第12章『帝都の戦後処理』
兵たちが辟易するのも無理はなかった。
「ヴァルハルトの兄上も、手柄を譲られて鼻高々になっているなら、さっさと我らを帰せばいいものを。第一皇子派の面子を保つための手続きに、なぜ我が精鋭たちが付き合わされねばならんのだ」
「まあ、殿下。あの方々は、アルヴェリア軍がこれ以上帝都の兵たちの間で英雄視されるのを恐れているのです。我らをここに留め置き、生殺しにすることで、中央の権力構造に組み込もうという思惑もあるのでしょう」
近衛長はため息を交じえて肩をすくめた。
イリアードは立ち上がり、窮屈な礼服の襟元を少し緩めた。
「くだらん。私が欲しいのは権力ではないと、あれほど言っているのに。……一刻も早く、アルヴェリアへ帰りたいものだな。あそこには、私の愛するすべてがある」
脳裏に浮かぶのは、水の都として誕生した可憐なアクアパレスの街並み。そして何よりも、親王府で自分の帰りを待っている二人の愛しい伴侶――正妻のリゼリアと、側室のセシリアの姿だった。
気品がありながらも、完璧な差配で兵站を支えてくれたリゼリアの、あの凛とした微笑み。
静謐な佇まいの中に鋭い才を秘め、千里眼のごとき能力で自分を死地から救ってくれたセシリアの、あの澄んだ瞳。
彼女たちと離れて、すでに何ヶ月が経っただろうか。
帝都の夜会でどれほど着飾った貴族の令嬢や美女たちに言い寄られようとも、イリアードの心が動くことは一瞬たりともなかった。むしろ、彼女たちの香水の匂いに触れるたび、リゼリアが淹れてくれる素朴な薬草茶の香りが、セシリアが纏う張り詰めた冬の空気のような気配が、たまらなく恋しくなる。
「逢いたいな……」
ぽつりと漏らしたイリアードの本音に、近衛長は小さく笑った。
「そのお言葉、リゼリア様やセシリア様が、ここ親王府の魔法陣の向こうでお聞きになれば、さぞお喜びになるでしょうな」
「……お前、あまり私をからかうなよ」
イリアードは少し顔を赤くしながらも、執務机へと向かった。
せめて、その高潔な精神の絆だけでも、今すぐ繋ぎたい。イリアードは目を閉じ、深く息を吸い込んで、脳裏の深淵にある精神の回路へと意識を集中させた。
◇
途端に、空気の密度が変容する。
帝宮の騒がしい喧騒が遠のき、頭の芯がジリジリと熱を帯びる。言葉を介さない、超高密度な『念話』の回路が、千里の道を隔てたアルヴェリア親王府の儀式の間へと繋がった。
『――殿下、お疲れのご様子ですね』
脳裏に直接響いたのは、鈴の音のように清らかで、しかしどこか悪戯っぽい響きを含んだセシリアの声だった。
『セシリアか。……ああ、本当に疲れた。帝都の連中は、戦が終わったというのに、今度は言葉の刃で殺し合いをしている。本物の戦場の方が、どれほど純粋で楽だったか分からん』
イリアードが心底うんざりしたように念波を送ると、すぐに別の、穏やかで理知的な気配が滑り込んできた。正妻のリゼリアだ。
『ふふ、お可哀想に、イリアード様。帝都の商人たちからの情報でも、毎日毎晩、異なる夜会に引っ張りだこだと伺っておりますわ。オーレリア帝国の若き英雄を一目見ようと、うら若き貴族の令嬢たちが群がっているとか。……そちらの「おもてなし」は、さぞ華やかで退屈しないのでしょう?』
『リゼリア、お前までそんな意地の悪いことを言うのか。令嬢たちがどれほど着飾っていようが、私にとってはただの背景の置物と同じだ。お前たちの爪の垢にも及ばない』
イリアードは必死に弁明するが、二人の愛妻は完全に彼をからかうモードに入っていた。
『あら、本当にございますか?』
セシリアの念波が、さらに密着するように脳裏へ響く。
『セシリアの『念視』は、夜の帳が下りた後も、殿下の天幕――いえ、今は帝宮の豪華な客室ですね――をしっかりと捉えることができますのよ。昨晩も、ずいぶんと寝苦しそうに、何度も寝返りを打たれていました。あれは……帝都の美女たちの面影でも追って、悶々となされていたのではなくて?』
『なっ……!』
イリアードは思わず現実の部屋で声を上げそうになった。
確かにここ数日、彼は夜中に何度も目を覚まし、寝苦しい夜を過ごしていた。だが、それは帝都の美女などというくだらない理由ではない。
『馬鹿なことを言うな、セシリア! 私が悶々としていたのは、お前たちのせいだ!』
『あら、私たちのせいにされてしまいましたわ、リゼリア様』
『困りましたね、セシリア。私たちは千里も離れたアルヴェリアの地で、こうして真面目に領内の戦後処理と、兵たちの帰還に備えた倉庫の整理をしていますのに。殿下は帝都で、一体どのような「いやらしいこと」を妄想して、私たちのせいにしていらっしゃるのかしら』
リゼリアの念話からは、明らかに口元を袖で隠してクスクスと笑っている気配が伝わってきた。
『いやらしいこと、とは何だ!』
イリアードの血気が、一気に跳ね上がった。
彼はまだ、18に達したばかりの若き親王である。戦場では冷徹無比な総大将として、一万五千の軍勢を翻弄する知略を見せるが、愛する伴侶たちの前では、年相応の感情豊かな男に戻ってしまう。
何カ月もの間、前線での過酷な行軍と緊張感に身を置き、ようやく戦が終わったと思えば、一カ月も帝都に足止めされているのだ。心身ともに健康な若い男が、遠く離れた美しい妻たちを思い、その肌の温もりや、甘い吐息を恋しく思うのは、至極当然の生理ではないか。
『私は……ただ、お前たちに逢いたいと言っているんだ! お前たちの体をこの腕で抱きしめて、その髪に触れたいと、そう考えて何が悪い!』
熱を帯びたイリアードの激情が、念話の波長を通じてストレートにアルヴェリアへと突き刺さる。
その、あまりにもストレートで飾りのない「欲情」と「愛慕」の告白に、回路の向こうが一瞬、静まり返った。
『……殿下』
先に調子を崩したのはセシリアだった。彼女の念波から、悪戯っぽい余裕が消え、急激に羞恥の熱が混ざり込んでくるのが分かった。いくら精神同調の才に長けているとはいえ、夫からの直球すぎる情熱的な言葉には、免疫が持ちきれなかったらしい。
『そんな……そんな大声を精神の海で張り上げられては、こちらの心臓まで止まってしまいます……。本当に、殿下は時折、戦場よりも容赦がありません……』
『ふふ、セシリア、顔が真っ赤ですわよ。……でも、イリアード様』
リゼリアの声も、先ほどまでのからかうような調子から、どこか艶を帯びた、切なげな響きへと変わっていた。
『そのお言葉、大変嬉しく、そして……私たちも、全く同じ気持ちでございます。この一カ月、殿下のいない親王府のベッドは、どうしようもなく広く、冷たく感じられて……。私とセシリアも、早くあなたに抱きしめていただきたいと、毎晩のように話合っておりますのよ』
今度はイリアードが絶句する番だった。
リゼリアの、正妻としての包容力に満ちた、しかし確実な誘惑の言葉が、彼の理性を激しく揺さぶる。帝都の退屈な祝賀会で冷え切っていた彼の身体の奥底が、一気に炎を放つように熱くなった。
『リゼリア……お前たち、本当に私を帰らせる気があるのか? 今すぐすべてを投げ出して、馬を走らせたくなる』
『ダメですよ、殿下』
セシリアが、まだ少し照れを含んだ声で釘を刺す。
『ここで殿下が独断で帝都を飛び出せば、ヴァルハルト殿下や他の皇子派に、格好の口実を与えてしまいます。「アルヴェリアの親王、戦功に傲りて皇帝陛下を軽んじる」と。そうなれば、私たちが命がけで守ろうとした、アルヴェリアの「豊かな暮らし」に泥が塗られます』
『分かっている。分かってはいるが……』
イリアードは拳を握りしめた。
頭では理解している。この一カ月の足止めは、オーレリア帝国の腐りきった宮廷政治における、通過儀礼のようなものだ。ここで完璧に無欠の「従順な弟」を演じきり、全ての褒賞をしかるべき手続きで受け取ってこそ、アルヴェリアは名実ともに、帝都の手出しできない「絶対の聖域」となる。
『イリアード様、あと少し……あと数日の辛抱ですわ』
リゼリアが、精神の海を通じて、優しく彼の心を撫でるように語りかける。
『皇帝陛下による最終的な褒賞の勅令は、間もなく下ります。それが終われば、誰も我が軍を留め置くことはできません。その時は、三千の将兵と共に、堂々と胸を張って帰ってきてください。……私とセシリアは、最高の宴の準備をして、そして、夜の準備も整えて、あなたをお待ちしております』
『夜の、準備……』
イリアードの喉が、思わずゴクリと鳴った。
『はい。その時は、お望みの通り、いくらでもその腕で私たちを抱きしめてくださいね。……セシリアも、覚悟を決めているようですから』
『ちょ、ちょっとリゼリア様! 何を勝手に……!』
赤くなって慌てるセシリアの気配と、それを楽しげに見守るリゼリアの気配。千里離れていても、彼女たちの愛おしい息遣いが、確かにそこにあった。
『分かった。……必ず、数日のうちに全てを終わらせて帰る。お前たちも、体に気をつけて待っていてくれ』
『はい、殿下。私たちの愛しい英雄。アルヴェリアでお待ちしております』
静かに念話の回路が閉じられた。
◇
「ふぅ……」
イリアードがゆっくりと目を開けると、視界に映ったのは、先ほどと変わらない帝宮の豪華な客室だった。
しかし、彼の瞳からは、先ほどまでの退屈や鬱屈の気配は完全に消え去っていた。代わりに宿っていたのは、戦場でオテゲン軍の一万五千をハメ嵌めた時のような、冷徹で、かつ絶対的な光だった。
「殿下、ずいぶんと顔色が良くなられましたな」
壁際で控えていた近衛長が、感心したように声をかけてきた。
「ああ。愛しい妻たちに、盛大に発破をかけられてな。……これ以上、この煤けた帝都で無能どものお遊びに付き合ってやる義理はない。一気に片付けるぞ」
イリアードは机の上の果実酒を一気に飲み干すと、引き締まった声で命じた。
「近衛長。明日行われる、第一皇子ヴァルハルトの主催する夜会が、我らの最後の舞台だ。ヴァルハルトの兄上が、我がアルヴェリア軍の戦功をさらに中央の貴族たちに見せびらかし、己の権威付けに利用しようとするだろう。それを逆手に取る」
「と、おっしゃいますと?」
「兄上の自尊心を、これ以上ないほど肥大化させてやるのだ。オテゲン遠征の完全なる勝利は、総大将であるヴァルハルト皇子の『深謀遠慮』によるものであり、我がアルヴェリア軍はただ、その忠実な手足として動いたに過ぎないと、宮廷の全員の前で大々的に宣言する」
近衛長は一瞬、悔しそうな表情を浮かべたが、すぐにイリアードの意図を察してニヤリと笑った。
「なるほど。実利(アルヴェリアの安全と帰還)を取り、名誉(ヴァルハルトへの虚飾の手柄)を押し付けるわけですな」
「その通りだ。手柄を完全に譲られた兄上は、上機嫌で我らに最高の戦勝褒賞を与えざるを得なくなる。そして、これ以上我らを帝都に留め置く理由も失う。兄上にとっては、有能すぎる弟が帝都に居座るよりも、大人しく辺境に引っ込んでくれた方が、今後の権力闘争において都合が良いからな」
イリアードは不敵に微笑んだ。
「宮廷の狐どもがどれだけ化かし合おうと、我らの目的は最初から変わらん。アルヴェリアの平穏と、豊かな暮らし。そして、愛する家族の元へ帰ることだ」
翌晩。ヴァルハルトが催した絢爛豪華な夜会において、「黒き親王」イリアードの立ち回りは完璧だった。
彼は集まった数百人の貴族たちの前で、第一皇子ヴァルハルトの「偉大なる統率力」をこれでもかと称え、自らは謙虚に一歩退いた。その姿は、帝都の兵たちの間でのイリアードへの称賛をさらに高めると同時に、ヴァルハルトを完全に満足させた。
目論見通り、老皇帝からはアルヴェリア領への破格の戦勝褒賞と、異例の「即時帰還の許可」が下された。第一皇子派の輜重官たちも、今度は慌ててアルヴェリア軍のための最高級の帰還用兵糧と、莫大な金銀を荷車に積み込ませた。
祝賀行事が始まってからちょうど一カ月。
ついに、帝都の重い城門が再び開かれた。
「全軍――アルヴェリアへ帰還する!」
イリアードの乗る軍馬の嘶きと共に、三千のアルヴェリア精鋭軍が、帝都の汚れた空気を振り払うようにして、一斉に南へと行進を開始した。将兵たちの顔には、戦勝の栄誉などよりも、遥かに輝かしい「我が家へ帰れる」という歓喜が満ち溢れていた。
馬上のイリアードは、南の空を見つめる。
あの山の向こうには、彼が命をかけて守り抜いた領土があり、そして、彼を誰よりも愛し、からかい、待ってくれている二人の美しい妻がいる。
春の柔らかな風が、黒鋼の甲冑を優しく撫でて通り過ぎていった。イリアードの心は、すでに帝都を遠く離れ、愛するアルヴェリアの親王府へと、真っ直ぐに飛んでいたのだった。




