第90章『人海という名の絶望』
紫の信号弾が夜空に弾け、同時に古都アンチルマの地下水門が開放された。大河コミュシュルツからひかれた生活用水路である。大地を突き破って溢れ出した激流は、瞬く間に平原を底なしの泥濘へと変え、グラッデェ自慢の三十五万騎をその足元から絡め取った。
完璧な策だった。ブランガ・オデュヌの計算では、これで勝負は決するはずだった。
だが、彼は「騎馬民族グラッデェ」という獣の本質を、まだ完全には理解していなかった。
「馬が動かぬなら、歩め! 泥を味方の骸で埋め立てて突き進め!」
本陣に轟いた覇王エスゲイ・バールの咆哮は、絶望の淵にあった三十五万の軍勢を、一瞬にして狂気の軍隊へと変貌させた。
馬を失ったグラッデェの戦士たちは、狂ったように笑いながら泥の中に飛び込んだ。彼らは底なし沼に沈みゆく自らの愛馬の背を「踏み台」にし、さらに泥に足を取られて倒れた味方の身体を容赦なく踏みつけ、文字通り「肉の絨毯」を敷き詰めてアンチルマの城壁へと殺到したのである。
「化け物か、奴らは……!」
城壁の上で、副官が恐怖に声を震わせた。
水計も、背後からの五万の伏兵も、グラッデェの圧倒的な「数の暴力」の前には、ただの遅滞戦術に過ぎなかったのだ。五万の帝国騎士団が後方をどれほど蹂躙しようとも、残りの二十万人以上の狂戦士たちが、泥を血で染めながらアンチルマの城壁へ津波のように押し寄せてくる。
東、西、南の城壁には、同時に何千本もの梯子がかけられた。一本の梯子を突き落としても、その下には十本の梯子が、そして一人の兵を斬り落としても、その後ろには百人の兵が控えている。
「防衛線が持たん! 各所で壁が突破されているぞ!」
悲鳴のような怒号が飛び交う。ついに、数の暴力が知略の堤防を完全に決壊させた。
◇
「死ね、東方の弱卒どもが!」
一番に城壁を這い登ってきたのは、叔父カサル率いる北方の精鋭たちであった。彼らは城壁に足をかけるや否や、恐るべき体術で帝国の防衛兵たちを次々と斬り伏せていく。カサルが放つ矢は、城壁の防備の要となる騎士たちの喉笛を正確無比に射抜いた。
「左翼崩壊! 敵が市街へ流入しています!」
正面門を死守していたブランガの耳に、最悪の報せが届く。
城壁の至る所から、黒い毛皮を纏ったグラッデェの兵たちが、飢えた狼のように城内へと飛び降りていく。彼らは民家に火を放ち、手当たり次第に住民を虐殺しながら、正面門の「裏側」を目指して進撃を始めた。
内と外からの挟撃。一万五千しかいない防衛兵は、すでにその数を三分の一にまで減らしていた。
「閣下、もう限界です! ここは一度、本国軍の陣へと退避を!」
副官がブランガの甲冑を掴み、必死に叫んだ。
しかし、周囲を見渡せば、市街のあちこちから黒煙が上がり、退路となるべき東門の方向からもグラッデェの鬨の声が聞こえてくる。アンチルマはすでに、完全に包囲され、内部から貪り食われつつあった。
その時、崩壊した正面城門の向こう、赤黒く染まった泥の海を割って、ひときわ巨大な影が近づいてくるのが見えた。
馬を捨て、己の足で泥を踏みしめて歩んでくる老将。
手にした黄金の宝剣からは、滴り落ちる血が泥を赤く染めている。
覇王エスゲイ・バール。
彼の周囲には、一度は恐怖に怯えたものの、覇王の執念に引きずられるようにして狂暴さを取り戻した三男カガンや、無数の牙兵たちが立ち並んでいた。
「ブランガ・オデュヌ!」
エスゲイの声が、戦場のあらゆる騒音を圧して城壁の上に届いた。その双眸は、我が子カザンを討った仇を狂おしいほどの憎悪で見据えている。
「お前の知略は見事だった。我がグラッデェの足元をすくい、大軍を翻弄してみせた。だが、それでおしまいだ。貴様がどれほど優れた策を練ろうとも、我が軍の『命の数』がお前の想定を遥かに超えていれば、すべては無に帰す!」
エスゲイは宝剣をブランガへと突きつけた。
「城を枕に討ち死にするか、それとも無様に首を差し出すか、選ぶが良い!」
第七章 絶体絶命の刃
城壁の上に、グラッデェの兵が次々と押し寄せる。ブランガの周囲に残った兵は、もはや数十人の親衛隊のみ。彼らは円陣を組み、背中合わせになって迫り来る無数の刃を迎え撃っていた。
「閣下……!」
副官の胸を、カサルの放った矢が深く貫いた。副官は血を吐きながら崩れ落ち、そのまま動かなくなる。
「ふん、手応えのない雑兵どもめ。兄カザンがこんな連中に遅れをとったとはな」
泥まみれになりながらも、勝ちを確信した三男カガンが、再び傲慢な笑みを浮かべて城壁の上に現れた。彼の後ろには、数重にも及ぶグラッデェ兵の壁が控えている。
ブランガは、息絶えた副官の目を静かに閉じさせると、ゆっくりと立ち上がった。
彼の銀の甲冑は凹み、あちこちから自身の血が流れ出している。視界の先には、三十万の質量に圧殺され、死体の山と化した古都アンチルマの惨状が広がっていた。
どんな奇策も、どんな伏兵も、すべてを圧し潰す圧倒的な「数の暴力」。
それが、大陸の四割を支配下に置いた覇王の、真の恐ろしさであった。
「まだだ……」
ブランガは、血に濡れた剣を両手で強く握り直した。その瞳からは、まだ光が消えていない。
「数の暴力で全てを踏みつぶすというのなら……その数の頂点に立つ、お前の首を叩き落とすまで!」
絶体絶命の極限状態の中、ブランガ・オデュヌは退くことなく、眼下に佇む覇王エスゲイ・バール、それから城壁を埋め尽くす無数の敵に向けて、最期の突撃を敢行せんと地を蹴った。数万の敵兵が彼一人の肉体に牙を剥かんと殺到する、まさに破滅の瞬間であった。




