オーレリア外伝『アンチルマ避難民藩地』その14
帝国歴304年2月下旬――。
節分の賑やかな鬼追い行事が終わり、冬の去り際と初春の訪れが交錯する「アンチルマ避難民藩地」。 節分で邪気を払った集落は、春を迎える準備として、さらなる安寧を確実なものにするための伝統行事を迎えようとしていた。
本陣の広い木造天幕の中、アルヴェリア親王妃リゼリアは、机の上に並べられた赤く艶やかな桃の木片を見つめていた。
「節分で鬼を追い払った次は、春の神様をお迎えし、新たな一年間、悪霊や災いがこの地に再び侵入しないよう門戸を固める番ね」
リゼリアは集まった面々――セシリア、ベルナデット、ロゼッタ、エミーナを振り返り、優しく微笑んだ。
「今日は、藩地全体の天幕や主要な建造物の門口に掲げる『桃符』の張替えを行いましょう」
桃符とは、古来より魔除けの力があるとされる桃の木でできた木札に、神々の名や邪気払いの符を刻み、春の始まりに古いものから新しいものへと掛け替える伝統的な風習である。
「わぁ! 桃符の張替えですか!」 侍女エミーナがぽんと手を叩き、可愛らしく目を輝かせた。
「桃の木って、甘くてとっても良い香りがしますよねぇ! 悪魔さんたちも、この香りとお札の強さに驚いて逃げ出しちゃいそうですぅ!」
「ですが、セシリア様、エミーナ」 黒髪の侍女ロゼッタが、整った眉をひそめて冷静に指摘する。
「避難民藩地に存在する天幕や簡易住居の総数は数千棟におよびます。一人ひとりの入口に掲げる桃符を手作業で何千枚も削り出し、文字を刻んで張り替えるとなれば、通常であれば半月以上の時間と膨大な労力を要します」
「ふふっ、ロゼッタったら。またそんな大袈裟な心配をして!」
セシリアはポンと可愛らしく胸を張り、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「私たちには、いつもの『お茶目な裏工作』があるじゃない! 材料の桃の木の準備も、お札の刻印も……みんなで力を合わせれば、一瞬でできちゃうわよ!」
「お止めください、セシリア様」 侍女ベルナデット――「無慈悲のナデット」が、眼鏡の奥の目を光らせて淡々と割り込んだ。
「数千枚の完成された桃符が出所不明のまま一瞬で全天幕の入口に現れれば、不自然極まりありません。今回は『材料の精錬』と『符文の彫刻』の九割を異能で効率化しつつ、最後の掲出作業は民にも手伝わせる形を取るのが、最も合理的かつ自然なカモフラージュです」
「なるほど! ナデットの言う通りね!」 リゼリアは満足そうに頷き、全員に指示を出した。
「それじゃあみんな、特設天幕で桃符の大量作成を開始しましょう!」
「「「はいっ!」」」
◇
特設天幕の中では、さっそくリヴィエール一族の血を引く乙女たちによる、常識外れの作業が開始された。
まずは素材となる桃の木の調達である。 魔除けの効力が最も高いとされる、東へ伸びた枝の桃の木を数千枚の木札に加工しなければならない。
「さあエミーナ、いくわよ!」
「はいっ、セシリア様! 空間調達、発動ですぅ!」
セシリアとエミーナが揃って空中に手をかざすと、天幕内の空間が微かに歪み、黄金色の光の気泡が弾けた。次の瞬間、空間の歪みから上質な桃の丸太が次々と召喚され、さらにはセシリアの精密な「物理干渉・切断」の異能によって、寸分違わぬ美しい木札へと一瞬で切り分けられていった。
カカカカッ!と心地よい音が天幕に響き、あっという間に滑らかな桃の木札が数千枚、山のように積み上げられる。
「すごいですぅ! まるで木札の山ですねぇ!」 エミーナが感激して声を上げる。
「次は、魔除けの符文の刻印ね!」 リゼリアが前に出ると、その紫水晶の瞳を美しく輝かせた。 リゼリアの「精神干渉」と「念視」の力を応用し、木札一枚一枚に強烈な神聖の意思を刻み込んでいく。
そこへセシリアとエミーナが、秘術の光を上乗せするように手をかざした。 木札の表面に、朱色の光の文字が生き物のように浮かび上がり、すーっと木肌に染み込んでいく。ただの木札が、悪霊を一蹴する強力な霊符へと昇華した瞬間であった。
その横では、ロゼッタが「千里眼」を全開にし、周囲の警戒に余念がない。
「……半径二百メートル以内に人影なし。兵士の巡回ルートからも外れています。光の漏洩、防壁により完全に遮蔽中。作業を継続してください」
「手際が良いですね」 ナデットは手元の木札と算盤を素早く叩き、進捗率を計算していく。
「桃符の総作成数、四千五百枚完了。所要時間、わずか四分三十二秒。……これより各区画の避難民班長を招集し、『親王妃様からの春の贈り物』として順次配布・張替えを開始します」
「大成功ね!」 セシリアとエミーナは顔を見合わせ、嬉しそうに手を繋いでくるくると回った。
◇
昼下がり――。
アンチルマ避難民藩地の広場や各通路には、真新しい桃符を手にした避難民たちの明るい声が満ちていた。
セシリア、ロゼッタ、エミーナの三人は、小さな脚立と粘着用の糊を塗った籠を手に、お年寄りや子供のいる天幕を巡って張替えを手伝って歩いていた。
「はい、おばあちゃん! 古いお札を外して、新しい桃符に張り替えるわね!」
セシリアが脚立に登り、天幕の入口に掲げられていた煤けた古い木札を外し、打ち立ての瑞々しい桃符をぴたりと貼り付けた。
その瞬間、桃符からふわりと甘く清々しい桃の香りが漂い、天幕の周りの空気が一瞬で洗われたように澄み渡った。
「まあ……! なんて良い香りなんでしょう。それに、なんだか天幕の中までパッと明るくなった気がしますよ」
おばあさんが感涙にむせびながら、両手を合わせて拝む。
「えへへ、この桃符には特別な『福の力』が込められていますからねぇ!」 エミーナが一人のおじいさんに新しい桃符を手渡しながら、にっこりと笑いかけた。
「これで春からの病気も災いも、全部ノックアウトですぅ!」
「ありがたい……。親王妃様やみなさんには、感謝しても感謝しきれんよ……」
ロゼッタも淡々とした手際で、高い位置にある堅牢な建物の門口に次々と桃符を張り替えていく。
「……これでこの区画の防護強度は完了です。悪霊どころか、寒気すら侵入しにくくなるでしょう」
藩地全体で、古い桃符が外され、鮮やかな朱の文字が躍る新しい桃符へと掛け替えられていく。 数千の天幕の入口に桃符が掲げられた光景は、まるで集落全体が春の光の結界で守られたかのようであった。
遠くからセシリアとエミーナの楽しそうな笑い声が風に乗って運ばれてきた。
「セシリア様ぁ! あっちの天幕の張替えも終わりましたぁ!」
「よし、次はあっちの子供たちのところへ行きましょう!」
春の柔らかな日差しが、新しい桃符を濡らし、避難民藩地全体を黄金色に包み込んでいく。 戦火を乗り越え、一族の絆と温かな秘術によって守られたアンチルマの民たちは、かけ替えられた桃符とともに、輝かしい春の訪れを力強く迎え入れるのであった。




