第2章『泥の匂いと湿地の洗礼と狡猾な男』
幾筋もの大河を渡る長旅の車列は、日を追うごとに東へ進み、それにつれて肌を撫でる風の質感をゆるやかに変えていった。
はじめは帝都特有の、乾燥した黄色い土煙と乾燥した馬糞の混じり合う無機質な風であった。しかし、旅が半月を過ぎる頃から、風はかすかな湿り気を帯びはじめ、やがて呼吸するたびに喉の奥へまとわりつくような、深い泥と生の草木が爛熟した泥の匂いへと移り変わっていったのである。
数千に及ぶ護衛の騎兵が鳴らす蹄の音、文官や幾何学・土木を修めた技術者を乗せた大型の箱馬車が軋む音、そして膨大な糧食や建築資材を積み上げた重厚な荷車列。その長蛇の列は、地平線の彼方、ひたすら日の昇る東の方角を目指して大気を揺らしながら進んでいた。
五月中旬。初夏の陽光はもはや春の優しさを完全に脱ぎ捨て、天頂から容赦ない熱の矢となって降り注いでいた。遮るもののない街道の上で、車列はいよいよ目的の地――帝国最東端の辺境、アルヴェリアの領域へと足を踏み入れようとしていた。
馬上で手綱を握る若き親王、イリアード・フォン・オーレリアスは、ふと馬を止め、手綱を引いた。
「……これが」
イリアードの口から、吐息のような声が漏れた。
目の前に広がっていたのは、彼が十七年の生涯を過ごしてきた帝都の重厚な石造りの建築群や、整然と区画された朱雀大通りの景観とは、根本から位相を異にする圧倒的な「青」と「水」の世界であった。
本流から枝分かれした大河の支流が無数に脈打ち、網の目を描くように縦横無尽に大地を切り裂いている。その脈動の遥か先には、東海へと滑らかに没していく広大な浅瀬と、どこまで続いているのかも知れない途方もない沼地が広範囲に渡って横たわっていた。頭上を渡る風が走るたび、青々と茂った芦や水草が一斉に傾き、まるで青い大海原の波のように幾重にもうねりを上げて揺れている。
鼻腔を突くのは、かつて皇宮の自室で絶えず焚かれていた、龍脳や沈香の洗練された薫香ではない。生々しく皮膚に刺さる潮の香り、熟成し発酵した黒土の濃密な匂い、そして胸がむせるほどに力強い水草の生草臭そのものであった。
「殿下、あれに見えますのが……アルヴェリアの都督府陣営でございます」
傍らにか細い毛並みの馬を寄せた側近の老文官、マグナス・クレインが、汗に濡れた布で額を拭いながら、ゼイゼイと息を荒らして指をさした。その震える指先が示す先を視線で追い、イリアードは無言のまま深く頷いた。
アルヴェリアには、皇族たる者に相応しい壮麗な城郭も、威厳を示す白亜の塔もどこにも存在しなかった。そこにあったのは、見渡す限りの湿原の真っ只中、わずかに地盤の引き締まった微高地に、竹と粘土で粗末に組まれた頼りない陣営と、そこに身を寄せ合うようにしてひしめく数千の民の貧しい茅葺き屋根だけだったのである。
◇
アルヴェリアの地に一歩足を踏み入れたその日、湿原の初夏は容赦のない激しい洗礼となって若い親王を迎え入れた。
太陽が天頂へと上り詰めると、広大な湿地が蓄えた膨大な水分が一気に蒸発し始め、周囲の空間全体がまるで巨大な蒸し風呂へと姿を変えた。熱気が視界を歪め、空気そのものが目に見える波となって揺らめく。帝都で着用を義務付けられていた、金糸の刺繍がびっしりと施された重厚な絹の官服は、たちまち噴き出す汗を吸い込み、重く冷たく肌へべったりと貼りついた。不快な濡れねずみの感覚が、イリアードの全身の皮膚を苛む。
「殿下、どうぞこちらへ……! 粗末な天幕ではございますが、日除けにはなりましょう!」
陣営の中央に張られた大型の仮設天幕へ通されると、そこに待機していた地元の郡吏たちが、打ち揃って床に這いつくばり、一斉に平伏した。
「オルドリッチ県令をはじめ、アルヴェリア諸郡の諸吏、新しく赴任された都督親王殿下に謹んで拝謁に与かります!」
頭を垂れる役人たちの先頭に立っていたのは、五十を過ぎた異様な肥満体の男、ニコラス・オルドリッチであった。その丸く脂ぎった顔の皺には、帝都の威光が届かないこの遠い東の辺境で、長年にわたり民を搾取し、甘い汁を吸い続けてきた者に特有の、濁った狡猾さが露骨に滲み出ていた。
郡吏たちは、額を床に押し付けながらも、帝都から下向してきたばかりの十七歳の若き親王を、上目遣いに密かに観察していた。
(ふん、都の温室で蝶よ花よと甘やかされて育った世間知らずの若造が。このような泥と蚊の群がる地獄に何日耐えられるものか)
彼らは心の中で鼻で笑っていた。この湿地の猛暑と、肌を刺す毒虫の群れに晒されれば、どんな貴族の坊壮も数日で音を上げ、泣き叫んで酒と女のいる快適な内陸の館へ逃げ出すに違いない。形ばかりの恭順を示し、お坊ちゃんのプライドさえ傷つけずに威厳を保たせてやれば、あとは自分たちがこれまで通り、この湿地の水利権と物資を好き勝手に貪り続けられる――彼らはそう高をくくっていたのである。
ニコラス・オルドリッチは、擦り切れた揉み手をしながら、うやうやしい手つきで冷えた薄茶の杯を捧げ持った。その声は、耳の奥に粘りつくような猫なで声であった。
「殿下、長途のご旅路、さぞやお疲れでございましょう。ここアルヴェリアは、帝国の最東端、文字通りの見捨てられた泥沼地にございます。これより盛夏に向けて日差しはさらに狂気を帯び、悪疫を運ぶ羽虫の群れが雲のごとく湧き出します。到底、高貴なる皇族のお体に耐えられる環境ではございません。政務や治水のごとき泥臭い雑務は、長年この地の癖を知り尽くしております我らにお任せいただき、殿下におかれましては、内陸の景勝地に設けた快適な別館にて、どうか心ゆくまでご養生くだされ」
言葉こそ至高の敬意に満ちていたが、その小さな豚のような瞳の奥には、若き親王を政務の蚊帳の外へ追いやった上で完全な飾りの傀儡とし、自分たちの利権を守ろうとする明確な蔑視と暗い企みが潜んでいた。
イリアードの背後に控えていた帝都直属の文官たちが、その不敬な申し出に顔を激昂させ、「無礼者! 親王殿下に対して何たる言いぐさだ!」と声を荒らげようとした。
しかし、イリアードはすっと右手を美しく挙げてそれを制した。
「……なるほど。私の体をそこまで気遣ってくれるか、オルドリッチ県令」
イリアードの薄い唇に、涼やかな笑みが浮かんだ。帝都の宮廷社会で磨き上げられた、隙のない美しく洗練された笑みであった。しかし、その涼しげな切れ込みの奥にある水晶のように澄んだ瞳は、ニコラス・オルドリッチの胸の底にある醜い打算を、正確かつ冷徹に射抜いていた。
「ですが殿下! この地の民は教育もなく野蛮で、水路は複雑に蛇行し、底なしぬかるみは誠に危険でございます! 万一、皇族の尊いお体に傷でもつけば、我らは宮廷に対して首を切り落としてお詫びせねばなりません!」
なおも恭順を装いながら追い払おうと引き下がらないオルドリッチに対し、イリアードは一言も発せず、静かに立ち上がった。
そして、自身が着ていた金糸刺繍の豪奢な帝都の絹の羽織に手をかけると、何の躊躇もなくそれを脱ぎ捨て、天幕の床へ滑り落とした。
あらかじめ側近のマグナスに命じて用意させていたのは、装飾の一切ない質素な麻で織られた乗馬服と、油をしっかり染み込ませた頑丈な革の長靴であった。
「で、殿下……!? 何をなさいます、そのような汚らしい身なり……!」
驚愕して目を丸くする郡吏たちを余所に、イリアードは慣れた手つきで麻服の袖を肘の上までたくし上げ、背中にたれかかっていた黒髪を細い皮紐で固く結い直した。
十七歳とはいえ、皇室の伝統に従い剣技と馬術の鍛錬を一日たりとも怠らなかったその体躯は、無駄な脂肪が一切なく、しなやかな筋肉に覆われていた。それは帝都の軟弱な貴公子たちの姿とは程遠い、野性と理知が同居した力強さに満ちていたのである。
「快適な館で酒を酌み交わすために、私は帝都から数千キロの過酷な道を渡ってきたのではない」
イリアードは静かに言い放った。その声の音量は低かったが、天幕の重苦しい空気を一瞬で塗り替えてしまうほどの、重厚な威厳が籠められていた。
「オルドリッチ県令。そなたの言う通り、間もなく本格的な夏が来る。梅雨が訪れ、海からの高潮が押し寄せれば、この無防備な湿原はどうなる? 我らが冷えた酒を飲み、濡れぬ場所で休んでいる間に、民の耕した畑は塩水に沈み、家々は流されるのではないか?」
「そ、それは……しかし殿下、この地ではそれは毎年の『自然の摂理』でございまして……」
「毎年のことだからと放置してきたからこそ、アルヴェリアはいつまでも泥の底に沈み、民は飢えているのだ!」
イリアードは汗の浮く白い額を、自らの麻服の袖で無造作に拭うと、振り返ることもなく天幕の出口へと歩み出た。
「馬を引け! これより領内を巡視する!」
「殿下! お待ちくだされ! 今日の日差しは毒でございます! 悪疫の毒虫が……!」
狼狽してブタのような体を揺らしながら追いかけようとするオルドリッチらを一瞥もせず、イリアードは天幕の外で待機していた愛馬の背へと、一連の無駄のない動作で飛び乗った。
「アルヴェリアの現状をこの目で確かめぬ限り、私は一滴の酒も飲まんし、館の敷居も跨がぬ。案内せよ、オルドリッチ県令。そなたも馬に乗るのだ」
肥満体のオルドリッチは顔を蒼白に変え、滝のような冷や汗を流しながら、膝をガクガクと震わせて這うようにして馬の背に跨がった。
◇
初夏の強い陽光は、逃げ場のない広大な湿原を無慈悲に照らし続けていた。
イリアードを頭とする一行は、泥濘むぬかるみの中に申し訳程度に作られた細い踏み分け道を、幾時間も深く深く進んでいった。
留まることを知らぬ湿気がまとわりつき、一呼吸するたびに熱い蒸気が胸の奥へ押し寄せて、肺を焼き焦がすかのように苦しい。頭上からは灼熱の日差し、足元からは腐敗した有機物が放つドブのような悪臭。馬がひとたび足を踏み外せば、あっという間に膝まで泥に埋まり、抜け出せなくなるほどのひどい悪路であった。
「殿下……ハァ、ハァ……これ以上は……これ以上先は、底なしの沼でございます! 危険すぎます!」
後方で馬の首にしがみつくオルドリッチが、半泣きになりながら悲鳴のような声を上げた。その肥えた顔は汗と跳ね上がった泥で泥まみれになり、帝都から来たうぶな親王を試そうとしていた余裕など、もはやみじんも残っていなかった。
しかし、イリアードは馬を止めなかった。彼の強い眼差しは、目の前に次々と現れる凄惨な現実にのみ注がれていた。
そこにあったのは、大河の支流と東海とを繋ぐ、無数の古びた水路の残骸であった。
堤防と呼べるような堅牢な構造物はどこにもなく、単に泥を積み上げただけの頼りない土手が、申し訳程度に水流を仕切っているに過ぎない。水路のあちこちは長年の堆積物と泥砂で完全に埋まり、水流は濁って滞り、ボウフラが湧いていた。
「これが……アルヴェリアを支えるはずの水路なのか……」
イリアードは馬を降りると、迷うことなくその膝まである黒い泥の中に踏み込んだ。高価な革のブーツが粘りつく泥に飲まれ、水草の長い茎が足首に絡みつく。
「殿下! なにをなさいます、そのようなお召し物で!」
側近の文官たちが慌てて手を貸そうと駆け寄ったが、イリアードはそれを手で制し、自ら土手に近づいて、湿った泥を手で直にすくい上げた。
指の間から、水分を含みすぎた粘土の塊が、ボロボロと手応えもなく崩れ落ちていく。
「……酷いものだな」
イリアードの低いつぶやきが、風に消えた。
「土に粘土質が圧倒的に足りず、補強するための木杭も手入れがされず腐り果たしている。これでは、少しの大雨で土砂が崩落し、水路は一瞬で埋没する。そして水路が塞がれれば、逃げ場を失った大量の水が溢れ出し、民の田畑を飲み込む……。オルドリッチ県令、私の見立てに間違いがあるか?」
後ろから這うようにして近づいてきたオルドリッチは、泥まみれになりながら土を凝視する若い親王の姿を見て、完全に言葉を失っていた。
彼が知る帝都の皇族や高官とは、美しい庭園で詩を詠み、優雅に舞を鑑賞し、美味しい酒を交わすだけの存在であった。自ら泥に塗れ、その手で土地の土質を直接確かめるような真似をする皇族など、彼のこれまでの人生の常識には存在しなかったのである。
「で、殿下……この地はあまりにも海に近く、盛夏に高潮が来れば、いかなる強固な堤防も一撃で破壊されます。ゆえに……ゆえに民もまともに田畑を耕す気力を失い、塩を焼くか、あるいはただその日暮らしを……」
「最初から諦めているのだな」
イリアードはニコラス・オルドリッチの長い言い訳を、冷たく遮った。その声にあったのは、怒りや非難ではなく、あまりにも深い哀しみと胸を刺すような痛みであった。
「民が諦めているのは、苛烈な自然災害のせいではない。領主や役人であるそなたたちが、最初から何ひとつまともな手を打とうとせず、見捨ててきたからだ」
イリアードはゆっくりと立ち上がり、ぬかるみに立ち尽くしたまま、見渡す限りの湿原を見渡した。
湿った薫風が吹き抜け、青々とした芦の群生がカサカサと音を立てて揺れる。一見すると、太陽の光を浴びた美しい初夏の風景。しかしその美しい景観の下には、毎年のように洪水と塩害の恐怖に怯え、家を流され、極貧の中で飢えに喘ぐ数万の民の血と涙が隠されていたのである。
今、五月中旬。あと半月もすれば、天を突き破るような豪雨をもたらす長雨の季節――梅雨がやってくる。そして盛夏には、海から巨大な高潮がこの平野全体を襲う。
もし、この脆弱で無防備な水路のままその時期を迎えれば――アルヴェリアの民はまたしてもすべてを失い、泥の中で飢えて死ぬことになるだろう。
「帝都を出るとき、私は自らの心に強く誓ったのだ」
イリアードは泥の付いた自らの両手を見つめながら、静かに、しかし二度と揺らぐことのない固い意志を込めて語りかけた。
「このアルヴェリアを、帝国のゴミ捨て場、泥の捨て場には絶対にさせない。大河の暴れる水を制し、海からの狂暴な塩を防ぎ、ここを千年の後まで豊かな実りをもたらす、黄金の豊饒の地に変えてみせる」
イリアードはクルリと振り返り、そこに集まっていた郡吏たち、そして息をのんで控えていた護衛の兵士や文官たちを一斉に見渡した。その瞳には、初夏の灼熱の陽光すらも凌駕するほどの、熱く強い情熱が宿っていた。
「オルドリッチ県令! ただちに領内のすべての工匠と、長年この水路を見続けてきた水利に詳しい老民を集めよ! 明日より、アルヴェリア全域の水路の改修と、海を防ぐ大堤防の建設を開始する!」
「え……ええっ!? 殿下……!? 大堤防でございますか!? 殿下、梅雨はもう目と鼻の先でございます! 今からそのような天をも穿つような大工事など、物理的に間に合うはずが……!」
「間に合わせるのだ!」
イリアードはきっぱりと、雷鳴のごとく言い放った。
「民だけに負担を強いるのではない。帝都から連れてきた我が護衛の兵三千も、全員の甲冑を脱がせ、土木作業につかせる。そして私もまた、毎日この現場に立ち、民や兵と共に泥を運ぶ!」
「殿下が……皇族たる殿下ご自身が、泥を運ぶとおっしゃるのですか!?」
オルドリッチをはじめとする地元の郡吏たちは、あまりの衝撃と信じられない言葉に開いた口が塞がらず、膝からその場の泥濘の中へと崩れ落ちた。
皇族自らが泥に塗れて土木工事を行うなど、数千年の帝国の歴史において聞いたことも、古文書に記されたこともない前代未聞の狂気の沙汰であった。
しかし、イリアードの表情には微塵の迷いもなく、真剣そのものであった。彼がその瞳で見つめていたのは、目の前に横たわる汚らしい泥濘ではなく、その泥の向こうに確かに存在する、未来のアルヴェリアの輝かしい姿であった。
「帝都の朱雀大通りに咲く花は確かに美しい。だが、私が真に作りたいのは、民が恐れることなく安心して暮らし、秋になれば黄金色の稲穂が風に揺れる、このアルヴェリアの生き生きとした道だ」
若き親王のその言葉は、初夏の湿った薫風に乗って、どこまでも広がる壮大な湿原の果てへと広がっていった。




