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『~オーレリア戦記~』  作者: りあと
『~オーレリア戦記~』
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第4章『ソルトラグーンとアクアパレス』

天を覆う鉛色の雲から、破れた堤を突くような土砂降りの雨が降り続いていた。 六月、アルヴェリアの地は例年以上の猛威を振るう長雨に苛まれている。濁流と化した川は牙を剥き、沖からは塩分を含んだ荒波が押し寄せる。一歩対応を誤れば、干潟の塩田は淡水に呑まれて灰燼に帰すか、あるいは海水に洗い流されて壊滅するかの瀬戸際であった。

親王府の大広間——磨き上げられた床には、巨大な羊皮紙の地図が広げられている。 「我が統治の志は、ただ税を集めることにはない。この大雨と塩害から民を守り、ここを豊かな塩の拠点に変えることだ」

凛とした声が広間に響いた。声を上げたのは、第五皇子にしてアルヴェリアの新しき領主、イリアード。齢わずか十七。帝都から赴任してきたばかりの華奢な青年に見えたが、その瞳には硬質で揺るぎない意志が宿っていた。

集められた地元の有力者や古い郷士たちは、伏せた目の中で冷ややかな色を隠さない。帝国の威光など、泥と塩に塗れたこの湿地帯では何の意味もなさないのだ。これまでやってきた高貴なだけの代官たちが、どれほどあっけなく荒地に根を上げ逃げ帰っていったか。若き親王の威勢のいい言葉も、彼らには青臭い理想論にしか聞こえていなかった。

しかし、イリアードは言葉だけで終わる男ではなかった。 「本格的な夏嵐が来る前に旧堤防を補強し、新たな水門を築く。費用はすべて我が財貨より出そう」

彼は親王としての私財を惜しみなく投じ、帝都から伴ってきた優れた技術官たちを総動員した。

言葉通り、現場は凄惨を極めた。濁流が押し寄せ、足元は足首まで泥に埋まる。降りしきる雨が視界を奪い、鋭い冷気が体温を削っていく。だが、その最前線に立っていたのは、他ならぬイリアード自身だった。

泥まみれの外套を羽織り、暗闇の雨中で松明を掲げて作業員たちを鼓舞する。 「ここを踏みとどまらせろ! この水門が落ちれば、我が領民の塩田が死ぬぞ!」

濡れ鼠になりながら昼夜を分かたず指揮を執り続ける十七歳の親王。その姿を目の当たりにし、地元の領民や職人たちの目は次第に変わり始めていた。冷ややかな疑念は驚きへ、そして泥の現場で共に汗を流す熱意へと変わっていく。帝国の威光ではなく、目の前で示される圧倒的な実行力こそが、この暗く冷たい泥の地で人々を動かす唯一の光だった。

やがて、夏嵐が本格化する前に、新堤防と強固な水門は見事にその姿を現した。

水害の危機を脱したものの、イリアードには次の課題が重くのしかかっていた。 「年内に、この広大な湿地を擁するアルヴェリアの財務を劇的に好転させねばならない」

イリアードは机上の書類を指で軽く弾いた。帝都への面目を保ち、この地に確固たる基盤を築くためには、悠長な復興など待っていられない。短期間で圧倒的な財を生み出す事業——それは、自身も多少の知見があり、この地の最大の強みでもある「製塩事業」の本格化であった。

水門と堤防の完成により、原料である海水はすでに潤沢に確保できる。残る課題は「燃料」と「人手」であった。 「製塩には膨大な火力が要る。湿地帯に生い茂るあしだけでは、大規模な煮詰めに耐えられまい」

執務室で思案するイリアードに、穏やかだが芯のある声が届いた。正妻のリゼリアである。 「イリアード様、北部の湿地帯に眠る『泥炭』を活用されてはいかがでしょう」

リゼリアは静かに地図の北領域を指し示した。 「泥炭ならば熱量は十分です。ただ、今は梅雨の真っ只中。そのままでは湿って火がつきません。ですから、屋根のある櫓を組み立て、そこで泥炭を焚き、その熱で泥炭自身と葦藁を乾燥させるのです。乾いた燃料を循環させれば、この長雨の中でも連続して塩を煮詰めることが可能になります」

正妻のリゼリアは、周辺に根を張る土豪・リヴィエール家の娘である。遠い昔に漂着した異国民の血を引くという伝説の通り、一族には独特の雰囲気を纏う美貌の持ち主が多い。しかし、彼らが秘めている最大の秘密は、念知・念視・予知といった超常の力であった。「どこを掘れば水が出るか」「鉱脈がどこにあるか」を直感的に見破るその能力が、この発想を支えていた。

「なるほど……雨を逆手にとり、櫓で乾燥と製塩のシステムを一体化させるか。見事だ、リゼリア」 イリアードは膝を打った。

そこへ、側室のセシリアが歩み寄り、鮮やかな手つきで干潟の図面を描き足す。 「私からは、海水の効率についての提案がございます。単に潮の満ち引きで海水を引くだけでは、天候に左右されすぎますわ。製塩拠点周辺にさらに堤防と水門を設け、塩水湖ソルトラグーン化してしまうのです」

「塩水湖化……?」 「はい。海水の流入を完全にコントロールし、干潟で適度に蒸発させて、あらかじめ塩分濃度を極限まで高めた『濃縮塩水』を常時蓄えておきます。これを『ソルトラグーン』と名付け、ここから海水を取って煮詰めれば、燃料の消費を劇的に抑えられます」

セシリアもまたリヴィエールの娘であり、リゼリアとは従姉妹にあたる。彼女が持つ能力は「物理的干渉」——念動や瞬間移動、パイロキネシス(発火・温度操作)を自在に操る力だ。先月、荒れ狂う雨の中で激流を抑え込み、堤防を完成させた立役者でもあった。

二人の妃による合理的かつ画期的な提言に、イリアードは確かな手応えを感じていた。 「素晴らしい。燃料の循環システムと、ソルトラグーンによる高濃度塩水の確保……これで構造は完成する」

あとは、これを動かす圧倒的な「人手」である。 「燃料」「船」「人手」——その最後のピースに対し、イリアードは冷徹かつ極めて合理的な決断を下した。 「人手は、治安を脅かす者たちから徴発する」

イリアードは帝都から連れてきた三千の精鋭兵を、治安維持・盗賊討伐・沿岸海賊討伐の三部隊に再編した。 「荒らす者どもを捕らえ、塩田の建設と製塩の苦役に従事させる。領内の治安は安寧を取り戻し、こちらは無償の労働力を得る。一石二鳥だ」

連日、討伐部隊は湿地帯や沿岸部に潜む悪党の砦を急襲した。捕らえられた者たちは、泥にまみれてソルトラグーンの護岸工事や泥炭の切り出し作業へと投じられていく。兵たちの厳重な監視のもと、無数の労働力によって塩水湖の建設は急速に進んでいった。

冷たい泥に覆われていた広大な湿原地帯は、いまや幾重もの水路が縦横に巡る美しき街並みへと変貌を遂げつつある。かつて、イリアードの母フレデリカがリヴィエールの力を借りて礎を築き、父である皇帝ヴィンセントが『アクアパレス』と名付けた水の都市——その面影が、白き蒸気の向こうに蘇ろうとしていた。

時折、激しい雨が降り続いて水害の危険が再発しても、イリアードは兵と作業員を即座に治水へと回し、徹底して水災を防ぎ切った。

かつて人々が諦めていた湿地と長雨は、若き親王の熱情、二人の妃の英知、そして厳格な統治によって、黄金を生み出す「白き塩の王国」へと姿を変えていく。降りしきる雨音に混じり、ソルトラグーンの櫓から立ち上る真っ白な蒸気と、力強い作業の掛け声が、アルヴェリアの新しい時代の幕開けを告げるように響き渡っていた。

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