第91章『咆哮と血煙る城壁』
「数の頂点に立つ、お前の首を叩き落とすまで!」
ブランガ・オデュヌの咆哮が、血煙る城壁の上に響き渡った。
退路はすでにない。背後の副官は倒れ、周囲を埋め尽くすのは飢えた狼のごときグラッデェの戦士たちのみ。誰の目から見ても、それは絶望的な足掻きに過ぎなかった。
そもそも、ブランガ率いる新興勢力はオーレリア帝国にとっても「敵」であり、増援など存在しなかった。この一万五千の兵だけで、三十五万という世界の終わりをもたらすような質量を相手にせねばならぬ運命だったのだ。
しかし、ブランガの内に燃える闘志は、全軍が圧殺されつつある極限状態の中で、むしろ純化され、白熱していた。
彼は城壁の縁へと駆け出すと、眼下に広がる泥の海、その中心に佇む覇王エスゲイ・バールを真っ直ぐに見据えた。
「させるかァ!」
行く手を阻むように躍り出たのは、自らの武勇を証明せんと躍起になっていた三男のカガンであった。彼は手にした三日月刀を大上段に振りかざし、狂ったような笑みを浮かべてブランガへと斬りかかる。
「邪魔だ!」
ブランガの放った一撃は、カガンのいなすような刃を力尽くで弾き飛ばした。金属同士が激突する凄まじい火花が散り、その衝撃だけでカガンは数歩よろめく。
カガンが己の過信を悟ったときには、すでに遅かった。ブランガは無駄のない動きで剣を翻し、カガンの重厚な引き当ての隙間、その喉元へ向けて鋭い突きを放った。
「が、は……っ!?」
鮮血が城壁の石床に飛び散る。カガンは傲慢に歪んでいた顔を恐怖に凍りつかせ、己の喉を両手で押さえながら、無様に転がり落ちていった。庶子の兄カザンを罵り、己の野心に燃えていた三男の、あまりにもあっけない最期であった。
「カガン!」
城壁の裏手からその光景を目撃した叔父カサルが、怒りに目を血走らせて大弓を引き絞る。
ヒュン、と空気を引き裂く凶弾のごとき一矢がブランガの肩を深く貫いた。激痛が走る。だが、ブランガは歩みを止めない。引き抜く時間さえ惜しむように、矢羽が刺さったままの体で城壁から飛び降りた。
その先にあるのは、数千、数万の敵兵がひしめく泥濘の地獄である。
「我が屍を越え、覇王の首へ続け!」
ブランガは、自らの血を引く親衛隊の生き残りたちに叫んだ。
城壁から飛び降りた彼らは、泥に足を取られながらも、驚異的な執念でグラッデェの牙兵たちの包囲陣へと突入した。それは軍隊の突撃ではなく、一振りの「刃」と化した人間の塊であった。
◇
平原は、先の地下水門の開放によって底なしの泥沼と化している。
だが、そこには皮肉にも、グラッデェの兵たちが自らの馬や味方の骸で築き上げた「肉の絨毯」があった。ブランガはその凄惨な足場を躊躇なく踏みしめ、ただ一点——黄金の狼頭が翻る覇王の本陣へと突き進む。
「総大将みずから首を差し出しに来たか! 討ち取れ!」
最高宿将タルスが鋭く下令し、覇王の周囲を固める親衛牙兵たちが一斉に槍を突き出した。彼らは西の大秦国を滅ぼした際にも、一切の動揺を見せなかった鉄の結束を誇る精鋭中の精鋭である。
正面から迫る四本の槍。
ブランガは自身の甲冑が裂けるのも構わず、肉薄した。一本の槍が彼の脇腹を掠め、もう一本が左大腿部を深く抉る。しかし、ブランガの剣は止まらない。
円運動を描くような苛烈な剣閃が、二人の牙兵の首を弾き飛ばし、残る二人の足を払った。
「化け物め……!」
タルスが自ら大刀を抜き、ブランガの前へと立ち塞がる。「右腕」と称される老将の放つ一撃は重く、鋭かった。
キン、と高い金属音が響き、ブランガの剣の切っ先が僅かに欠ける。連戦による疲労と、重傷を負った身体はすでに悲鳴を上げていた。ブランガの視界が、流れ落ちる自身の血で赤く染まっていく。
(ここで倒れるわけにはいかん……!)
ブランガは己の生命力を全て燃やし尽くすかのように、地を蹴った。
タルスの大刀が放つ必殺の軌道を、僅かに体を捻って肉で受ける。左肩に深く刃が食い込むのと引き換えに、ブランガは右手の剣をタルスの胸の隙間へと突き立てた。
「ぬ、おぉっ……!?」
タルスの巨体が泥の中に崩れ落ちる。グラッデェの軍師であり、最高宿将であった男の沈黙に、周囲の兵たちの間に初めて本物の衝撃と動揺が走った。背後の本国からも、眼前の大軍からも完全に孤立した絶望の男が、ただ己の知略と武勇だけで、三十五万の頭脳を叩き切ったのだ。
「どけい!」
血を吐きながら、タルスの身体から剣を引き抜いたブランガの前方。
そこには、ついに遮るもののない空間が広がり、その中心に、愛馬を失いながらも泰然と立ち尽くす一人の老人がいた。
覇王エスゲイ・バール。
彼の持つ黄金の宝剣が、夕闇の中で不気味な光を放っていた。
◇
「よくぞここまで来た、ブランガ・オデュヌ」
エスゲイの声には、怒りも、焦りもなかった。あるのは、己の知略の全てを尽くし、三十五万の質量を切り裂いて我が身の前にまで到達した若き英雄への、底知れない敬意と、それ以上の冷酷な殺意であった。
「オーレリアの帝国からも裏切られ、ただ一軍で我が三十五万をここまで苦しめるとはな。お前の知略、お前の武勇、まさに大陸の覇者にふさわしい。だが——」
エスゲイは黄金の宝剣を、両手で静かに構えた。
「お前の旅は、ここで終わりだ」
「それはどうかな、覇王。お前が連れてきた三十五万の死霊どもが、あの世でお前を待っているぞ!」
ブランガは残された全ての力を足に込め、泥を撥ね上げて跳躍した。
上段からの渾身の一撃。己の命の全てを乗せた、文字通りの決死の刃。
ガキィィィィン!!
鼓膜を破らんばかりの激突音が、混沌とした戦場に響き変えた。
エスゲイは一歩も退くことなく、その老いた体からは想像もつかないほどの剛力で、ブランガの必殺の剣を受け止めていた。剣と剣が噛み合い、凄まじい力が拮抗する。
「ぐ、おおおおっ!」
「ふんぬっ!」
押し合う二人の足元から、泥水が激しく吹き上がる。
エスゲイの双眸に宿る圧倒的な「覇気」が、ブランガの精神を圧し潰さんばかりに迫る。それは、数々の国家を滅ぼし、数百万の命を奪ってきた者だけが持つ、絶対的な支配者の拒絶であった。
「若造が。お前の知略は確かに天をも欺いた。だが、このエスゲイ・バールという『存在』そのものを超えるには、まだ器が足りぬ!」
エスゲイの黄金の剣が、限界を迎えていたブランガの剣を力任せに押し戻し、その防御を大きく弾き開いた。
無防備になるブランガの胸元。
夕日の残光が、二人の英雄の顔を赤々と照らし出す。
四方全てが敵という究極の孤立無援の中、すべてを賭した一騎打ちの結末は、まさにこの一瞬の交錯に委ねられようとしていた。




