第9章『開戦の狼煙』
十月に入ると、それまで粘りつくようだった湿気が嘘のように引き、北からの冷たい風がアルヴェリアの広大な湿原を吹き抜けるようになった。
朝霧が晴れる頃には、水面にうっすらと初霜が張り、パキパキと微かな音を立てて割れていく。かつてこの地は、ただ濁った泥の匂いと、行き場のない水が澱むだけの見捨てられた辺境だった。しかし今や、整えられた水路を多くの商船が行き交い、人々の活気ある声が響いている。
その変化をもたらした張本人であり、この地を治める親王イリアードは、政庁の執務室で一人、机の上の書類に目を落としていた。
「殿下、都からの勅使が到着いたしました。すでに謁見の間にてお待ちです」
近衛の報告に、イリアードは短く「通せ」と応じた。
現れた勅使は、豪奢な衣装に身を包んだ、いかにも帝都の空気をまとった男だった。だが、その男は一歩足を踏み入れ、主座に座るイリアードの姿を見た瞬間、目に見えて息をのんだ。
(……これが、あのイリアード殿下か?)
勅使の脳裏にあるのは、かつて帝都の宮廷で「華奢で病弱」「政争の敗北者」と囁かれていた、線の細い皇子の姿だった。衣服に着られているようだったかつての面影は、どこにもない。
今のイリアードは、背筋を真っ直ぐに伸ばし、堂々たる威厳をその身に纏っていた。過酷な辺境の統治と、先日の海賊討伐という修羅場をくぐり抜けたその顔つきは硬質に引き締まり、何よりもその瞳には、領民数万の命を預かる領主としての、鋭く揺るぎない光が宿っている。
「遠路はるばる大任、大義である。面を上げよ」
イリアードの低く、よく響く声に、勅使は慌てて膝をついた。
「はっ! イリアード殿下、此度の海賊討伐における見事な御差配、まことに軍の鑑にございます。至高なる皇帝陛下も大変お喜びであり、殿下の労をねぎらうよう、仰せつかってまいりました。こちらが陛下からの労いのお言葉、ならびに褒賞の品々の目録にございます」
勅使が恭しく差し出した書状と目録を、イリアードは手元に引き寄せた。
「父帝からの過分なお言葉、恐悦至極。褒賞はありがたく受け取り、此度の戦いで汗を流した将兵や、被害を受けた領民のために使わせてもらう。……して、勅使殿。儀礼の挨拶はここまでとしよう。父がわざわざお前のような男をここまで寄越したのだ。運んできたのは、美辞麗句と金品だけではあるまい?」
イリアードの射抜くような視線に、勅使は小さく身震いした。周囲の護衛を下がらせるよう目配せする。イリアードが顎をしゃくると、近衛たちは音もなく退室し、部屋には二人だけになった。
勅使は声を極限まで潜め、懐からもう一通、封蝋の施された小さな書状を取り出した。
「……流石は殿下、お見通しでございます。皇帝陛下より、密命を預かってまいりました」
「密命、か。言ってみよ」
「帝国北部のオテゲン皇国が、国境を越えて我が領土を荒らし回っております。公には小競り合いとされておりますが、実態は完全なる領国侵犯。奴らは組織的に略奪を始めております」
イリアードの眉がピクリと動いた。
「オテゲンが動いたか。あそこは冬の寒さが厳しい。飢えを凌ぐための局地的な略奪か?」
「いえ」勅使は首を振った。「季節的に、本格的な軍事行動は春を待って行うのが兵法の常。ですが、我が父帝は……それを許されません。大規模な侵攻を行い、一度の遠征ですべての禍根を断ち切り、完全解決する方針でございます」
「一度で全てを、か。いかにも父上が好みそうな、苛烈で大がかりな策だな。それで、私にどうしろと?」
「はっ。イリアード殿下率いるアルヴェリア軍も、この大征征の軍列に加わるように、との皇帝陛下からの直々の言付けにございます」
イリアードは静かに息を吐き出し、背もたれに体を預けた。
「アルヴェリア軍を、か。海賊を討伐したばかりの我が軍を、休ませる間もなく北への大征に駆り出すというわけだ。行軍の規模、および時期は?」
「通常の行軍ペースを考慮しますと、この地から帝都の集結地まで約一カ月半。出発は……来年二月の初めとなります。逆算いたしますと、準備期間は今から三カ月半、といったところでございます」
「三カ月半。短いな。湿原の冬を越すだけでも骨が折れるというのに、その最中に出陣の準備を整えねばならんとは」
「御無理は承知の上でございます。しかし、陛下は殿下の『力』を高く評価しておいでなのです」
「買い被りだ」イリアードは冷淡に言った。「統率する総大将は誰になる? まさか、父上自らというわけではあるまい」
「おっしゃる通り、皇帝陛下自らの親征の可能性は極めて低いかと存じます。宮廷では、有力な将軍を据えるか、あるいは第一皇子殿下、もしくは皇太子であられる第二皇子殿下を総大将として箔をつけさせるか……はたまた、軍の経験が豊富な第三皇子殿下を立てるべきか、議論が紛糾しております」
「なるほど、誰が総大将になろうとも、帝都の権力闘争の延長戦というわけか。私がその泥仕合に巻き込まれるのは目に見えている」
イリアードは机の上の書状を見つめながら、思考を巡らせた。オテゲン皇国の動向、帝都の思惑、そしてアルヴェリアの現状。やるべきことは山積みだった。
「状況は理解した。勅使殿、大役苦労だった。今宵は我が館で旅の疲れを癒すがいい。父帝への返答は、追って書状にしたためよう」
「はっ、寛大なお言葉、感謝いたします。それでは、失礼いたします」
勅使が退室した後、イリアードはしばらくの間、微動だにせず考え込んでいた。窓の外からは、一段と強くなった北風が、建物をガタガタと揺らす音が聞こえていた。
◇
夕方になり、イリアードは気分転換を兼ねて、親王府の最上階にある楼閣へと足を運んだ。
そこからは、アルヴェリアの街並みが一望できた。
手すりに手をかけ、冷たさを増した秋風を全身に受けながら、イリアードは暮れなずむ景色を眺める。
眼下の水路には、ぽつぽつと灯火をつけ始めた商船が、ゆっくりと行き交っている。かつて、ここには泥の匂いと絶望しかなかった。それが今では、煙突から立ち上る夕餉の煙、市場の片付けをする人々の気配、子供たちの笑い声……そんな、豊かな生活の気配が至る所に満ち満ちている。
(このささやかな平穏を、私は守り抜かねばならない。たとえ、どれほど巨大な嵐が近づいていようとも)
「外の風が冷たくなってきましたよ、殿下。そんなところで立ち尽くしていては、お体に障ります。中にはいられては?」
背後から、鈴を転がすような、しかし芯の通った柔らかな声が掛けられた。
振り返ると、そこには美しい毛皮の外套を羽織った女性――イリアードの正妻であるリゼリアが立っていた。彼女の瞳には、夫の体を心から案じる深い慈愛の色が浮かんでいる。
「リゼリアか。いや、少し考え事をしていてね。この街を見ていると、時が経つのを忘れてしまう」
「お気持ちは分かります。ですが、今のアルヴェリアの風は、かつての帝都の冬よりも鋭く凍てつきます。殿下が倒れられては、この街の人々が迷子になってしまいますわ」
リゼリアに優しく促され、イリアードは苦笑しながら「そうだな」と応じ、楼閣の奥にある暖かい部屋へと戻った。
部屋の中には大きな暖炉があり、赤々と薪が燃えていた。その暖炉の前の長椅子に、もう一人の女性が腰掛けていた。イリアードの側室であるセシリアだった。
セシリアはイリアードが戻ったのを見ると、静かに立ち上がり、深々と頭を下げた。
「殿下、おかえりなさいませ。……勅使からのお話、やはり容易ならぬ内容だったようですね」
「ああ。セシリアも、わざわざ従軍の話をしに来てくれたのだろう?」
イリアードが問いかけると、セシリアは小さく頷いた。
この部屋にいる彼女達――リゼリアとセシリアは、特別な血脈の者たちだった。彼女達は、言葉として口に出さなくとも、『念』の力によって互いの思考や感情、そして集めた情報を瞬時に共有し、すべてを知ることができる能力を持っていた。
イリアードが席に着くと、リゼリアとセシリアもそれぞれの席に座った。リゼリアが静かに目を閉じ、セシリアがイリアードの手元を見つめる。
その瞬間、部屋の空気の密度が、目に見えて変わった。
言葉を介さない、超高密度な『念話』による密談が始まったのである。
◇
リゼリア、セシリア、そしてイリアードの意識が、精神の深い領域で連結される。
さらにそこへ、もう一つの強大で、どこか浮世離れした優美さをまとった意識が静かに割り込んできた。
『――少し遅れてしまいましたわね、イリアード。私もお仲間に入れていただきましょうか』
その声の主は、イリアードの母親であり、かつて帝都を揺るがした名門リヴィエール家の至宝と謳われたフレデリカであった。彼女は現在、この館の別棟にある自身の居室に身を置いておいでだが、その卓越した念の力によって、この場にいなくとも容易に密談に参加してきたのである。
『母上、お体はよろしいのですか?』イリアードが意識の中で問いかける。
『ふふ、私の心配など無用ですわ。それよりもオテゲンの件です。勅使がもたらした情報と、我がリヴィエール家が独自に放っている、帝都および国境地帯の「耳」の情報を照合いたしましょう』
フレデリカの清らかな、しかし重みのある言葉を合図に、四人の脳内に膨大な情報が流れ込んできた。
まず提示されたのは、【オテゲン皇国の状況と国境の状況】である。
セシリアの意識から、極寒の北国オテゲンの荒涼とした風景が共有される。
『オテゲンは今年の夏、大規模な冷害に見舞われ、作物が壊滅的です』セシリアの鋭い分析が響く。『彼らにとって、この冬を越すための糧食確保は死活問題。国境を越えた略奪は、単なる挑発ではなく、生き残りをかけた必死の行動です。我が帝国の防衛線は、奴らの決死の突撃によって、すでに数箇所で食い破られています』
『だが、それに対する父帝の対応が異常だな』イリアードが思考を重ねる。『通常なら、国境の守備隊を増強し、冬の間は防衛に徹する。春を待ってから反撃するのが定石だ』
そこに、リゼリアが【帝都市民の世論と宮廷の状況】を提示した。
『皇帝陛下は、ご自身の健康状態に焦りを感じておられるようです』リゼリアの静かな声が、精神の海に波紋を広げる。『父帝の様子は、日を追うごとに強硬になっておいでです。ご自身のご在位中に、北方の憂いを完全に断ち切り、不滅の業績を残したいという執念に駆られている。だからこそ「一度の遠征ですべてを解決する」などという無茶な大規模侵攻を打診してきたのです』
『愚かですね』フレデリカが冷ややかに笑った。『陛下の功名心のせいで、どれほどの兵卒が雪山で命を落とすことになるか。しかも、帝国軍と各軍営の様子を見るに、足並みは全く揃っていない』
フレデリカが提示した【帝国軍の現状】は、惨憺たるものだった。
総大将の座を巡り、宮廷では第一皇子、第二皇子(皇太子)、第三皇子の派閥が激しく牽制し合っている。それぞれが自身の息のかかった将軍や部隊を温存しようとし、兵站の責任の押し付け合いが始まっていた。
『総大将が誰になるかで、我々の立ち回りも変わる』イリアードは冷静に状況を整理する。『第一皇子なら、私を最前線に送り出して使い潰そうとするだろう。第二皇子なら、手柄を独占するために我が軍を後方に干すかもしれない。第三皇子なら、実戦経験を盾に無茶な突撃を命じてくる可能性がある』
『いずれにせよ、まともな戦にはなりませんわ』セシリアが懸念を示す。『このような混沌とした大軍の中に、我がアルヴェリアの兵をそのまま放り込むのは、あまりにも危険です』
『だからこそ、我々の【軍備、財務、物資】を完璧に整えて、奴らに付け入る隙を与えない独占的な地盤を作らないと』
イリアードの意思が強く響くと同時に、アルヴェリアの現状データが展開された。
【アルヴェリアの軍備・財務・物資の話】
『海賊討伐で得た鹵獲品、および臨時の報奨金により、短期的な財務は潤沢です』リゼリアが帳簿の数値を精神内に投影する。『ですが、二月出発となると、冬の間に兵糧を帝都まで運ぶ、あるいは現地で調達するための資金が、想定の倍はかかります』
『物資関係はどうなの?』フレデリカが問う。
『湿原の兵たちは、寒さには比較的強いですが、北国の雪中行軍となれば話は別です』セシリアが答える。『防寒具の新調、雪上用の荷車の改造、そして何より、長期戦に耐えうる乾燥食料の増産が必要です。アルヴェリアの全工房をフル稼働させても、三カ月半ではギリギリのタイムラインです』
『なら、今すぐ動く。形式的な父帝への返状を待つ必要はない』イリアードが決断を下した。
『リゼリア、財務の再編成を頼む。海賊討伐の褒賞金は、全額を防寒物資の買い付けと兵糧の備蓄に回せ。帝都の商人たちを通じて、北方の物資を極秘裏に買い占めるんだ。戦が始まれば、物価は跳ね上がる』
『畏まりました、殿下。すぐにリヴィエール家の商脈も使い、手配いたします』
『セシリア、お前は軍備の拡充と、兵たちの訓練内容の変更を。湿原での戦術から、雪中・山岳での戦術への切り替えだ。』
『かしこまりました、殿下』
『ふふ、頼もしい嫁たちですね』フレデリカの意識が、満足そうに目を細める。
『帝都の狐たちの浅ましい動きは、この私が監視し続けて差し上げますわ。誰が総大将の座に就こうとも、アルヴェリア軍を都合よく駒として扱わせるような真似はいたしません。必要とあらば宮廷の喉元に、いつでも我がリヴィエール家の刃を突き立てて差し上げます。……もちろん、表沙汰にならぬよう、優雅に、ね』
『母上、あまり派手な動きは控えてくださいよ。ですが、情報工作の面では頼りにしています』
『分かっておりますわ。お前はただ、ご自身の信じる道を真っ直ぐにお進みなさい、イリアード。お前はこの辺境の「泥」を「黄金」へと変えてみせた、私の自慢の息子です。あの先が長くない皇帝や、帝都の腑抜けた皇子たちに、遅れを取ることなど万に一つもございません』
四人の意識は、今後の具体的な段取り――どの商人と接触するか、どの部隊を先行させるか、兵糧の隠し倉庫をどこに設置するか――を、恐ろしいほどの高密度で決定していった。言葉にすれば数日かかるであろう軍議が、わずか数刻の精神の交錯によって、完璧な計画へと昇華されていく。
『――では、行動開始だ。アルヴェリアの未来は、この一戦にかかっている』
イリアードの力強い言葉を最後に、精神のリンクは静かに切断された。
◇
ハッと我に返ると、部屋の中の空気は元の静けさを取り戻していた。
暖炉の中で、パチパチと薪が爆ぜる音だけが聞こえる。
リゼリアがゆっくりと目を開け、小さく息を吐きながら、卓上の冷めてしまったお茶にに手を伸ばした。
セシリアもまた、ふぅ、と緊張を解き、長椅子の背もたれに体を預けた。彼女たちの額には、微かに汗がにじんでいる。短時間で膨大な精神力を消費した証拠だった。
「お疲れ様、二人とも。いつも無理を言ってすまない」
イリアードが声をかけると、二人は微笑みながら首を振った。
「いいえ、殿下。これしきの事、何でもありませんわ」リゼリアが、いつもの穏やかな、しかし気品に満ちた声で言った。「帝都の者たちは、殿下がこの地をどれほど豊かな場所に変えたかを知りません。だからこそ、都合良く扱おうとするのです。そんな無礼、私は許しません」
「姉様の言う通りです」セシリアもまた、その瞳に静かな闘志を宿して立ち上がった。「私たちは殿下の翼であり、盾です。オテゲンがどれほど強大であろうとも、帝都の権力闘争がどれほど醜かろうとも、殿下の歩む道を邪魔させはしません。すぐに明日から、全軍の装備改修の視察に入ります」
イリアードは、二人の頼もしい伴侶の姿を見つめ、胸の奥が熱くなるのを感じた。
かつて帝都で孤独だった自分には、信じられる者など誰もいなかった。だが今、この辺境の地で、自分を支え、共に戦ってくれる最高の家族と、守るべき多くの領民を手に入れたのだ。
「ああ、ありがとう。まずは三カ月半、死に物狂いで準備を整えよう。冬の湿原を越え、帝都へ向かうその時までに、誰よりも強靭な軍隊を作り上げる」
イリアードは立ち上がり、再び窓の外を眺めた。
夜の帳が完全に下りたアルヴェリアの街には、無数の光がまたたいていた。水路を行き交う船の灯火、家々の窓から漏れる暖かい光。それらはまるで、地上に降りた星々のようだった。
北風はますます激しさを増し、窓を叩き続けている。
しかし、イリアードの心には、冷たい風を撥ね退けるほどの、静かな決意があった。
迫り来る大戦の予感を孕みながら、アルヴェリアの長い冬の準備がはじまった。




