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『~オーレリア戦記~』  作者: りあと
『~オーレリア戦記~』
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第10章『二月の出陣と赤狼の谷』

冬の到来。

アルヴェリアの湿原を包む風は日ごとに冷たさを増し、年が明ける頃には世界は完璧な白銀の沈黙へと塗り替えられていた。かつて底なしの泥と病魔が澱んでいたこの辺境の地は、親王イリアードの卓越した執政と改革によって整備され、いまや強固な石造りの水路と頑丈な防壁に守られた要塞都市へと変貌を遂げている。

そして――約束の二月が訪れた。

「殿下、出陣の刻限にございます」

近衛長の声が、政庁の執務室に低く響く。イリアードは静かにペンを置き、卓上に広げられたアルヴェリア領全域の地図を丹念に見つめた後、ゆっくりと立ち上がった。その身に纏うのは、豪奢な装飾を排した硬質で実用的な黒鋼の甲冑である。肩には上質な狼の毛皮の外套が羽織られ、過酷な北方の寒気からその身を守っている。

執務室の重厚な扉が開かれ、二人の女性が姿を現した。正妻のリゼリアは気品漂うドレスの上から豪奢な羽織を纏い、両手には重ねられた軍糧目録と補給計画書をしっかりと抱えている。側室のセシリアは、精神を極限まで研ぎ澄ませたことが窺える、静謐にして機能的な装いであった。

二人はこの遠征には同行しない。物理的に過酷な前線へ赴くのではなく、ここアルヴェリアの親王府を『絶対の通信・索敵拠点』として守り抜き、千里の道を隔てた戦場へ直接その精神を飛ばして遠隔支援を務めるのだ。

「リゼリア、セシリア。準備は完璧か」

イリアードが問いかけると、リゼリアが穏やかに、しかし絶対の自信を込めて頷いた。

「はい、殿下。海賊討伐の報奨金、および独自の手配で買い付けた防寒物資、そして乾燥糧食は、すべて先発隊と補給隊の荷車へ積み込みを完了いたしました。帝都から派遣されてきた大将たちが呆れ果てるほどの、完璧な兵站備蓄でございます。私とセシリアはここ親王府の儀式の間より、片時も離れず殿下方の補給と背後を守り続けます」

セシリアもまた、その澄んだ瞳に静かな闘志を宿して一歩踏み出した。

「全軍三千、すでに前庭にて整列を終えております。湿原の戦術から、雪中・山岳での立体戦術への切り替え訓練も、この三カ月半で過剰なほど叩き込みました。兵たちの士気は最高潮。いつでも出撃可能でございます」

「頼もしい限りだ」

イリアードは二人の肩に優しく手を置き、その温もりを感じ取った。かつて帝都の宮廷で孤独に苛まれていた自分には、信じられる者など誰一人としていなかった。だが今、この地で手に入れた最高の伴侶たち、そして自分を信じて従う三千の精鋭がいる。

政庁の広大な前庭に立ち出ると、そこには黒と銀の甲冑に身を固めた三千のアルヴェリア軍が、凍てつく北風の中で微動だにせず佇んでいた。特製の防水油脂を塗り込んだ防寒幕、滑り止めの鉄環を穿たせた荷車の車輪、そして一人ひとりの肩に掛けられた上質な毛皮。それらはすべて、この三カ月半の間にイリアードと後方を守る二人が、死力を尽くして整えた「命の装備」であった。

「皆のもの、よくぞ短期間でこれほどの準備を整えてくれた!」

イリアードの声が、凍りついた空気を切り裂くように響き渡る。兵たちの熱い視線がいっせいに主君へと集まった。

「これより我らは、オテゲン皇国との戦いのために帝都の集結地へと向かう! 父帝の命による遠征ではあるが、我らの目的は帝都の醜い権力闘争に付き合うことではない! このアルヴェリアの平穏と、我らの誇り、そして何よりも大切な家族を守り抜くことだ! 往くぞ、アルヴェリア軍!」

「「「オオオオオッ―――!!!」」」

三千の喉から押し出された地鳴りのような勝ち鬨が、空を覆う暗雲すら吹き飛ばさんばかりの熱量となって北の大地に広がった。

重い鉄の門が開かれ、アルヴェリア軍は美しい雪煙を上げて前進を開始した。イリアードが馬上で静かに意識を集中させると、遠く親王府に残ったリゼリアとセシリアもまた、静寂に満ちた部屋でそっと瞳を閉じた。

途端に、空気の密度が精神の深淵で変容する。言葉を介さない、超高密度な『念話』による精神の交信回路が開かれた。

『――親王、聞こえますか』

脳裏に直接響いたのは、同じく親王府にいる母フレデリカの清らかで優美な声であった。遠く何百里も離れた帝都の動向が、念の波長を通じて鮮明に共有される。

『母上。無事に出陣いたしました。帝都の様子はいかがですか』

『ふふ、相変わらず浅ましい狐たちの化かし合いが続いておりますわ』

フレデリカの冷ややかな笑みが行き交う。

『各地から集まりつつある諸侯の軍勢は目も当てられません。急な動員に兵站が追いつかず、帝都への道中で早くも脱走者や凍死者を出す部隊が相次いでおります。さらには第一皇子、第二皇子、第三皇子の派閥が、補給物資の配分を巡って泥沼の押し付け合いを始めておりますの』

『惨状だな』

イリアードは冷静に思考を巡らせる。

『定石通り、我らは帝国本隊とは一定の距離を保ち、補給も自給自足を通す。下手に帝都の補給線に頼れば、奴らの都合で干上がらされることになる』

『その判断で正解ですわ、殿下』

親王府の執務机で念話を開く、リゼリアの微笑む気配が差し込んだ。

『帝都の商人たちを通じて買い占めた糧食は、行軍ルートの極秘倉庫数箇所に分けて分散配置してあります。第一皇子派の嫌がらせがあろうとも、我が軍の補給が途切れることは絶対にございません』

さらに、親王府の魔導陣の中央に座すセシリアの鋭い意識が割り込む。

『また、私の『念視』による先導と、念話の同調も順調です』

『頼もしいぞ、三人とも』

イリアードの強い決意が精神の海を満たす。

『帝都の無能どもが自滅していく中で、我らは静かに、確実に勝利の盤面を作り上げる』

凍てつく吹雪の中、アルヴェリアの黒き軍列は一人の脱落者も出すことなく、完璧な規律を保って帝都への街道を突き進んでいった。

三月中旬、アルヴェリア軍は帝都北方に位置する大平原『ヴェルダン集結地』へと到着した。

そこはまさに、混沌そのものであった。五万を超える帝国各地の軍勢がひしめき合い、無数の幕営がどこまでも広がっている。だが、その華やかな軍旗の群れとは裏腹に、陣中には飢えと寒さに震える兵たちの呻き声が満ちていた。補給の滞りによって燃料の薪すら不足し、体調を崩した将兵が野積みにされている有様だった。

「おい、そこの軍! なぜ指定の泥地に陣を張らんのだ! 勝手に小高い乾いた丘を占領するなど、軍律違反であるぞ!」

到着早々、豪奢な衣装を着た帝都の輜重官しちょうかんが、馬に乗って怒鳴り込んできた。

イリアードは馬上から冷徹な視線を走らせた。「我が軍は独自の防寒幕と天幕を有しているゆえ、この丘に陣を張る。他軍への迷惑は一切かからん」

「はっ! これはこれは親王殿下! 第五皇子殿下のアルヴェリア軍でしたか! とんだ失礼を……!」

輜重官しちょうかんが慌てて平伏したその時、背後から甲高い高笑いが響いた。

「ハハハ! 威勢がいいではないか、五弟よ!」

金銀の刺繍が施された絢爛豪華な甲冑を身に纏い、十数人の親衛隊を引き連れて現れたのは、第一皇子ヴァルハルトであった。長男であり、皇子では最年長として自尊心の塊のような人物である。側室の息子という理由で立太子されなかった事が、かえって彼を傲慢にしていた。

皇太子になれなかったのは母親の身分が問題なのであって、自分の器量には何の問題もないと思い込んでいるのだ。それでいて、生母の身分が最も低い皇子であるイリアードに対しては、徹底的に見下し、偏見を持っていた。もし自分が皇帝になれずとも、新皇帝の「偉大なる兄」として君臨すればいい――そう都合よく考える男である。

「兄上……」

イリアードはすぐさま馬から降り、長幼の序をもって礼をした。

ヴァルハルトはサッと視線を走らせ、アルヴェリア軍兵士たちの完璧な防寒装備と、丸々と肥えた軍馬、特製の糧食車を目にすると、露骨に不快そうな嫉妬の色を浮かべた。

「ふん、海賊退治の余り金で贅沢な装備を整えたようだな。だが、図に乗るなよ。此度のオテゲン遠征、俺が総軍の主導権を握った。二弟の弱虫どもは、とっくに後方の警戒役に追いやってやったわ!」

ヴァルハルトは鼻を鳴らし、わざとらしく胸を張った。

「そこでだ、イリアード。お前たちアルヴェリア軍には、特別に名誉ある『先鋒』の一角を命じてやる。オテゲン国境を切り開く尖兵となれ!」

露骨な使い捨ての命令であった。誰もが忌み嫌う、雪融けもままならない険しい国境にアルヴェリア軍を放り込み、苛烈なオテゲン軍との激突で消耗・壊滅させようという嫌がらせに他ならない。周囲にいた皇太子派や第三皇子派の将軍たちも、イリアードの台頭を恐れて黙認の姿勢を決め込んでいた。

「……光栄な仰せ、謹んでお受けいたします」

イリアードが一切の動揺も見せずに平然と頭を下げると、ヴァルハルトは肩透かしを食らったような顔をし、すぐに厭らしい笑みに戻った。

「ふん、精々オテゲンの野蛮人に食い殺されぬよう踏ん張るのだな!」

ヴァルハルトが去った後、イリアードは静かに目を閉じた。すぐさま、アルヴェリア親王府と結ばれた精神の密談が開かれる。

『あのようにおろかな方が我が国の第一皇子とは、眩暈がいたしますわ』

リゼリアの念話の音色が、珍しく強い不快感に揺れていた。

『ヴァルハルト親王殿下は、皆様を先鋒に追いやっただけでなく、先鋒部隊への兵糧配分を『輸送の都合』と称して極力削る腹積もりです。我らを意図的に干上がらせようとしておられます』

『やはりな』

セシリアの鋭い意識が続く。彼女は親王府で水晶球を前にしながら、千里眼のごとき『念視』で集結地全体の全容を完璧に観察していた。

『だが、相手の浅知恵などすべてお見通しだ。我が軍は最初から帝国軍の補給など宛てにしていない。むしろ先鋒となれば、後ろの無能な帝国本隊の混迷に巻き込まれず、我ら独自の判断で迅速に動ける』

『ふふ、その通りですね』

遠く帝都からフレデリカの声が優雅に差し込む。

『ヴァルハルトの周辺には、すでに我がリヴィエール家の息がかかった者を何人も送り込んであります。彼らが本隊の補給線を乱せば乱すほど、勝手に自滅していくのは第一皇子派の方ですわ。お前たちはただ、目の前のオテゲン軍を完全に打ち破り、誰にも文句を言わせぬ圧倒的な戦功を立てればよいのです』

「ああ」イリアードは精神の中で力強く頷いた。「帝都の権力闘争に固執する愚か者どもに、本物の『軍旅』が何であるかを教えてやる。明日からの進軍、全速で国境を目指すぞ」

三月下旬。帝国軍五万は、ついに北方オテゲン皇国との国境地帯へと足を踏み入れた。

そこは、まさに生者を受け入れない白い地獄であった。日没後は氷点下を遥かに下回る極寒が、容赦なく肉体を痛めつける。

案の定、後方の帝国本隊は大惨事に陥っていた。防寒具の不足した兵たちは次々と重度の凍傷にかかり、雪にはまった荷車を捨てて貴重な糧食を浪費した。第一皇子ヴァルハルトは寒さに震え上がり、本隊の進軍を停止させて、自分だけぬくぬくと温かい天幕に閉じこもる始末であった。

だが、先鋒を切るアルヴェリア軍三千は、異次元の行軍を続けていた。

滑り止めの鉄環が硬い雪を噛み、特製のソリ型荷車がスムーズに物資を運ぶ。兵たちは上質な防寒幕と、高カロリーに調整された乾燥食料によって体力を完全に温存し、誰一人として落伍することなく雪山を突破していた。道端で行き倒れていた他領の落人たちが、まるで幻影のように整然と進むアルヴェリア軍を、信じられない思いで見送っていた。

その時、行軍の先頭を行くイリアードの脳裏に、凄まじい密度の念波が飛び込んできた。

『殿下、聞こえますか! セシリアです!』

遥か後方、アルヴェリア親王府で意識を全開に集中させているセシリアからの緊急報告であった。

『前方五里の『赤狼の谷』にて、オテゲン軍の本体を捕捉しました! 私の念視の視界が、敵の配置を完全に捉えています!』

「オテゲン軍の規模と配置は?」

イリアードは馬上で静かに問いかける。

『敵の規模はおよそ一万五千。オテゲン皇国は夏の大冷害で糧食が尽きかけており、生き残りをかけた死狂いの決死隊です。将は『鬼将』と恐れられるガラク。彼らは我が軍を狭い赤狼の谷へと誘導し、崖の上からの雪崩と岩石の崩落、そして左右からの挟み撃ちで一気に押し潰す手はずです! 崖の影に潜む伏兵の配置、すべて私の視界に明瞭に浮かび上がっております!』

同時に、フレデリカからの念話も届く。

『イリアード、後方のヴァルハルト本隊が「ぬかるみのため前進不能」と称して完全に足を止めましたわ。お前たち先鋒軍が包囲されつつあるのを知りながら、あえて救援を送らず、オテゲン軍と相打ちにさせようという腹積もりです』

「くく……どこまでも期待を裏切らない愚かさだな」

イリアードは冷たく微笑んだ。普通であれば、味方に見捨てられ、五倍の敵に狭路で待ち伏せされるという絶望的な局面である。しかし、イリアードの顔に焦りは一切なかった。

「リゼリア、セシリア。敵の作戦をそのまま利用する」

イリアードの指令が、アルヴェリア全軍の指揮官へと直接伝達された。

「オテゲン軍は我らが谷底に入った瞬間を狙っている。ならば、谷底に進めるのは偽装のダミー部隊――無人の荷車と数頭の馬、そして少数の幻影幕とする。本隊二千五百は夜闇に乗じて谷の側道から迂回突破し、敵の伏兵を完全に背後から捲る」

『承知いたしました、殿下』

全指揮官がすぐさま無言の敬礼を返し、軍が鮮やかに二手に分かれる。

『私が親王府から、敵の索敵網を抜ける最適ルートを思念で送り続けます。敵が伏兵を発動させた瞬間、こちらからお知らせしますわ』

『イリアード様、予備隊の補給計算と後方の警戒は私がこちらで完璧に処理しております』

リゼリアの落ち着いた声が後方を支える。

『ヴァルハルト殿下の手先が様子を見に来ても、一切の隙を見せぬよう情報を操作いたしますわ』

「よし……全軍、作戦開始! アルヴェリアの真の力を見せてやれ!」

赤狼の谷を見下ろす巨岩の陰で、オテゲン皇国の将ガラクは狂気の笑みを浮かべていた。

「来たぞ……帝国の愚か者どもが、吹雪に追われてノコノコと谷に入ってきた!」

岩の切れ間から見下ろすと、谷底をアルヴェリア軍の旗を掲げた隊列が、重い足取りで進んでいくのが見えた。怯え、寒さに震えながら必死に前進しているように見える。

「かかったな! 帝国の軟弱者どもめ! 今だ、岩と雪を落とせ! 谷ごと叩き潰せええええっ!」

ガラクの叫びとともに、角笛の音が山々に轟いた。合図を受けたオテゲン兵たちが一斉にテコを入れ、崖の上に蓄えられていた数千トンの岩石と圧雪が、凄まじい地鳴りを立てて谷底へと崩れ落ちた。

ドドドドドッ!!!

凄まじい白煙と土砂が谷を埋め尽くし、天地を揺るがす大雪崩が発生した。谷底を進んでいた隊列は、一瞬にして巨大な雪と岩の墓標の下へと呑み込まれていった。

「ハハハハ! 見たか! 帝国先鋒軍、三千壊滅だ! これより我らは山を下り、足の止まった帝国本隊を奇襲する! 糧食を奪い尽くせ――!」

ガラクが勝ち誇って刀を抜き、鬨の声をあげようとした――その瞬間。

「将軍! 大変です! 背後から敵襲!」

血相を変えた伝令が飛び込んできた。

「何だと!? 敵は今、谷底で圧殺したばかりだろう!」

「違います! 麓の砦がすでに落とされました! 敵の先鋒軍二千五百が、いつの間にか我らの包囲網を完全に迂回し、砦を占拠・逆利用してこちらへ進軍してきます!」

「なんだとっ!?」

ガラクは愕然として谷底を振り返った。激しい雪煙が引き去った後に見えたのは、粉々に砕け散った木組みのダミー荷車と、雪で覆われたハリボテの残骸に過ぎなかった。

「バ、バカな……! なぜ我らの伏兵の位置を見抜いていた!? この猛吹雪の山中で、どうやって一人の落伍者も出さずに夜間迂回したというのだ!?」

「将軍、迂回ではありません! 敵は我々が罠を仕掛けるより前に、こちらの配置をすべて見透かした上で動いていたのです!」

「まずい……このままでは、逆にこちらが退路を断たれて挟撃されてしまう! いそげ、引き返すぞ! 迎撃だ!」

完全なる戦術的敗北を悟ったガラクは、恐怖と混乱で目を剥きながら、大急ぎで山を駆け下りていった。


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