第6章『アルヴェリア水軍の産声』
アクアパレスから水路を南東へ百三十キロ、船で四日を要する地にフルヴィアルトはある。大河アシェロンを臨む帝国直轄領・フローラブルグの対岸に位置するその街から、一行は陸路を経て東海の天然の入江へと至った。
アルヴェリア親王領の東縁。南北に揺らめくこの海域は、浅く広がった広大な大陸棚の穏やかな表情の下に、荒れ狂う季節風と南から押し寄せる漆黒の黒潮を秘めている。ある時は、富と文明を載せた交易船や、絹や香料を運ぶ異国の商船が白い帆を並べて滑る「富の動脈」。しかしその複雑な入り江や島陰は、法の目を逃れる不敵な海賊や密貿易商たちの格好の潜伏地であり、波の彼方に境界線の消える絶対的な無法地帯でもあった。古来、巨大な大陸王朝、弓状に連なる島国、そして海を渡る異邦の勢力が、血で血を洗う覇権争いを繰り広げてきた死地である。ひとたび嵐が来れば、あらゆる野心も強大な軍艦も、等しく泥濘の底へと引きずり込まれる過酷な世界であった。
八月の東海。真夏の苛烈な光線が照りつける碧緑の海面は、一見すると静謐な鏡のように澄み渡っている。だが、刺すような日差しと重苦しい湿気の中には、直前に迫る凄惨な血溜まりの気配が濃密に立ち込めていた。
「殿下、敵船団、南東の『鬼角礁』より出現! その数、およそ二十!」
旗艦の艦首楼に立つ見張り兵の叫びが、真夏の潮騒を鮮烈に切り裂いた。 水軍を率いる若き親王イリアードは、甲板を覆う汗を拭うこともせず、結んだ唇を崩さぬまま遠眼鏡を覗き込む。その視線が捕らえたのは、強風を孕んで傾斜した竹骨の帆を掲げ、黒々とした船体を波間に躍らせる「八幡船」の影であった。
台風シーズンを前に沿岸の村々を急襲し、掠奪と放火の限りを尽くした極東最大の海賊集団。その陣形の中央には、巨木を組み上げた重厚な安宅船が一隻、仁王立ちのように海を圧している。その周りを快速の関船や小早が無数に取り囲み、まるで獲物を追う狼の群れの如く整然と迫っていた。
「見よ、官軍のノロマな大船だ! 船を奪い、役人の首を打ち落とせ!」
安宅船の楼閣から、漆黒の胴丸に身を包み鬼の面をつけた頭目が、大太刀を突き上げて吼えた。炎天下の海に響き渡る狂乱の銅鑼と太鼓。晒し首の刺繍旗が躍り、野太刀と長槍が打ち鳴らされる。彼らにとって、小回りの利かない帝国軍の巨船は「格好の標的」に過ぎなかった。
しかし、今日の帝国水軍は過去の弱兵ではない。
「狼煙を上げよ。全艦隊、事先陣の構え!」
イリアードが右手を掲げると、旗艦のメインマストから鮮やかな黄色の信号旗が滑り上がり、八月の青空へ一筋の黒煙が立ち上った。 動くアルヴェリア水軍。V字型の深い船底を持ち、揺れに強く圧倒的な高所攻撃能力を誇る「浮かぶ要塞」――イリアードの旗艦を中心に、鋭い船首を持つ櫓船や快速船が海原を足早に固めていく。
「敵船、急速接近! 距離、三里!」
◇
「火矢の準備は万全か」 「ハッ、いつでも放てます!」
副官が胸を打つ。敵の関船が荒波を蹴立て、五百メートルまで肉薄する。
「矢を放て!」
先端に油を塗られた無数の火矢が、真夏の空に漆黒の放物線を描いた。帆や甲板に刺さる矢、燃え上がる炎。帝国兵は大型の竹牌(竹盾)を並べて弾雨を遮り、水夫たちは素早くバケツの水で消火にあたる。
「距離、二百歩!」 「長弓隊、放て!」
弦の鳴る音が激しく響き渡る。しかし、海賊たちも修羅場をくぐり抜けてきた海の狂狼であった。矢の合間を縫うように関船二隻が旋回し、深い死角から旗艦の右舷へすべり込む。
ガチリ! ガチガチッ!
鉄爪のついた鉤縄が次々と船縁を噛んだ。野太刀を口に咥え、汗ばむ体で蜘蛛のように縄を登ってくる海の猛者たち。彼らの真骨頂は接触後の白兵闘争にあった。
「来おったな! 個で戦うな、隊で殺せ!」
甲板に躍り出たのは、イリアードが鍛え上げた三人数組の特殊部隊。丸盾とナタの歩兵、短槍兵、長槍兵。 船縁を越えた海賊が凄まじい威圧感で野太刀を振り下ろすが、重厚な丸盾がその必殺の一撃を重く受け止める。衝撃に腕を痺れさせながらも踏みとどまる歩兵。二撃目を繰り出そうとした瞬間、盾の隙間から二本の槍が電光石火の疾走を見せた。
ズスッ! ズサッ!
竹甲冑の隙間――喉元と脇腹を的確に穿たれた海賊が、鮮血を吹き散らして絶命する。優れた個の剣術に対し、異なる間合いの兵装とチームワークで圧殺する戦術。アルヴェリア兵は静かなリズムを保ったまま一歩一歩前進し、飛び乗る海賊たちを整然と刺殺し、海へと押し戻していった。
◇
「おのれ……妙な小細工を!」
惨状を見た海賊頭目は自ら安宅船の舵を切り、旗艦の船首へ直接体当たりを敢行した。
ズガァァァン!!
激突の衝撃の中、身の長を超える大太刀を引っ提げた頭目が艦首楼へと飛び移る。立ちはだかる二人の兵の長槍を横一文字に叩き切り、胸を裂く圧倒的な腕力。
「親王、出てこい!」
吼える頭目の前、奥から静かに歩み出た男があった。黒鉄の兜に赤い房、胸に獅子の刺繍を散らした甲冑――若き親王イリアードである。その手に握られているのは、武骨な太刀ではなく、一筋の繊細な光を放つ細身のレイピアであった。
「俺はイリアード・フォン・オーレリアス。民を虐殺する不義の徒よ、ここがお前たちの墓場だ」
鬼の面の奥でギラつく眼光。頭目が熱を帯びた甲板を蹴り、空を切り裂く風切り音とともに大太刀を振り下ろした。 イリアードは逃げない。低い姿勢で身を沈め、刃を斜めに滑らせて剛腕の一撃を受け流す。
火花が飛び散り、大太刀が甲板の木材に深く突き刺さる。 一瞬の隙。引き抜こうとしたその刹那、レイピアの切っ先が光の直線となって空間を貫いた。
「刺突こそ、最速」
研ぎ澄まされた極意。鋭利な刃が頭目の喉元を精密に穿ち、鮮血が噴き出す。引き抜く流れるような動作で首を切り裂くと、割れた鬼の面から苦悶の顔が覗き、そのまま崩れ落ちて二度と動かなくなった。
「頭目が……頭目が討たれたぞ!」 「引き揚げろ!」
波紋のように広がる絶望。逃げ惑う船団に対し、イリアードの冷徹な追撃の号令が飛ぶ。包囲された海賊船に火矢が降り注ぎ、海は燃え上がる炎と煙に包まれた。海へ飛び込んだ者たちも、待ち構える長槍に突かれ、波間に沈んでいく。
やがて阿鼻叫喚の声は夏の海風にさらさらと流され、戦場の静けさが戻ってきた。
遅い八月の夕暮れ、濃密な赤金色の光が東海の海面を染め上げていく。血で赤く染まった波間に揺れる煙と残骸。
「敵船二十隻のうち十五隻を撃沈・捕獲! 我が軍の勝利です!」
歓喜に沸く兵士たちの「万歳」の地鳴りが甲板を揺らす。 イリアードは静かに愛剣の血を拭い、鞘へと収めた。そして、夕陽に照らされる南の沿岸――守るべき自領の民が暮らす方角を深く見つめた。
「勝利に酔うな。これは始まりに過ぎん」
静かだが力強い声が、静まり返った海原に響く。
「海に賊が残り、民が苦しむ限り、我らの戦いは終わらん。船体を修復し、明日もまたこの海を守るのだ」
夕暮れの波を力強く掻き分けて進む旗艦。若き親王が創り上げた水軍の誇り高き旗は、真夏の大海原で雄々しくはためき続けていた。




