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『~オーレリア戦記~』  作者: りあと
『~オーレリア戦記~』
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第8章『アルヴェリアの秋』

九月。

アルヴェリアの地にかつて広がっていた不毛の泥土は、いまや跡形もない。

中心都市「アクアパレス」の周縁を彩っていた蓮の花は終わりを告げ、水路のあちこちでは丸々と太ったレンコンの収穫が始まっていた。

それは、誰もが予想だにしなかった怒濤の収穫期であった。

若き親王イリアードが命がけで指揮を執った治水工事により、例年なら壊滅していたはずの北の水田地帯は完璧に塩害を免れていた。見渡す限り、どこまでも広がる黄金色の稲穂が、重そうに頭を垂れて秋風に揺れている。

それだけではない。

イリアードが新たに整備した「塩取締所」と網の目のように張り巡らされた水路網により、ソルトラグーン(塩水湖)で生産された上質な白塩が、水運に乗って帝都や帝国の主要都市へとスムーズに運搬され始めていた。

かつて中央の貴族たちから、見捨てられていた辺境の湿地は、今や莫大な富を生み出す「塩と農産物の物流拠点」へと、劇的な変貌を遂げつつあったのである。

当然、イリアードを取り巻く環境も一変した。

以前は彼を「温室育ちの若造」と軽視していた地元の豪族や商人たちが、手のひらを返したように次々と臣従と協力を求めて挨拶に訪れるようになったのだ。

しかし、十七歳の親王は決して驕らなかった。得られた莫大な税収入をそのまま自らの懐に収めて贅沢に耽るのではなく、領内の貧民救済や、来たる冬に備えた武具・兵糧の蓄えへと速やかに回したのである。

「統治者の威光とは、着ている絹の豪華さにあらず。民の懐の温かさにある」

彼が何気なく放ったその言葉は、巡り巡って帝都の朝廷、さらには父帝ヴィンセントの耳にまで届き、畏怖と称賛を呼び起こし始めていた。

そんなアクアパレスの中心部に、一隻の舟が差し掛かる。

狭い運河の影を抜けた瞬間、一気に視界が開け放たれた。

街の中央に位置するのは、広大な湖面を贅沢に切り取った大広場「サン・クリスタル広場」である。

その開放的な石畳の空間は、周囲を一周ぐるりと壮麗な回廊と大聖堂に囲まれていた。水路に面した石畳の一部は、あえて水面とほぼ同じ高さに設計されており、穏やかな波が寄せるたび、磨き上げられた大理石の表面がまるで濡れた鏡のように青空と白い雲を映し出している。

広場の一角でひときわ存在感を放つのが、街の象徴である「白銀の大聖堂」だ。水路が聖堂の周囲を優雅に巡り、外壁に使われた細かな水晶混じりの石が、秋の陽の光を受けて繊細な煌めきを放っている。

中央付近の熱気を生み出しているのは、広場から伸びるアーチ橋のたもとに広がる水上市場であった。

朝早くから、近隣の村々から新鮮な野菜や果物、そして大河の支流で獲れた大きなマスやスズキを積み込んだ小舟がひしめき合うように集まる。船頭と店主が舟越しに行き交わせる威勢のいい買い声が、静かな水面に心地よく響き渡っていた。

大広場を囲むテラス席では、市民や旅人が名物の「薬草茶」や香ばしい麦茶のカップを手に談笑している。足元で水がさざめく音を背景に、弦楽器の優雅な調べがどこからともなく流れてくる。

大水路の真ん中に架かる、最も大きな太鼓型の石橋の上には、小さな宝石店やアクセサリー工房の露店がぎっしりと連なり、訪れた人々で賑わう街一番の観光エリアとなっていた。

日が真上に上る頃、大聖堂の鐘楼から澄んだ金属声の音が重なり合い、中央広場全体へと降り注ぐ。鐘の余韻が湖面を渡り、人々の楽しげな話し声と溶け合いながら、この美しい水上都市の心臓部を鮮やかに彩っていった。



そんな活気あふれる街を通り抜け、ほぼ一カ月ぶりに東海での海賊討伐から親王府へと戻ったイリアードを、美しくもまだ幼さの残る二人の妻が出迎えた。

「お帰りなさいませ、イリアード様。長旅、さぞやお疲れでございましたでしょう。無事のご帰還、心よりお祝い申し上げますわ」

「イリアード様、お帰りなさい! お怪我がなくて本当に良かったですわ」

正妻のリゼリアは隙のない完璧な礼を執り、側室のセシリアは嬉しそうに駆け寄ってくる。

二人とも真心の手を尽くした満面の笑顔であった。……であったのだが、その挨拶の言葉の端々に、どうにも「社交辞令」めいた響きが混ざっているのを、イリアードの繊細な神経は見逃さなかった。

それもそのはずである。

彼女たちは超常の力を持つリヴィエール家の人間だ。離れていても「念話」で連絡を取り合い、「念視」で状況を把握することなど造作もない。

つまり彼女たちからすれば、イリアードがどこでどんな戦いをして、今朝どのルートを通って帰ってきたのかまで全て『既知の事実』であり、ひときわ物珍しい話題など最初から一つも無かったのだ。

(くっ……一カ月ぶりの感動の再会のはずなのだがな……)

イリアードは内心で苦笑いを噛み殺した。

今回の海賊討伐においても、実のところはセシリアの物理干渉能力(パイロキネシスでの威嚇や瞬間移動での奇襲)を大いに借りて成果を出したのが実態である。そのため、一国の主として「ふはは、敵をねじ伏せて帰還したぞ!」と偉そうに胸を張るなど到底できず、むしろ「お世話になりました……」と偉い人に頭を下げながら帰宅した気分に近かった。

「……ああ、二人とも出迎えありがとう。留守中の内政と財務を完璧に切り盛りしてくれたこと、感謝する。リゼリア、これは君たちへの土産だ。海賊の旗艦から接収した、極上の珊瑚と真珠だ。役立ててくれ」

イリアードは、王としての威厳をなんとか保ちつつ、部下に大量に運ばせていた豪奢な箱を開いて見せた。苦心して選んだ、一級の海の宝財である。

しかし、リゼリアはふふっと可憐に微笑むだけで、驚く様子を一切見せなかった。

「ありがとうございます、イリアード様。……ただ、その珊瑚でしたら、三日前の海戦の直後に『今、素敵な珊瑚を手に入れたから土産にするぞ』と念話で仰っていましたわね。真珠のサイズも、私の念視の通りでございますわ。とても美しいですけれど……少し趣には欠けますかしら」

「うぐっ……」

すでに完全にネタバレしていた事実に、イリアードは胸を突かれた。

そこへ、すかさずセシリアが箱の隙間から別の包みを見つけて目を輝かせる。

「あ! イリアード様、それよりもこっちの後ろの包みは何ですか?……わあ、沿岸部で獲れた魚介類の干物! 姉様、見てください、すごく美味しそうなアジとイカの干物ですわ!」

「まあ、セシリア。本当においしそうね。ちょうど今夜のお茶請けや、お酒の肴に何が良いか大奥様と相談していたところですのよ」

リゼリアまでが、珊瑚や真珠の時とは比べ物にならないほど声を弾ませて干物の包みを覗き込む。

海賊から命がけで奪い取った最高級の宝石よりも、ついでに買ってきた大衆的な干物の方が圧倒的に喜ばれる始末に、イリアードは深い溜め息をつくしかなかった。

「……珊瑚より、干物か」

「おやおや、我が息子ながら相変わらず形ばかりにこだわって、女心が分かっていないようね」

部屋の奥から、上品な衣を纏った母フレデリカが、優雅に扇を翻しながら姿を現した。現皇帝の側室でありながら、いまやアルヴェリアの影の支配者とも言える存在感を放つ女性である。

「母上……。ただいま戻りました」

「大戦果でしたね。親王の活躍は、母も見ていましたよ。よくやりましたね、我が息子よ」

フレデリカは楽しげに目を細め、イリアードの肩をそっと叩いた。その言葉の裏に、『嫁二人の能力を随分とアテにしていたわよね?』という強烈な皮肉が透けて見えるのは気のせいだろうか。

「……して、母上。私がいない間、帝都への報告書はどのように?」

イリアードが恐る恐る尋ねると、リゼリアが誇らしげに胸を張って代わりに答えた。

「それでしたら、大奥様のご指示のもと、私が既に完璧な書状を代筆して帝都へ送付済みでございますわ。『東海の醜き海賊どもが、皇帝陛下の深遠なる徳と、我が黎明親王の武威の前に恐れおののき、神速の如き天罰・・によって一網打尽となりました。これぞ陛下の御威光が四海を従わせる証』……と、一文字の隙もない美しい筆致で認めておきました」

「天罰……。まぁ、セシリアが上空から炎を降らせたのは、事実上、天罰のようなものだが……」

イリアードは額を押さえた。自分たちで作った「超常的な勝利」を、すべて「皇帝陛下のメンツ」へとすり替えて円満に収める。相変わらずこの女性たちの政治的処世術は完璧すぎて恐ろしい。

「良いではないか。おかげで帝都の頭の固い貴族どもも邪推できまい。今頃、陛下も『余の威光が海を渡ったか!』と大層お喜びで、また山のような褒美の品をこちらへ送る手配をしておいでみたいです。……さぁ、そんなことより親王。せっかく持ち帰ってくれた干物です。さっそく炙って、皆で茶を飲みましょう。そなたの『苦労話』も、一応は聞いてあげますからね」

「ふふふ」と上品に笑う母フレデリカに促され、リゼリアとセシリアは嬉々として干物の包みを抱えて厨房へと向かっていく。

完璧に完成された水上都市「アクアパレス」。

その親王府の一室で、イリアードは深く背もたれに身体を預け、天井を見上げた。

「はぁ……。私は一体、何のために船上で必死に怒号を飛ばし、海賊と剣を交えていたのだろうか……」

ぽつりともらした若き王の呟きは、厨房から聞こえてくる妻たちの楽しげな笑い声と、香ばしい干物を炙る匂いの中に、優しく溶けて消えていくのだった。


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