第7章『復讐の薙刀』
八月も末の風が、焦げた木材と潮の匂いを微かに含んで船首楼を吹き抜けていく。
前回の鬼角礁沖での激闘から、わずか三日。 アルヴェリア水軍の旗艦『シードラゴン』の甲板では、職人たちの叩く槌音が絶え間なく響き渡っていた。安宅船の体当たりによって砕かれた艦首の木組みは急ごしらえの補強が施され、焦げ落ちた欄干には新しい杉材が継ぎ足されている。
「殿下、艦首の応急修理、概ね完了いたしました。また、先の戦闘で破損した長弓と矢の補充も、沿岸の砦より届いております」 副官の言葉に、親王イリアード・フォン・オーレリアスは静かに頷いた。
彼は血汚れの落ちた胸甲の帯を締め直し、遠眼鏡を手にして静まり返る海を見つめた。 照りつける太陽は変わらず蒼穹の頂に君臨しているが、海面の色は前回の碧緑とは異なり、どこか鈍い鉛色を帯びている。遠く南東の水平線には、巨大な鯨の背のような暗雲が低く垂れ込め、大気が重く湿り気を帯びて肌に纏い付いた。台風の接近を告げる気圧の低下が、海の生き物たちの気配すら押し殺している。
「敵の残党は、鬼角礁のさらに南……『蛇の巣』と呼ばれる群島に潜んでいたはずだな」 「ハッ。先の戦いで十五隻を失ったとはいえ、八幡船の総本山たる『九鬼一族』の残存勢力は未だ侮れません。何より、頭目を討たれた彼らは今、復讐の狂念に駆られております」
「復讐か」 イリアードは細身の愛剣、レイピアの柄に手を置いた。 「戦において感情を優先させた者から死んでいく。それは海の男とて例外ではないはずだ」
その時、見張り台からの打鐘が、重苦しい静寂を打ち破った。
カン! カン! カン! カン!
「急報! 南南東、十五里の海域に多数の船影! その数……二十五……いや、三十を超えます!」 「なんだと!?」 副官が目を見開く。「先の戦い以上の大船団だと? 奴ら、どこからそれほどの戦力を集めたというのだ!」
イリアードは遠眼鏡を構え、レンズの焦点を絞った。 波間に現れたのは、尋常な海賊船団ではなかった。 前回の安宅船よりも一回り巨大な、黒漆塗りの巨大安宅船が二隻。その左右を固めるのは、船首に鉄の衝角を取り付けた異様な異国風の装甲船群である。帆には「晒し首」の紋様ではなく、血のような赤で書かれた「怨」の一文字が躍っていた。
「……頭目を討たれたことで、頭目を失った小会派が一つに結集したか。あるいは、極東の本隊から増援が届いたか」 イリアードの口元に、冷徹な笑みが浮かんだ。 「良い機会だ。この海の膿を、残らずここで吐き出させよう」
イリアードは右手を高く掲げた。
「全艦隊、抜錨! 『輪形陣』を展開せよ! 火矢、長弓隊、各配置につけ!」
甲板が一気に焦燥と熱気に包まれる。兵士たちの足音が木床を鳴らし、矢筒が掠れる音が重なる。 「敵は我らの陣形戦術を分析してきているはずだ。前回の戦法だけに頼るな。間合いを制した者が勝つ!」
◇
両軍の距離は急激に縮まっていった。 風向きは東。アルヴェリア水軍にとっては微かな逆風だが、深いV字型の船底を持つ旗艦『シードラゴン』は、横風を受けても驚くべき安定感で波を突進していく。
対する海賊船団は、追い風に乗って怒涛の勢いで迫ってきた。 二隻の巨大安宅船を中核とし、その周囲を無数の関船と小早が覆う。前回の「狼の群れ」のような柔軟な陣形ではなく、力任せに一直線に我が軍の中央を食い破ろうとする「突貫の陣」であった。
「距離、四里! 敵、全速力で接近中!」
大気が揺れるほどの狂乱の音が、波音を消し去った。 海賊たちが打ち鳴らす数千の太鼓と銅鑼、そして死を覚悟した男たちの禍々しい咆哮。
「殺せ! 親王の首をあげろ! 亡き頭目の仇だ!」 「帝国の船をすべて沈めろ! 魚のエサにしてやる!」
敵の巨体安宅船の楼閣から、赤黒い鎧を纏った新たな頭目――先代頭目の弟とされる男が、長大な薙刀を振るって叫んでいた。
「殿下、敵の突進力、凄まじいです! このままでは中央が破られます!」 副官の声が引きつる。
「焦るな」 イリアードの瞳は、氷のように冷ややかだった。 「敵は復讐心で眼が眩んでいる。我が陣形の中央を破れば勝ちだと思い込んでいるのだ。……ならば、その『道』を開けてやれ」
「な……!?」
「中央の旗艦および第〇二、第〇三大型艦、微速後退。左右の第〇四、第〇五櫓船隊、翼を広げるように展開せよ。『鶴翼の陣』へ移行!」
イリアードの号令とともに、黒煙の信号が上がる。 中央の巨大艦船がじわりと後退し、あたかも敵の圧力を受けて押し込まれたかのような隙を作り出した。
「ハハハ! 見ろ、官軍が怯んだぞ!」 海賊の頭目が狂喜の声を上げる。 「一気に突き崩せ! 中央の親王艦に船体を叩きつけろ!」
罠とも知らず、三十隻を超える海賊船団の先鋒群が、開かれた「袋の口」へと雪崩れ込んできた。
「今だ」 イリアードが右手を振り下ろす。
「両翼、挟撃! 油壺を投擲せよ!」
左右から挟み込むように進出してきたアルヴェリアの快速櫓船から、無数の陶器の壺が空を描いて飛ばされた。 壺は敵関船の甲板や帆に激しく叩きつけられ、黒く粘り気のある特製の発火油がまき散らされる。
「矢隊、火矢を放て!」
「打てぇええっ!」
シュバババババッ!
真夏の暗い空を、数百の火の筋が埋め尽くした。 次の瞬間、海賊船団の中央は絶叫と灼熱の地獄へと変貌した。
ズボォッ! ギシャアアアッ!
油を浴びた関船が一瞬で巨大な松明と化す。乾燥した木材と竹の帆が爆発的な勢いで燃え上がり、黒煙が天を突いた。
「熱い! 水だ、水をかけろ!」 「ダメだ、水では火が消えん! 油だ!」
狂乱する海賊たち。船ごと燃え上がる炎の中で、全身を炎に包まれた男たちが次々と海へ飛び込んでいく。だが、突進の勢いが仇となり、後続の船が燃え盛る前方の船に次々と追突。中央は巨大な船の墓場と化した。
◇
しかし、海賊たちの執念もまた凄まじかった。
炎上する中央の惨地を強引に突き破り、黒漆塗りの巨大安宅船の一隻が、炎の壁を潜り抜けて『海竜丸』の左舷へと肉薄してきたのだ。船首に取り付けられた鉄の衝角が、凄まじい音を立てて『海竜丸』の腹を削る。
ズガガガガガァァンッ!!
衝撃で『海竜丸』の巨体が大きく傾く。甲板の兵士たちが派手に転倒した。
「鉤縄だ! 鉤縄をかけろぉぉッ!」
炎をくぐり抜けてきた海賊たちは、全身焦げ臭い匂いを漂わせ、鬼のような形相で鉄爪の縄を投げ込んできた。
「死ねぇ! 帝国兵ども!」
船縁を越え、怒涛の如く雪崩れ込んでくる海賊の精鋭たち。その数、五十を超える。 前回の戦いでイリアードが用いた「三人数組(丸盾・短槍・長槍)」の陣形に対し、彼らは狂乱の肉弾戦で挑んできた。長槍の柄を強引に掴み、自らの体に突き刺させながらも刀を振り下ろしてくる凄惨な捨て身の攻撃。
「くっ……! 奴ら、正気ではない!」 アルヴェリア兵の陣形が、狂気の突撃によって徐々に切り崩されていく。
「陣形を乱すな! 後退しながら間合いを保て!」 副官が剣を抜いて応戦するが、海賊の薙刀の一撃を受けて肩を砕かれ、甲板に崩れ落ちた。
「副官殿!」
「ハハハハ! 親王はどこだ! 兄者の首の報いを受けさせてやる!」
返り血で真っ赤に染まった薙刀を振るい、新たな頭目が甲板を薙ぎ払いながら迫ってくる。その巨体から放たれる殺気は、まさに鬼神の如くであった。立ち塞がるアルヴェリア兵の首が飛び、胴が裂ける。
甲板は瞬く間に鮮血の海と化し、重苦しい鉄の匂いが充満した。
「退がれ、兵たちよ」
乱戦のただ中、静かな声が響いた。
血煙の向こうから歩み出たのは、イリアードであった。 彼の甲冑には飛沫した血が斑点となって付着していたが、その足取りには一切の迷いも揺らぎもなかった。右手に握られた細身のレイピアは、太陽の光を浴びて青白く輝いている。
「お前がイリアードか……!」 頭目が血走った目でイリアードを睨みつける。 「よくも兄者を……我が一族の誇りを打ち砕いてくれたな! その幼い首、兄者の墓前に捧げてやる!」
「誇りだと?」 イリアードは冷ややかな眼差しで頭目を見据えた。 「丸腰の民を襲い、村を焼き、女子供をさらって金に換えることがお前たちの『誇り』か。笑わせるな」
「黙れぇぇぇッ!」
頭目が大足で甲板を蹴り、地鳴りのような踏み込みとともに薙刀を大回転させた。
ウオンッ! ウオンッ!
凄まじい風切り音が甲板を支配する。薙刀の長大な間合いと破格の破壊力は、レイピアのような細剣ではかすめることすら危険であった。一撃でも受ければ、剣ごと両断される。
◇
頭目の薙刀が、閃光となってイリアードの首筋へ横一文字に走り抜ける。
イリアードは間一髪で体を反らし、刃をかわした。風圧だけで頬の皮膚が薄く割れ、一筋の血が伝う。
「ハハハ! 逃げ惑うか、若造が!」
頭目は間髪入れず、薙刀の柄で甲板を突き、反動を利用して鋭い突きを繰り出してきた。
ズサッ!
鋭利な刃先がイリアードの胸甲を擦り、火花が散る。
イリアードは呼吸を乱さない。 (落ち着け……目を見るな。相手の間合いの『果て』を見極めろ)
レイピアという武器は、力と力のぶつかり合いでは決して勝てない。 勝機はただ一つ。相手が最強の攻撃を放ち、次の動作へ移行する「絶対の空白」――その一瞬に、最速の刺突を叩き込むこと。
「死ねぇぇぇッ!」
頭目が薙刀を上段高く振りかざした。全身の筋力を結集し、イリアードを頭頂から真っ二つに叩き割らんとする渾身の大唐竹割り。
甲板の全兵士が息を飲んだ。
薙刀が振り下ろされる。空間が裂けるような悲鳴を上げて、巨大な刃が落ちてくる。
イリアードは、逃げなかった。 踏み出す。――前へ。
死の刃が振り下ろされる直前、イリアードは頭目の懐――薙刀の柄の内側という、最も危険で最も安全な超至近距離へ飛び込んだ。
ガキィィンッ!
薙刀の刃はイリアードの背後の甲板を深く打ち砕き、木片が激しく飛び散る。
「なっ……!?」
頭目の目が驚愕に見開かれた。自分の攻撃の途中で、敵が間合いの外ではなく「内側」へ飛び込んできたのだ。柄の手元では、薙刀はただの木の棒に過ぎない。
「終わりだ」
イリアードの囁くような声。
レイピアの切っ先が、真直ぐに伸びる。
シュッ。
極限まで研ぎ澄まされた一撃。 細い銀の直線が、頭目の喉の窪みから後頭部へと貫通した。
「ガあ……っ……!」
頭目の口から大量の血が溢れ出る。薙刀の手が緩み、巨体がグラリと揺れた。
イリアードは刃を力強く抜き取ると、旋回する動作のままレイピアの柄頭で頭目の顎を突き上げた。
ゴキッ!
首の骨が折れる鈍い音が響き、巨大な体が甲板へ打倒された。二度と動くことはなかった。
「頭目が……またしても……!」
「化け物だ……この親王は悪魔だ!」
船上にいた海賊たちの顔から、復讐の狂気が消え去り、底なしの恐怖が取って代わった。
「全軍、突撃!」
イリアードの鋭い号令とともに、体制を立て直したアルヴェリアの精鋭たちが一斉に襲いかかった。三人数組の陣形が再び機能し、足場を失った海賊たちを次々と甲板から海へと叩き落としていく。
残された海賊船も、両翼から挟み込んだアルヴェリアの櫓船隊によって次々と包囲され、火矢と投石の雨を浴びて沈没していった。
◇
戦いが終わった時、空を覆っていた暗雲が切れ、西の空から濃密な朱色の夕陽が射し込んできた。
八月の海は、二度目の惨劇を飲み込み、赤く染まった波を静かにうねらせている。 漂流する船の残骸から立ち上る黒煙が、黄金色の雲に溶けていく。
「親王殿下……! 敵船三十一隻のうち、二十二隻を撃沈、八隻を捕獲いたしました! 残る一隻も大破し、沖合で沈没しつつあります!」
手当を受けた副官が、包帯を巻いた体で歩み寄り、感極まった声で報告した。
甲板のあちこちから、血と汗に塗れた兵士たちの歓声をあげる声が上がった。 「アルヴェリア万歳! イリアード殿下万歳!」
しかし、イリアードはその歓声に浮かれることなく、静かにレイピアの血を絹の布で拭い取っていた。 その瞳は、夕陽の沈む南東の海――不穏な気配を残す水平線の彼方を見つめている。
「殿下……?」
「これで、この海域の海賊の最大勢力は壊滅した」 イリアードは静かに語りかけた。 「だが、海の無法者たちが消えたわけではない。彼らを生み出す大陸の貧困、帝国の腐敗、そして異国との歪んだ交易……根底にある病を絶たねば、第二、第三の『九鬼』が現れるだろう」
イリアードは鞘にレイピアを納めると、甲板の兵士たちに向き直った。
「傷ついた兵を休ませ、捕獲した船を引き航せよ。我らの戦いは、単に敵を倒すことではない。この海に平穏をもたらし、民が安心して船を出せる国を創ることだ!」
「ハッ!」
兵士たちの力強い返答が、八月の夕暮れの海原に響き渡った。
風向きが変わり、涼やかな南風が『シードラゴン』の大きな帆を膨らませる。 破損した船体を誇らしく誇示しながら、アルヴェリア水軍の旗艦は、朱色に染まる自国の港へ向かって堂々と波を掻き分けて進んでいった。




