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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴304年
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第88章『渦巻く野心と確執』

大陸の中央に広がる果てなき大草原。そこは、定住を知らぬ者たちが支配する地であり、同時にあらゆる文明を恐怖に陥れる揺籃の地でもあった。

天空を鋭く引き裂くような乾いた風が吹き抜ける中、無数の大型天幕(ゲル)がうごめくように連なっている。その光景はさながら、大地にうずくまる巨大な獣の群れのようであった。騎馬民族グラッデェの移動都市。彼らは風のように現れ、嵐のように去り、通った跡には灰と骸の山だけを残す。

その中心に鎮座する、ひときわ巨大な天幕の奥。薄暗い獣脂の灯火に照らされ、一人の男が毛皮の敷かれた上座に腰掛けていた。

男の名はエスゲイ・バール。

自らを「大陸の覇者」と称し、周囲の国々からは「神の鞭」「草原の暴君」と恐れられるグラッデェの首領である。

彼の放つ威圧感は、周囲の空気を硬化させるほどに凄まじかった。深く刻まれた顔の皺はこれまで潜り抜けてきた修羅場の数を物語り、その双眸は老境にあってもなお、獲物を狙う鷹のように鋭く爛々と輝いている。

エスゲイの覇業は凄まじいものであった。かつて文明の発祥地と謳われ、不落の城壁を誇った西の大秦国を徹底的に踏みにじって滅亡させ、今やこの広大な大陸の四割をその鉄蹄の支配下に置いている。彼が指先を動かすだけで、十万の騎兵が地平線を埋め尽くし、一つの国家が地図から消え去るのだ。

しかし、無敵を誇るこの老覇王の胸中には今、どす黒く燃え盛る「復讐の炎」が渦巻いていた。

原因は、昨年のオーレリア帝国侵攻にある。

エスゲイは長男カザンに十五万騎という破格の軍勢を与え、東方の宿敵であるオーレリア帝国へと進軍させた。カザン率いるグラッデェの鉄騎兵は、帝国の誇る近衛軍の重装騎士団を信じられないほどの速さで撃破。その勢いのまま、帝国の東に位置する古都アンチルマを血の海に変えて陥落させた。

そこまでは完璧だった。グラッデェの勝利は揺るぎないものと思われた。

だが、悲劇は古都アンチルマの南方で起きた。

南方の地アクスアルブから急速に勢力を伸ばし、新興勢力として台頭してきた不気味な男、ブランガ・オデュヌ。彼が率いる軍勢の前に、カザンの快進撃は突如として止められたのである。地知の利を活かした巧妙な戦術と、執拗なまでの伏兵。グラッデェの騎兵戦術を完璧に見切ったブランガの前に、カザンは三度にわたる決定的な敗戦を喫した。

そして——長男カザンは、撤退戦の最中にブランガの手によって討ち取られ、その首を晒されたのである。

「……雪が、融けたな」

エスゲイが地鳴りのような低い声で呟いた。

天幕の外では、長く厳しかった冬の終わりを告げるように、積み重なった雪が泥水となって大地に染み込んでいく音が聞こえる。グラッデェの騎兵が最もその機動力を発揮できる、待ちに待った春の到来であった。

この天幕の内に、エスゲイは一族の主要な血族と将領たちを集めていた。沈黙が支配する空間には、火花が散るような緊張感が満ち満ちている。



◇

「カザンの兄者は、功を急いて欲を出しすぎたのです。あのような東の名も知れぬ盗賊風情、野良犬のような輩に不覚を取り、命まで落とすとは……我がグラッデェの恥、一族の面汚しと言わざるを得ません!」

沈黙の口火を切ったのは、三男のカガンであった。

彼はまだ二十代半ばと若く、全身から溢れんばかりの血気と傲慢さを隠そうともしなかった。ギラギラとした瞳で父エスゲイを見つめるその姿には、若き獣特有の野心がみなぎっている。

カガンがここまで戦死した長男カザンを罵倒するのには、深い理由があった。

グラッデェの掟において、血統は重要な意味を持つ。戦死した長男カザンは、身分の低い側室から生まれた「庶子」であった。それに対し、次男のベグと、この三男カガンは、正室から生まれた由緒正しき「嫡子」である。

とりわけ次男のベグは、あの西の大秦国を陥落させた際の主功を挙げた英雄であり、一族内での声望も高い。それに引き換え、長男でありながら庶子であるカザンが、オーレリア侵攻という大功を焦って挙行したことは、嫡子であるベグやカガンにとって目障りでしかなかった。不仲という言葉では生ぬるいほどの確執が、彼らの間にはあったのだ。庶子の分際でしゃしゃり出たから無様に死んだのだ——カガンの言葉には、冷酷な嘲笑が含まれていた。

「父上!」

カガンは一歩前に出ると、その豊かな体躯を誇示するようにどうどうたる態度で言い放った。

「今回は、この俺に軍をお預けください。俺が東へ行ってオーレリアの小倅どもを蹴散らし、あのブランガとかいう泥棒猫の首を引き抜いて、父上の御前に捧げてみせます!」

己の武勇を疑わない若者の大言壮語。

しかし、その言葉が天幕に響き渡った直後、低く冷ややかな声がそれを遮った。

「いや。カザンがやられたのだぞ。お前ごときの力では、到底足元にも及ぶまい」

声を放ったのは、上座のすぐ傍らに控えていた男——エスゲイの弟であり、カガンにとっては叔父にあたるカサルであった。

カサルの背には、使い込まれた大弓が背負われている。「狙った獲物は嵐の中でも逃がさない」と評される弓の名手であり、数々の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の勇者である。その鋭い眼光に見据えられ、カガンは一瞬だけ気圧されたように言葉を詰まらせた。

「な、何だと叔父上……! 俺の武勇が、あの死んだ庶子の兄劣ると言うのか!?」

「個人の武勇の話をしているのではない、カガン」

カサルは吐き捨てるように言った。

「お前は敵の将、ブランガ・オデュヌという男の本質を見ていない。奴はただの盗賊ではない。グラッデェの動きを完全に読み切り、カザンの十五万騎を三度も罠に嵌めて屠った怪物だ。功名心だけに目を曇らせた若造が行けば、カザンと同じように首を並べられるのが関の山よ」

「貴様……!」

カガンが激昂し、腰の三日月刀(タルワール)の柄に手をかけた。天幕内の空気が一気に氷結する。

「やめぬか、無体な真似を」

その場を圧するような重厚な声が、争いを止めた。

発言したのは、もう一人の叔父であり、首領エスゲイの同母弟、そしてグラッデェ軍の最高宿将であるタルスであった。彼はエスゲイの「右腕」として、大秦国滅亡の際にも数々の知略を巡らせた男である。タルスが動くだけで、周囲の将軍たちも一斉に居住まいを正した。

タルスは怒り狂うカガンを一瞥もせず、ただ静かに首領エスゲイの前に跪いた。

「兄上。カサルの言う通り、東の敵は侮れません。カザンの敗因は兵力の不足ではなく、敵を過小評価したことにあります。オーレリアの底力、そして何よりブランガ・オデュヌという新星の智略は、我がグラッデェにとって真に排除すべき脅威となりました」

タルスは顔を上げ、その瞳に宿る冷徹な決意を兄に示した。

「もはや、一軍を差し向けるだけでは足りませぬ。小細工は無用。今回は——我がグラッデェの全軍を動員し、文字通り東方を踏み潰さねばなるまい」

「全軍動員……!」

将領たちの間に動揺と、それ以上の狂熱が走った。グラッデェの全軍が動くということは、三十万、四十万を超える圧倒的な騎馬の津波が大陸を覆うことを意味する。それは国家の攻略ではなく、文明そのものの抹消を意味していた。



◇

一族の者たちの議論を、エスゲイ・バールは黙って聞いていた。

三男カガンの血気も、カサルの忠告も、右腕タルスの献策も、すべては老覇王の脳内で冷徹に処理されていく。

嫡子だの庶子だのという兄弟の確執など、エスゲイにとっては些事であった。カザンが死んだことに対する怒りは、親としての情愛よりもむしろ、己の覇権に泥を塗られたことへの屈辱、そして優秀な「駒」を一つ失ったことへの憤りによるものが大きかった。

だが、ブランガ・オデュヌという男が、グラッデェにとって看過できない「巨大な障壁」になりつつあることは確かだった。ここで完全に叩き潰しておかなければ、西で築き上げた大帝国すら揺らぎかねない。

エスゲイはゆっくりと腰を上げた。

その瞬間、天幕内の全員が直立不動の姿勢を取り、息を呑んで首領の言葉を待った。

エスゲイは歩を進め、天幕の入り口の幕を大きく撥ね上げた。

外からは、眩いばかりの春の陽光が差し込み、それと同時に、どこまでも広がる大草原の地平線が視界に飛び込んでくる。そこには、すでに出陣の気配を察し、愛馬の調教や武器の点検を始めている無数の兵士たちの姿があった。

風が、エスゲイの白髪交じりの髭を揺らす。その風の中に、確かに東方の血と鉄の匂いが混じっているのを彼は感じ取った。

「タルス」

エスゲイの声は、低く、だが天幕の隅々にまで響き渡った。

「はっ」

「お前の言う通りだ。もはや小出しの戦はせぬ。全部族に布告せよ。馬を引ける者は老若問わずすべて集めよ。家畜の群れを動かし、全軍をもって東へ進軍する」

エスゲイは腰にある、大秦国の皇帝から奪い取った黄金の宝剣に手をかけた。

「オーレリアを灰にし、ブランガ・オデュヌの領地をすべて馬の蹄で踏み荒らして毛が生えぬ荒野と化す。カザンの血の代償は、東方諸国のすべての命で支払わせるのだ」

「応!!」

天幕内の将領たちが、一斉に咆哮のような怒号を上げた。

三男カガンは己の野心を満足させる戦の規模に狂喜し、カサルは静かに弓の弦を鳴らし、タルスはすでに頭の中で完璧な進軍経路を描き始めていた。

オーレリア帝国歴304年春。

大陸の歴史上、最大にして最も凄惨な嵐が、今まさに東方へと向かって動き出そうとしていた。覇王エスゲイ・バール率いるグラッデェの全軍が、復讐の黒雲となって地平線を埋め尽くしていた。

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