第89章『黒雲、地平線を埋め尽くす』
古都アンチルマの堅牢な石造りの城壁の上。新興の将ブランガ・オデュヌは、東の空から昇る朝日に照らされながら、西の地平線を見つめていた。
その表情は、不気味なほどに静まり返っている。
彼の視線の先、地平線の彼方から現れたのは、大地そのものがうごめいているかのような錯覚を覚えさせる「黒い帯」であった。それはまたたく間に広がり、緑の草原を黒く塗りつぶしていく。
「……来たか」
ブランガの傍らに立つ副官が、乾いた声を漏らした。その手は、握りしめた槍の柄を恐怖で小刻みに震わせている。
三十五万。それが、覇王エスゲイ・バールが長男カザンの復讐のために動員した、グラッデェ全軍の数であった。地響きは数里先からでも足の裏に伝わり、彼らが巻き上げる土煙は天を隠し、太陽の光さえも遮る薄黒い霧と化していた。
対して、この古都アンチルマに集結したブランガの手勢は、わずか一万五千。
アクスアルブから興隆し、知略をもってカザンの十五万を破ったブランガであったが、危機に直面していた。
「閣下、本当にこの一万五千で……あの化け物どもの津波を受け止めるのですか? 退却し、軍を立て直すべきでは……」
副官の悲痛な具申に、ブランガはふっと冷たい笑みを浮かべた。その鋭い双眸には、恐怖の色など微塵もなかった。
「知っておろう退却する場所など我らにない。だがな、どれほど大軍であろうと、この堅牢な石壁と狭い街道を前にすれば、その機動力は削がれる。三十五万の軍勢が、一度にこの城門へ押し寄せることは不可能なのだよ」
ブランガは腰の剣に手をかけ、城壁の下に展開する自軍の兵士たちを見下ろした。
「我らの役目は、ここで覇王の鼻柱を叩き折り、その進撃を遅らせることだ。カザンを失った奴らは頭に血が上っている。怒りは目を曇らせる。勝機は、その曇りの中にこそある」
◇
数里外の本陣。
巨万の軍勢の中心に掲げられた、黄金の狼頭を模した大軍旗の下で、エスゲイ・バールは愛馬の背にまたがっていた。その左右には、叔父のカサル、タルス、そして先陣を競い合う三男のカガンが控えている。
「父上! 見てくだされ、あの哀れな鼠どもの城を!」
カガンが手にした湾刀をアンチルマの城壁へと向け、大笑いした。
「一万五千の雑兵で、我が三十五万を迎え撃つつもりとは、片腹痛い! 兄カザンは奴らの小細工に嵌まったようですが、この俺の突撃の前には、あの石壁など泥の玩具も同然。どうか俺に先陣をお命じください。日暮れ前には、あのブランガの生首を父上の足元に転がしてみせます!」
相変わらずの傲慢な態度に、弓の名手カサルは冷ややかな視線を向けたが、今回は口を挟まなかった。これだけの軍勢の差があれば、いかにブランガが智将であろうとも、覆すことなど不可能だと考えていたからだ。
最高宿将のタルスが、静かに進言する。
「兄上、敵は籠城の構え。アンチルマの周囲は入り組んだ丘陵地帯であり、全軍を一度に展開することはできません。まずはカガンに五万を与え、正面の城門を叩かせるのが上策かと」
エスゲイは、深く刻まれた皺の奥にある瞳を細め、アンチルマの城壁を凝視した。
「……カザンを討った男だ。ただで門を開くとは思えん。カガン、行け。ただし、功を焦って深追いするな。敵を過小評価した者がどうなるか、カザンの骸が証明しているはずだ」
「はっ! 兄上のような無様な真似はいたしません!」
カガンは狂喜し、愛馬に鞭を入れた。
「グラッデェの勇士たちよ、続け! 一番に城壁へたどり着いた者には、城内の財宝と女を好きなだけ与えるぞ!」
ウオオオオオ! と、五万の突撃部隊が咆哮を上げ、地平線を揺るがしながらアンチルマへと向かって突撃を開始した。大地を揺らす鉄蹄の音が、古都への死の秒読みを告げる。
◇
カガン率いる五万の騎兵が、アンチルマの正面城門へと殺到する。彼らは馬上で巧みに弓を操り、城壁に向けて矢の雨を降らせた。ヒュオオオ、と風を切る無数の矢が城壁を覆い、防衛兵たちは盾の陰に身を潜める。
「押し通れ! 城門を叩き割れ!」
カガンの激を飛ばす声とともに、グラッデェの工兵たちが巨大な破城槌(丸太)を担いで城門へと肉薄した。
だが、城壁の上のブランガは、それを冷静に待っていた。
「今だ。放て」
ブランガの合図とともに、城壁の随所に隠されていた大型の発石機が一斉に唸りを上げた。放たれたのは、ただの石ではない。可燃性の油を染み込ませ、火をつけられた巨大な「火の玉」であった。
ゴオオオ! という爆音とともに、燃え盛る巨石がグラッデェの密集した騎兵群へと降り注ぐ。
「ぎゃあああ!」
「馬が、馬が狂った!」
火を恐れた軍馬たちが狂乱し、周囲の味方を巻き込んで将棋倒しになっていく。さらに、城壁の狭間からは、熟練の弩兵たちが、正確無比な射撃でグラッデェの兵を撃ち抜いていった。アンチルマの正面街道は幅が狭く、五万の大軍はかえって仇となり、密集した標的として次々と血の海に沈んでいく。
「おのれ、小瀅い真似を……! 力押しだ! 門を破れば我らの勝ちだ!」
カガンは顔を真っ赤にし、自ら手下を率いて城門へと突っ込んだ。
激しい攻防の末、グラッデェの破城槌がアンチルマの重厚なオーク材の城門を叩き割った。メキメキと音を立てて城門が崩壊し、暗い通路が姿を現す。
「勝ったぞ! 突入せよ!」
カガンが歓喜の声を上げ、騎兵たちが崩れた城門へと雪崩れ込んだ。
しかし、城門の奥で彼らを待っていたのは、勝利の果実ではなかった。
そこは、周囲を高い石壁で囲まれた、半円形の「枡形」と呼ばれる殺戮の罠であった。行く手は別の強固な鉄格子で阻まれており、突入した騎兵たちは狭い空間に閉じ込められる形となった。
「な、何だと……!?」
カガンが目を見開いた瞬間、頭上から容赦のない叫び声が響いた。
「落とせ!」
城壁の上から、沸騰した黒い油と、燃え盛る松明が大量に投げ込まれた。
「あ、熱い! 助けてくれ!」
「火だ! 火の海だ!」
枡形の中は、一瞬にして生き地獄と化した。閉じ込められたグラッデェの兵たちは、炎に包まれながらもがき苦しみ、後方からさらに押し寄せる味方の波と衝突して大混乱に陥った。さらに、石壁の上からは容赦なく槍と矢が降り注ぐ。
城壁の上からその惨状を見下ろすブランガは、冷徹に言い放った。
「これが、数を頼みにしか戦えぬ者の末路だ。次だ。敵の本陣に、我が軍の健在を示せ」
◇
先陣の五万が、城門前の狭い空間で完全に足止めを喰らい、壊滅的な打撃を受けているという報告は、瞬く間にエスゲイの本陣へと届いた。
「カガンの愚か者が……! 枡形に嵌まるとは、まさにカザンの二の舞ではないか!」
叔父のカサルが苦々しく吐き捨て、弓を強く握りしめた。
しかし、本陣の上座に座る覇王エスゲイ・バールの顔には、怒りの色はなかった。それどころか、その老いた顔に、冷酷な、そして底知れない笑みが浮かんでいた。
「タルス」
「はっ」
「ブランガ・オデュヌという男、やはり面白い。カザンが敗れたのも納得がいく。一万五千の兵で、我が軍の先陣をこれほど見事に翻弄するとはな」
エスゲイはゆっくりと立ち上がり、自らの大剣を引き抜いた。その剣身が、夕日に染まる戦場を妖しく反射する。
「だが、智略による抵抗など、圧倒的な『質量』の前には無意味だということを、教えてやらねばなるまい。カサル、お前は精鋭の弓騎兵一万を率い、城の北側の断崖を登れ。あそこは険しいが、我が部族の馬ならば超えられる。ブランガの意識が正面門に向いている今が好機だ」
「御意」
カサルが頭を下げ、影のように動き出す。
「タルス、お前は残りの全軍を指揮し、三方から同時にアンチルマを囲め。正面門が防衛線ならば、城壁のすべてを同時に攻撃する。一万五千の兵では、全周の城壁を見張ることはできん。どこか一箇所でも崩れれば、そこから三十万の津波が流れ込む」
エスゲイは前方を睨みつけ、地鳴りのような声で全軍に告げた。
「これより、小細工の時間を終わらせる。数に圧殺され、絶望の中で死ね、ブランガ・オデュヌ」
グラッデェの本陣から、無数の角笛が吹き鳴らされた。その音は大地を震わせ、空を割る。
正面門での局地的な勝利に沸いていたアンチルマの城内であったが、ブランガはその角笛の音を聞いた瞬間、表情を険しくした。
城壁の全周から、地平線を埋め尽くすグラッデェの残りの大軍勢が、一斉に前進を開始したのだ。東、北、南——。古都アンチルマは、文字通り人間の海に完全に包囲されようとしていた。
「閣下……! 敵の全軍が動きました! 北の断崖からも敵の影が!」
伝令の悲鳴のような報告が響く。
ブランガは、押し寄せる圧倒的な「死の質量」を見つめながら、己の剣を強く握り直した。
二十倍の戦力差。知略の罠をあざ笑うかのように、覇王エスゲイはただその巨大な足で、アンチルマごと全てを踏み潰そうとしている。
「ここからが本番だな、覇王エスゲイ・バール。お前の命、この古都と引き換えにしても、貰い受ける!」
赤く染まる夕闇の中、一万五千の絶望的な、しかし誇り高き籠城戦は、真の血戦へと突入していくのだった。




