ぎ払った。
鮮血の弧が描き出され、若き新星、ブランガ・オデュヌの身体がゆっくりと、仰向けに泥の中へと倒れ込んでいく。
◇
静寂が、戦場を支配した。
グラッデェの戦士たちも、生き残っていたわずかなアンチルマの防衛兵たちも、その光景を前に言葉を失っていた。
泥の中に横たわるブランガの瞳は、すでに光を失っていた。しかし、その顔は不思議と穏やかであり、世界の頂点に立つ覇王に「消えぬ傷」を刻みつけた男の、誇り高き意志がそのまま凍りついたかのようであった。
新興の猛将、ブランガ・オデュヌ。享年二十代半ば。
オーレリア帝国からも裏切られ、四方全てが敵という究極の孤立無援のなか、わずか一万五千の兵で三十五万の質量を震撼させた怪物は、ここに戦死した。
「兄上! 御無事ですかっ!」
カガンとタルスを失い、生き残った弟カサルが息を切らせて駆け寄ってきた。
エスゲイは右目を手で押さえ、指の隙間からどくどくと溢れ出る血を泥へと滴らせていた。その凄惨な姿は、勝利した王のそれではなく、手負いの老いた獣のようであった。
「……無事だと?」
エスゲイは低く、地鳴りのような声で呟いた。右目の視界は完全に失われ、激痛が脳を揺らしている。
周囲を見渡せば、アンチルマの平原はグラッデェの兵たちの骸と、動かなくなった数万の軍馬で埋め尽くされている。水計によってもたらされた泥濘は、彼らの誇り高き鉄蹄を奪い、勝利の代償として三十五万の軍勢の「翼」を完全にへし折っていた。
長男カザンを失った復讐のために全軍を動員したが、得られたのは、三男カガンの死、最高宿将タルスの死、数万の精鋭の損失、そして——覇王自身の片目の喪失であった。
「ブランガ・オデュヌ……。お前は最後まで、我がグラッデェの呪いとなったか」
エスゲイは黄金の宝剣を鞘へと収め、冷たくなったブランガの遺体を見下ろした。
勝者はエスゲイ・バールである。しかし、このアンチルマの地でグラッデェが失ったものは、あまりにも大きすぎた。もはや、この傷ついた軍勢でオーレリア帝国の本土へ進撃する力は残されていない。
「全軍に、告げよ……」
エスゲイは生き残った片目で、深く息を吐きながら言った。
「アンチルマを灰にせよ。だが、これ以上の進軍は止める。……西へ、引き揚げるぞ」
オーレリア帝国歴304年5月。
古都アンチルマは燃え落ち、ブランガ・オデュヌの軍勢は全滅した。しかし、覇王エスゲイ・バール率いる三十五万の軍勢もまた、その進撃を完全に止められ、満身創痍で草原へと撤退していった。
一人の若き智将が命を賭して引き起こした狂瀾は、大陸の歴史を大きく塗り替え、新たなる混沌の時代を告げる幕引きとなったのである。




