第5章『眩い夏と海への決意』
天頂から照りつける七月の太陽が、アルヴェリアを眩い夏の渦へと巻き込んでいた。梅雨の激流を悠然と受け止めた巨大な堤防は、いまや猛る高潮すら完璧に抑え込み、安寧をもたらされた大地に温かな風が吹き抜けていく。
「セシリア、君のおかげだ。……本当にありがとう」
数年はかかるはずの大事業を超常の力で成し遂げた少女へ、イリアードはかつての無知を恥じ、心からの謝意を込めて深々と頭を下げた。眩烈な陽光を身に浴びながら、側室のセシリアはいつものように無邪気で可憐な笑みを浮かべ、小首を傾げてみせる。
視線を転じれば、光を跳ね返すソルトラグーンの広大な水面がキラキラと輝き、まるで結晶した光そのもののような白塩が次々と生み出されていた。新設された塩取締所を通じて、正当な富が豊かな恵みとなって領内を潤していく。
長らく名ばかりの統治を支えてきた県令ニコラスは苦々しい笑みを残して新たな赴任先へ旅立ち、後任には父帝から遣わされた老練な文官マグナス・クレインが着任した。一方、親王府の財務と内政は正妻リゼリアの手により、息をのむほど緻密かつ鮮やかに切り盛りされている。
居城にそびえる巨大な倉庫は、領民の暮らしを支える物資が無尽蔵に湧き出る魔法の宝箱そのものだった。帝国の法を守るため貨幣だけは封印されているが、セシリアの手で溢れ出す食糧と資材は、母フレデリカの手腕によって惜しみなく活かされていた。
アクアパレスの周縁には、縦横に走る水門に沿って鮮やかなナブラナ畑、可憐に咲く蓮の花、みずみずしく葉を広げる里芋が美しい碁盤の目を描き、北部では黄金色を予感させる水田と小麦畑が風と戯れている。市街の街角を彩る咲きこぼれる花々は、フレデリカが姪であり嫁でもある二人の少女と共に丹精込めて育んだ、愛しき情景だった。
帝都から毎月のように訪れる使者は、七月の陽射しの下に立つイリアードを見て息をのんだ。そこにいたのは、かつての華美で鬱屈とした憂いを帯びた少年ではない。潮風と夏の太陽に鍛え上げられた浅黒く引き締まった肌、その瞳に宿る一国を統べし者の誇り。気高く雄々しいその佇まいに、使者はただただ深い感嘆の吐息を漏らすばかりであった。
――やがて、夏の夜が訪れる。
生まれたばかりの中心都市アクアパレス。新築された館の楼閣に立ち、イリアードは肌を撫でる爽やかな夜風に身を委ねていた。穏やかな水面には揺らめく月影が浮かび、その隣には静かに寄り添うリゼリアの温もりがある。
水と調和し、水の掟に従って息づく街。湿原特有の濃密でどこか懐かしい匂いに包まれながら、イリアードは胸の奥底で確かな自負を噛み締めていた。
「明日から東海へ参る。しばらく留守になるぞ」
リゼリアは優しく微笑み、頷いた。
「海賊討伐ですね。素敵な戦果を楽しみにしております……あ、セシリアへのお土産もお忘れなきよう」
悪戯っぽく囁くその仕草は、夫の心にあるわずかな葛藤や思惑をすべて見抜いてのものだった。超常の力を秘めたリヴィエール家の娘であるセシリアは、望む物すべてを手に入れられる。満たされた少女へ贈る最高のお土産とは何か――そんな小さな問いを投げかけつつ、二人は離れていても念話で深く繋がっていた。
帝都から連れてきた兵たちは、まだ海での操舵や船上戦に慣れておらず、十分な戦果を出せずにいた。治水や製塩といった陸の改革が軌道に乗ったいま、本格的な寒さが訪れる前に東海を荒らす海賊を一網打尽にする。それが彼の次なる決意だった。
若き親王が導くアルヴェリアは、萌芽の初夏を飛び越え、いまや爛漫たる盛夏に向かって美しく躍動していた。




