第3章『初夏の予感とアルヴェリアの奇蹟』
五月下旬の風は、初夏の青々とした草木の匂いと、どこか重たく湿んだ雨の予感を含んでいた。
アルヴェリアの地にまもなく訪れる梅雨。それは領民たちにとって、作物を育む恵みの季節であると同時に、川の
氾濫という災厄をもたらす恐怖の季節でもあった。この地に流れる大河は、一度大雨が降れば牙を剥き、田畑を飲
み込み、家々を押し流す。
アルヴェリア親王イリアードの現在の住まいは、立派な本邸ではなく、質素でつつましい仮住まいの屋敷であった。
親王府の敷地内には、未だ手つかずの広大な空き地が広がっている。本来であれば、親王の威厳を示す美麗な
本邸の造成や新築工事を進めるべき時期であったが、イリアードはそれらをすべて後回しにする決断を下してい
た。
「新築など、後でいくらでもできる。だが、梅雨に入る前に治水工事を終えねば、領民の命と暮らしが失われるの
だ」
その決断のもと、イリアードは連日連夜、領内の各地を泥まみれになりながら奔走していた。老朽化した堤防の補
修、新たな大堤防の建設、遊水地の確保――。それこそが、いまアルヴェリア親王家が最優先すべき国家的一大
事だったのである。
昼間の激しい現場指揮を終え、夜の帳がしんと降りた頃。親王府の一角にある、リビングとダイニングを兼ねた広
い一室には、暖かな橙色のランプの光が満ちていた。
食後の茶を楽しむために集まっていたのは四人。
この領地の主であり、生面目な青年親王イリアード。 その母であり、現皇帝側室として今なお圧倒的な存在感を放
つフレデリカ。 正妻として思慮深くイリアードを支えるリゼリア。 そして、可憐な容姿の裏に常人離れした能力を秘
めた側室のセシリアである。
部屋には上質な茶葉の香ばしい湯気が立ち上り、陶器のカップがかすかに触れ合う心地よい音が響いていた。一
見すると、どこにでもある穏やかで平和な一族の団欒そのものである。
しかし、主であるイリアードの表情には、隠しきれない困惑と疲労、そして割り切れない思いが濃く影を落としてい
た。
◇
イリアードは手にしていた茶器を静かにソーサーへと戻した。磁器の重い音が室内に響く。彼は深く長い溜め息を
つき、向かい側に座る一人の美しい女性――側室のセシリアへと視線を向けた。
「……セシリア。君に聞きたいことがある」
イリアードの声は努めて穏やかだったが、その奥には強い追及の響きが含まれていた。
「はい、イリアード様。何でしょう?」
セシリアは小さく首を傾げ、澄んだ瞳で夫を見つめ返した。その可憐で神秘的な佇まいは、夜の静けさに実によく
映える。だが、イリアードが問い詰めたいのは、その可憐さの裏に隠された、あまりにも常識外れな出来事について
であった。
「東部領区の大堤防のことだ。……覚えているな? 本来であれば、工期に少なくとも三ヶ月を見込み、数百人の
人足と石工を動員して、梅雨の最中にようやく間に合うかどうかという大規模な難工事だったはずだ」
「ええ、存じておりますわ。イリアード様が毎日泥まみれになって現場に通っていらっしゃいましたもの。お召し物が
汚れるたびに、侍女たちが大変そうでしたわ」
「私の服の話はどうでもいい。……問題は、今朝届いた現地からの緊急報告だ。数日前まで基礎工事すら半ばだっ
たはずの大堤防が、今朝一番の報告では、なんと完璧な姿で完成していたのだよ。頑丈な石組み、精緻な排水
溝、果ては周囲の補強土手まで、何一つ隙のない完璧な大堤防が、だ」
イリアードは額を押さえ、苦々しい表情を浮かべた。
「現場の監督や作業員たちは『神の御業だ』『聖霊が降り立った』と叫んで地にひれ伏しているそうだ。……だが、私
にはわかっている。こんな超常的な芸当をなし得るのは、このアルヴェリアにおいて、いや世界を探しても、君ひと
りしかいない」
セシリアは一瞬だけ視線を泳がせると、カップを口元に運び、静かに茶をすすった。知らぬ顔を決め込もうとしてい
るのが丸分かりである。
「……いくら君が超常の力を持っているからといって、いくらなんでもやりすぎではないか? 毎夜毎夜、闇夜に紛れ
て超常的な力で治水工事を進め、一晩で巨大な堤防を作り上げてしまうなど……常識というものをどう考えている
んだ。これでは『人間が地道に汗を流して土を盛る』という世界の理が崩壊してしまう」
夫からの正論に満ちた咎めに対し、セシリアは反省の色を見せるどころか、かすかに唇を尖らせて不貞腐れたよう
にそっぽを向いた。
「やりすぎとおっしゃいますけれど……イリアード様が毎日お疲れになって帰宅されるのを見るのが忍びなかったの
ですわ。それに、もうすぐ梅雨が来てしまいますでしょう? もし工事が遅れて大水が出たら、領民の家や畑が流さ
れてしまいます。だから、ほんの少しだけお手伝いをしただけですのに……」
「『少し』の規模ではないだろう! 巨大な建造物が一夜にして立ち上がるのが『少し』で済むと思うか!?」
頭を抱えるイリアードに対し、セシリアは小さく鼻を鳴らし、ぼそりと呟いた。
「……それに、私ばかり責められますけれど、お義母様だって昔、似たようなことをなさったではありませんか」
◇
「……なんだと?」
思いがけない名前が飛び出し、イリアードは驚愕して視線をセシリアから、その隣に優雅に腰掛けている実の母親――フレデリカへと移した。
フレデリカは先代親王の未亡人でありながら、今なお気品と圧倒的な威厳を放つ女性である。彼女は息子の視線
を感じると、優美な手つきで扇を開き、心底心当たりのないといった風に微笑んでみせた。
「まあ、セシリアったら。人の昔話をそのようなところで引き合いに出すものではありませんよ」
「母上……。セシリアが言ったことは本当なのですか? 『似たようなこと』とは一体何のことです?」
イリアードの問いかけに、セシリアが助け船を出すように(あるいは義母を道連れにするように)口を開いた。
「お義母様は昔、誰も住めないと言われていた底なしの湿地帯に、たった一晩で広大な都市をお作りになってしま
ったではありませんか。それに比べれば、私が作りました堤防など、ほんの小さな置物のようなものですわ」
「湿地に……広大な都市を作った……!?」
イリアードの目が点になった。初耳であった。いくら自分の母親が若い頃から破天荒で知られ、アルヴェリアの発展
に大きく寄与した英傑であるとはいえ、湿地帯に都市を“出現”させたなどという話は、公式の歴史書のどこにも載
っていない。
「母上! それはまことなのですか!? 湿地に都市を作ったなどと、いくら母上でもそのような無茶苦茶なことが許
されるはずが――」
「あらあら、イリアード。落ち着きなさいな。お茶が冷めてしまいますよ」
フレデリカは穏やかに微笑みながら、優雅に一口お茶を含んだ。そして、あたかも今日の天気の噂話でもするかの
ように、あっけらかんと言ってのけたのだった。
「何もおかしなことなどありませんわ。あの湿地の都市も、今回のセシリアの堤防も……すべては『皇帝陛下のあり
がたい威光とお力』のおかげで突然完成したのですから」
◇
「……はい?」
イリアードの思考が一瞬完全に停止した。
皇帝陛下? 中央の帝都に鎮座する、あの神聖なる皇帝のことか?
「母上、何を仰っているのですか。帝都の皇帝陛下が、わざわざこんな遠く離れた辺境の湿地に都市をお作りにな
るはずがありませんし、そんな魔法のような力をお持ちなわけが……」
「ですからね、イリアード。世の中には『説明がつかない奇蹟』というものが存在します。セシリアの超常的な力や、
私たちがなした常識外れの事業をそのまま素直に世間に発表したらどうなると思いますか? 『アルヴェリア親王家
は怪しい術を使う悪魔の一族だ』とか『人知を超えた兵器を作っている』などと、中央の頭の固い貴族たちに邪推さ
れるだけでしょう?」
フレデリカは楽しそうに目を細め、扇で口元を隠した。
「だから私は、すぐさま帝都へ手紙を送りましたの。『我が領内の湿地に、皇帝陛下の絶大なる神通力と深遠なる威
光の賜物として、一晩にして素晴らしい町が出現いたしました! これぞ陛下の治世が神に祝福されている何より
の証拠にございます。つきましては、この奇蹟の町に、ぜひとも陛下自ら素晴らしいお名前を授けていただきたく存
じます』……と、感謝とお祝いの手紙を添えてね」
イリアードは開いた口が塞がらなかった。絶句とはまさにこのことだ。
「そ、それで……皇帝陛下は何とおっしゃったのですか……?」
「おーほっほっほ! 陛下は大層お喜びになってねぇ。『うむ! 余の威光が辺境の地にまで届き、奇蹟を起こした
か!』とおっしゃって、即座に大変立派な町の名を下賜してくださり、ついでに親王家へたくさんの褒美の品まで送
ってくださいましたわ」
「な……なんという強弁……! なんという政治的力押し……!」
あまりの破天荒ぶりに、イリアードは眩暈を覚えた。
自分たちの規格外の力で作っておきながら、『皇帝陛下の徳と奇蹟です』と祭り上げて報告し、メンツを最高形に立
てられた皇帝側もそれを否定できずに乗っかって承認してしまう――まさに狐と狸の化かし合いのような、しかし完
璧すぎる政治的処世術であった。
宮廷の手前、説明のつかない「奇蹟」を「皇帝の威光」にすり替えることで、余計な疑心暗鬼を生むことなく、すべて
を円満に収めていたのだ。
◇
呆然とするイリアードの横で、それまで静かに茶を注ぎ足していた正妻のリゼリアが、ふふっと可憐な微笑みを漏ら
した。彼女は胸を張り、どこか自慢げに言葉を添えた。
「イリアード様。実は今回のセシリアの大堤防につきましても、大奥様のご指示のもと、私が既に帝都への手紙を代
筆いたしましたのよ」
「なっ……リゼリア、君まで!?」
イリアードは驚きで妻を振り返った。淑やかで賢明、常に常識的な判断をする正妻として頼りにしていたリゼリアま
でもが、この恐ろしい「前例踏襲」に加担していたとは。
リゼリアは嬉しそうに頷きながら、手紙の内容を説明した。
「ええ。『アルヴェリアの激流を抑え込む大堤防が、皇帝陛下の深遠なる徳と治水への御心に感応し、電光石火の
如く完成いたしました。これぞ陛下の御威光が万物を従わせる証にございます』……と、心を込めて美しい筆致で
ためためさせていただきましたわ。きっと陛下も今頃、ご自身の新たなる奇蹟に満足されているはずです」
「つまり自分たちで作っておいて……陛下のおかげで奇蹟が起こった、と……?」
イリアードは呆れた顔で、深く背もたれに身体を預けた。天井を見上げる。
この部屋にいる三人の女性―― 破天荒な知恵で政治を泳ぎ切る母。 常識外れの超常能力で物理法則を無視す
る側室。 そしてそれを完璧な外交文書に仕立て上げる賢明すぎる正妻。
誰一人として、自分の引き起こした事態の異常さに罪悪感を抱いていない。むしろ、領地を救い、宮廷との摩擦も
回避する完璧なソリューションを完成させた達成感すら漂っている。
「……はぁ。私はいったい、何のために連日現場で頭を悩ませ、作業員たちと策を練っていたのだろうな……」
「まあ、イリアード様。お力落としなさらないで。イリアード様が現場で真摯に指揮を執っていらしたからこそ、セシリ
アもお手伝いしようと思ったのですし、領民も『親王様の熱意に皇帝陛下の奇蹟が応えた』と信じて、より一層イリア
ード様を敬愛するようになりますわ」
リゼリアが優しく微笑みかける。セシリアもまた、すっかり機嫌を直した様子で「そうですわ、イリアード様!」と小さく
頷いた。
「……分かった、分かったよ。もうよい」
イリアードは苦笑いを浮かべ、冷めかけたお茶を飲み干した。
無茶苦茶な手法ではあるが、これで領民は梅雨の洪水から救われ、親王家の権威も保たれ、帝都との関係も円満
に収まるのだ。親王として、これ以上文句を言う筋合いもないのかもしれない。
「さて……では明日からは、その『皇帝陛下の奇蹟の大堤防』の点検に向かうとしようか」
イリアードの言葉に、部屋の中には温かな笑い声が広がった。外では静かに、初夏の夜風が仮住まいの屋敷を吹
き抜けていく。アルヴェリアの穏やかな夜は、こうして更けていくのだった。




