『湿地の大地アルヴェリア』
とある世界の大陸の物語。
東側の三分の一を支配する大国オーレリアが、その繁栄の三百年目を迎えようとしていた頃である。
皇帝ヴィンセントの息子。第五皇子イリアードに婚姻話が持ち上がったのは、二年前のことであった。
大帝国の法において、皇子の婚姻は単なる祝典にとどまらない。それは「一人の皇族」から「領主」へと脱皮するための、厳格な儀礼であった。未婚のうちはどれほど聡明であろうとも、帝都の宮廷に囲われた「雛」に過ぎない。しかし、ひとたび妃を迎えれば親王の称号が授けられ、同時に自ら治めるべき広大な所領が与えられる。それは中央の庇護を離れ、過酷な政争の舞台へと立つ、文字通りの自立を意味していた。
その日、帝都の宮殿は歓声と祝福の鐘の音に包まれていた。
「本日より、そなたを『親王』へと封じる。これなるが、そなたの治めるべきアルヴェリア領の印章である」
玉座の間。威厳に満ちた皇帝の声が大理石の床に重々しく響き渡る。跪く第五皇子―――否、今日から親王となったイリアードは、拝領した重厚な金印を両手で受け止めた。その隣には、純白の婚礼衣装に身を包んだ、まだ緊張の色の抜けないうら若い妃・リゼリアが寄り添っている。
これまでは何をするにも皇帝の許しが必要だった。だが、この婚姻の儀を境に、彼は一国に匹敵する領地を支配する絶対的な権力者となる。同時にそれは、治世の成否によって次の帝位継承者としての器を試される試練の始まりでもあった。
「―――臣、謹んで拝命いたします。我が領民を慈しみ、帝国の東の盾としてこの命を捧げる所存です」
イリアードは力強く応じ、リゼリアへと視線を向けた。彼女もまた、小さく、しかし覚悟を秘めた瞳で頷き返す。
―――だが、若き新親王に与えられた「アルヴェリア領」の実態を、都の貴族たちは知っていた。そこは、華やかな帝都の貴族たちが誰一人見向きもしない、見渡す限りの広大な湿原地帯であった。農地としては泥深く、商業の要衝からも外れたその寒村が選ばれたのは、決して偶然ではない。
すべては、彼の生母である婕妤フレデリカが、あらかじめ皇帝へと涙ながらに懇願し、執念で勝ち取った「親子四人の安住の地」であった。
身分の低さを補って余りある美貌と聡明さで皇帝の寵愛を受けた彼女は、後宮という底なしの泥沼を誰よりも知り尽くしていた。一歩間違えれば、最愛の息子は有力な妃たちの嫉妬を買い、暗殺の標的になりかねない。だからこそ、彼女はあえて自らの故郷であり、最も価値が低いとされる不毛の泥地を息子の所領として望んだのだ。そして同時に自らも後宮の地位を捨て、息子の赴任に同行して宮廷を去る許しを皇帝から取り付けていた。
「あの泥地に、親子揃って引きこもるか。あやつらは完全に帝位争いから降りたのだな」
宮廷の政敵たちが冷笑する。だが、それこそが母親の狙い通りであった。
帝都を離れる前夜、荷出しの終わった静かな宮で、婕妤フレデリカは息子と、娘同然に育ててきた正妻リゼリア、側室セシリアの前に穏やかな微笑みを浮かべて佇んでいた。
「母上。本当に、後宮を出て私と共に行かれるのですね。しかし、なぜあの湿地なのですか? 宮廷では、我ら親子が都落ちしたと皆が嘲笑しております」
若き親王の問いに、婕妤は優しく、しかし確固たる意志を宿した瞳で息子と妃たちを見つめ返した。
「我が子よ、親愛なる二人の妃よ。怒ってはなりません。権力の中心に近いということは、常に死と隣り合わせということ。価値のない土地だからこそ、誰もあなたたちから奪おうとはしないのです。あの湿地は、我が身を挺してでもあなたたちを守るための『盾』なのですから」
母は二人の妃の手をそっと重ね、諭すように言葉を続ける。
「あそこは私たちの故郷。確かに貧しく泥にまみれた場所ですが、都の毒に染まらぬ温かい人々がいます。私もこれからは一人の母として、あなたたちのそばで余生を過ごします。誰の目も気にすることなく、お前たちの国を創りなさい。生きて、生き延びること・・・・・・それだけが私の願いです」
すべてを捨てて自分たちと共に歩む道を選んだ母の深い愛と、激しい後宮を生き抜いた覚悟に触れ、イリアードは胸を熱くした。己を縛るための左遷だと思っていたものは、母が命がけで整えてくれた「家族の自由への切符」だったのだ。
翌朝、帝都の門の前には、数々の馬車と兵士からなる大行列が仕立てられた。華やかな宮廷生活との別れ、そして自らの領土への旅立ち。馬車に乗り込む間際、イリアードは振り返り、朝日に照らされる壮麗な皇宮を見上げた。
「行こう! 我らのアルヴェリアへ」
若き親王の号令とともに車輪が重々しく回り始める。彼らは新たな天地へと向かって、力強く歩み出した。
登場人物
〇イリアード・オーレリアス帝国の第五皇子にしてアルヴェリア王。母フレデリカからリヴィエール一族の血を引いているため、微弱ながらも超常能力を宿している。とはいえ、妻たちのように自在に操れるわけではなく、せいぜい「人一倍、勘が冴える」という程度。しかし、彼の真の才能は別のところにある。皇太后、皇后、そして皇帝といった最高権力者たちを前にしても決して物怖じせず、失言や失敗は皆無。皇宮内では、母譲りの卓越した世渡り術を持つ「侮れない皇子」として一目置かれている。一方で、私生活では超常能力のプロフェッショナルである2人の妻に完全に手の内を読まれており、愛の告白すらする前に看破されてしまう始末。今ではすっかり開き直っているものの、サプライズの一つも仕掛けられないため、「一般的な男女のロマンスを楽しめない」のが密かな悩みである。父である皇帝からは「出来の良い息子」として高く評価されがちだが、それが却って後宮の標的になることを危惧した母から、「決して寵愛を受けすぎてはならない」ときつく釘を刺されている。
〇フレデリカ・リヴィエール
婕妤フレデリカ。イリアードの母。リゼリアの叔母で義母。セシリアの叔母で義母。
アルヴェリアの一族・リヴィエール家の出身である。宮女として帝都の皇宮に入り、古琴の奏者となった彼女は、やがて皇帝の目に留まって側室となった。身分の低い宮女上がりでありながら、その類まれな美貌と音楽的才能によって皇帝の寵愛を独占した。しかし、政治的な後ろ盾を持たなかった彼女は、後宮の羨望と激しい嫉妬を一身に集めることとなる。やがて妊娠し、第五皇子イリアードを出産したフレデリカは、自身の位(身分)が上がるのを辞退しつつ、後宮内で生き残るために尽力した。イリアードが11歳になった頃、彼女は故郷アルヴェリアから姪を2人帝都に呼び寄せ、自身の侍女として教育を施した。その頃すでに、フレデリカの頭の中には、その姪たちをイリアードの妃(嫁)にするという青写真が描かれていたと思われる。帝国のしきたりでは皇子が15歳になると結婚する事ができる。そして親王の称号をえて後宮を出て帝都に居を構える事が出来る。または領地に赴き自らその地で統治する事が可能であった。そしてその母親が側室であった場合。夫である皇帝の許可をえて後宮を出る事が可能となる決まりがあったのだ。
〇リゼリア・リヴィエール
第五皇子イリアードの正妃(王妃)にして、フレデリカの姪。一族の女性が宿す「超常の力」を色濃く受け継ぎ、予知・念話・透視・念聴といった精神干渉の能力を幅広く操る。その天才ぶりは凄まじく、誕生直後にはすでに伯母・フレデリカとの念話に成功していた。10歳という若さで帝都へ上がる際も、フレデリカの真意や後宮の情勢をすべて見抜いた上で皇宮へと足を踏み入れている。能力を通じて心を分かち合う従妹のセシリアとは、互いを「最上の親友であり、唯一無二の姉妹」と認め合う極めて強い絆で結ばれている。
〇セシリア・リヴィエール
イリアードの側室であり、リゼリアと同じくフレデリカの姪。彼女が有する超常能力は、念動、瞬間移動、さらにはパイロキネシス(発火・温度操作)といった「物理的破壊力」に特化している。日頃は明るく天真爛漫で、まるで天使や妖精のように愛らしい女性だが、ひとたび怒らせれば一転して最凶の存在と化す。遥か遠方から標的の命を奪うことすら容易いが、その強大な力は彼女自身の高い理性によって辛うじて抑え込まれている。とはいえ、日常的なちょっとした悪戯や仕返し程度であれば、お茶目に連発している。
〇リヴィエール家
アルヴェリア周辺に根を張る土豪の一族。遥か昔、この地に流れ着いた「異国の漂流民」の血を引くという伝説があり、一族には独特の雰囲気を纏った美貌の持ち主が数多く生まれる。しかし、彼らが秘めている真の謎はそれだけではない。一族の根幹に関わる「もう一つの秘密」が存在するが、それについて語ることは、一族の者たちの間では暗黙のタブー(公然の秘密)となっている。
〇アルヴェリア
主に大運河の重要都市ベラグランデの対岸にある小さい町の名前であった。
東部に広がり、東海までの広大な湿地帯は不毛の地として放置されており、
これらすべて含んだ地域を総括してアルヴェリアと呼ばれるようになっていた。
現在は親王領となっている。
〇アクアパレス
アルヴェリア湿地帯の中央付近に突如出現した。流麗華美な水の都。
アルヴェリア親王府が置かれ、アルヴェリア全体の行政の中心地となっている。
〇ソルトラグーン
アルヴェリア北東部にて細々と干潟で製塩が行われていた名もなき集落の集まりであったが、
親王の統治が開始されて以来、水門と堤防で囲んだ塩水湖が作られた。
その一帯をソルトラグーンなつけられて製塩の一大拠点として変貌した。
〇皇帝ヴィンセント
帝国現皇帝。イリアードの父。イリアードの母フレデリカは彼の側室である。
〇帝都オクタヴィア
帝国の首都。
〇大河アシェロン
帝国南部と中央を東西に走る雄大な河川。
〇フルヴィアルト
アルヴェリア南部の町。大河アシェロンの河口近くにあり、南の対岸には帝国直轄領の都市、フローラブルグがある。
〇フローラブルグ
大河アシェロンと東海を交差する位置にある。帝国直轄領の都市。
交易の重要拠点であり、古代の国の首都となる事が多い重要地域として帝国直轄領となっている
〇アシュウェスト
大河アシュロンと南北を繋ぐ大運河が交差する西にある港町。帝国内物流の重要拠点である。




