第11章『オテゲン皇国の滅亡』
赤狼の山脈の麓にある砦。
オテゲン皇国のような遊牧民族は、何よりも機動力を最重要視する。そのため、オーレリア帝国のような石造りの堅牢な要塞は築かない。丸太で周囲を囲み、数基の物見櫓を配置しただけの、簡易的な軍営に近い造りであった。
ガラク率いる一万五千の全軍を支える兵糧は、すべてこの砦に保管されていたのだ。
昨年の大不作により、本国すら食料不足に喘ぎながらも、帝国領への遠征のために辛うじて蓄えていた命綱――それが今、アルヴェリア軍の手によって完全に奪い去られたのである。
これを失った遊牧民が生き延びるためには、彼らのもう一つの命の源である羊を潰して食い繋ぐほかない。しかし、彼らが連れてきていた家畜の大部分もまた、すでにイリアード率いるアルヴェリア軍の手中に落ちていた。
「殿下、輸送を急がせていた五百の兵、積み荷と共にたった今合流いたしました」
「挟撃の陽動作戦を展開していた一隊も、無傷で帰還しております」
次々と入る朗報に、イリアードは深く頷いた。
強行軍による兵たちの疲弊を防ぐため、軍を交代で休養させる。アルヴェリア軍のこの圧倒的な余裕には、確固たる理由があった。
遊牧国家であるオテゲン皇国が最も恐ろしいのは、広大な野戦における圧倒的な機動力、そして疾駆しながら矢を放つ「突破と騎射」の攻撃である。
ならば、その牙を抜けばいい。アルヴェリア軍は、砦の麓に置き去りにされていた彼らの軍馬をすべて解き放ち、野山へと四散させていたのだ。一部の上質な駿馬にいたっては、ちゃっかりアルヴェリア軍の予備馬として「借用」までしている。
つまり、山を下りてきたオテゲン軍は、食料ばかりか、生命線である馬までも失った「ただの歩兵の一万五千」に成り下がっていたのである。
窮鼠猫を噛むという言葉通り、あまりに絶望させると死狂いの反撃が危険だが、足を奪われた彼らにその術はない。ちなみに、野山に放たれた馬たちは、過酷な軍務から解放されて今頃自由を享受しているに違いなかった。
◇
谷底での大戦果を確信し、意気揚々と山を下りてきたオテゲン軍を待ち受けていたのは、変わり果てた自軍の砦であった。
すでに日は落ちて夕刻を迎えている。食料もなく、馬もない彼らは、ただ寒さに震えながら凍える大地に野営するしかなかった。
総大将のガラクもまた、兵糧を失った大罪で死罪を覚悟し、王の居る首都『マグナオリオ』へ文字通り泣きつくように援軍を請う伝令を放つのが精一杯であった。
オテゲン兵たちが飢えと寒さに凍え、まともな夜営すらできずに身を寄せ合っていた、その時。
イリアードは闇の中で静かに愛剣を抜いた。
「全軍――突撃」
「な、何事だ!?」
ガラクが跳ね起きるように周囲を振り返ると、そこには言語を絶する驚愕の光景が広がっていた。
漆黒の甲冑に身を包んだアルヴェリア軍本隊――二千五百の精鋭が、寸分の乱れもなく完璧な輪形陣を敷き、自分たちを完全に包囲していたのだ。
伝令も、信号弾も、進軍を促す太鼓の音すら要らない。アルヴェリア軍はまるで、一つの巨大な意思を持った単一の生命体のように、視界ゼロの闇夜を狂いなく連動して動いていた。
何百里も離れたアルヴェリアの地で、セシリアが水晶球を通じて盤面全体を鳥瞰し、リゼリアが兵たちの微小な疲弊や位置のズレをリアルタイムで計算する。その完璧な情報が『念話』の波長となり、親王イリアードの脳裏へと的確な修正指示として補正され続けているのだ。
「う、うわあああっ!? 背後から撃たれたぞ!?」
「敵はどこから来る!? 暗くて何も見えん――ぐはっ!?」
オテゲン軍は一瞬で極限のパニックに陥った。完全な飢餓と疲労の極みの中で奇襲され、しかも視界ゼロの暗闇の中、アルヴェリア軍の刃だけが恐ろしい精度で自軍の急所を的確に穿ってくるのだ。
「我が道を阻む者、死を以て償え!」
イリアード自ら黒鋼の剣を閃かせ、銀の閃光となって敵陣を蹂躙した。彼の振るう圧倒的な剣撃が夜風を裂くたび、オテゲン軍の将校たちが悲鳴と共に血しぶきを上げて倒れていく。
『殿下、ガラクは正面奥、三丈先の巨岩の前です!』
親王府からのセシリアの念話が、ピンポイントで敵将の座標を告げた。
「見つけたぞ」
イリアードの踏み込み一閃。疾風のごとき鋭い一撃が、ガラクの喉元を正確に貫いた。
「ぐガ……バ、バカな……辺境の……小僧に……」
オテゲン皇国が誇る『鬼将』ガラクは、信じられないというように目を剥き、血を吐きながら崩れ落ちた。
総大将を失い、闇夜の完全包囲を受けたオテゲン軍一万五千は、わずか半刻(約一時間)の間に完全に瓦解した。死狂いの精鋭と恐れられた北国の軍勢は、戦う術もなく潰走し、あるいは次々と投降した。赤狼の谷の白銀は、侵略者たちの鮮血によって赤黒く染め上げられたのである。
◇
雲の切れ間から、美しい月の蒼穹が覗き始めた頃。
戦場には、血のついた剣を静かに拭うアルヴェリアの兵たちと、山のように積み上げられたオテゲン軍の武具、そして捕虜となった千人以上の敵幹部たちが整列していた。
これほどの歴史的大勝利に対し、アルヴェリア軍の損害は、驚くべきことに軽微な傷病者数十名のみという、文字通りの大圧勝であった。
オテゲン軍全滅の報は、オテゲン皇国の首都マグナオリオ、そして第一皇子ヴァルハルト率いる帝国本隊の双方に、ほぼ同時に、爆弾のごとくもたらされた。
ヴァルハルトは「先鋒の生意気な弟が全滅した頃合いを見計らい、疲弊したオテゲン軍を叩いて手柄を横取りする」という浅ましい計算のもと、ようやく重い腰を上げようとしていたのだ。しかし、もはやそんな悠長な状況ではなくなった。
「な……なん……だと……!?」
進軍してきたヴァルハルトの目の前に広がっていたのは、全滅したアルヴェリア軍の死骸などではなかった。
誇り高く厳然と陣を整えたアルヴェリアの精鋭たち、そして地に膝をついて捕虜となったオテゲン軍の将兵、その中央に掲げられた『鬼将』ガラクの首級であった。
イリアードは黒鋼の甲冑を月光に輝かせ、馬上のヴァルハルトに向けて恭しく片膝をついた。
「兄上。幸運なことに、我らのみで敵主力を殲滅いたしました。どうぞ、首都マグナオリオまでお気楽に進軍なさってください」
「五、五弟……! お前、一万五千のオテゲン主力を……たった三千で撃破したというのか!? 援軍もなしに!?」
ヴァルハルトの顔は恐怖と屈辱で真っ青になり、全身をガタガタと震わせた。
「すべては偶然にございます」
イリアードは表情一つ変えずに、冷ややかに言った。
「我らアルヴェリア軍は、運よく敵の待ち伏せをかわし、敵総大将を討ち取りました。これにてオテゲン皇国の侵攻能力は完全に潰えております。……我が軍が戦功を立てられるよう、あえて本隊の到着を遅らせていただいた兄上の『深いお考え』には、心より感謝いたします」
痛烈な皮肉を浴びせられたヴァルハルトは、ぐうの音も出ず、ただ屈辱に唇を噛み締めるしかなかった。
周囲に控える帝国軍の将兵たちからは、イリアードに対する圧倒的な崇敬と、私欲のために弟を見殺しにしようとしたヴァルハルトに対する、隠しきれない蔑みの視線が突き刺さっていた。
「兄上のマグナオリオまでの道筋は、我らが責任を持って全力で後方支援させていただきます。どうぞ安心して、総大将としての進軍をおねがいいたします」
先陣を任された弟は、自ら掴み取った一番の戦功(敵首都の攻略)を長兄に差し出す、と申し出ているのだ。
もちろん、これはイリアードの計算であった。オテゲンは遊牧民の国家だ。防衛拠点を失った以上、町など投げ出して北の荒野へ逃げ去るに決まっている。もはや、もぬけの殻となった首都へ進軍する行為に、軍事的な危険も価値もほとんどない。
だが、そんな高度な思惑など気づくはずもないヴァルハルトは、自分を立ててくれる従順な弟の態度に、すっかり気を良くして鼻高々になるのであった。
◇
その夜。大勝を祝うアルヴェリア軍の先鋒本陣にて、静かな夜間通信が行われていた。
遠くアルヴェリアの親王府では、大役を果たしたリゼリアとセシリアが安堵の息をつき、温かい薬草茶を手にしながら、魔法陣の前で穏やかに微笑んでいた。
『――ふふ、見事な戦いぶりでしたわ、イリアード』
脳裏に、母フレデリカからの賞賛の念話が響く。
『帝都の宮廷はいま、お前の大勝利の報でひっくり返るような大騒ぎですわ。皇帝陛下も、我が息子の圧倒的な有能さに、これ以上ないほどご満足されています』
「母上」
イリアードは幕舎で茶を一口すすり、ふっと瞳を細めた。
「これで帝都の有象無象も、容易には我がアルヴェリアに手を伸ばせなくなったはずです」
『ええ。ですがこれで、帝都の権力闘争はさらに苛烈を極めますね』
「ふっ、勝手に争わせておけばいい。私が欲しいのは権力ではない。アルヴェリアの豊かな暮らしなのですから」
精神の絆を通じて、親王府にいるリゼリアとセシリアのあたたかな微笑みが、はっきりとイリアードの胸に伝わってきた。
『どこまでも、お供いたしますわ、殿下』
『はい。殿下の歩む道、この身と千里を越える能力を賭してお守りいたします』
天幕の外では、満天の星々が静かに北の草原を照らしていた。
春の軍事侵攻は、アルヴェリア親王イリアードの圧倒的な完全勝利によって幕を閉じた。
その後、名ばかりの総大将ヴァルハルトが乗り込んだ時には、首都マグナオリオはすでに機能停止して陥落しており、オテゲン皇国は完全に歴史から消滅した。
そして――戦場に赴くことなく勝利を支配した「アルヴェリアの黒き親王」の名と、オーレリア帝国の威名は、大陸の西の果てまで轟くことになる。




