↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『~オーレリア戦記~』  作者: りあと
『~オーレリア戦記~』
13/19

第13章『水宮の凱旋と平穏なる蜜月』

親王イリアード率いるアルヴェリア軍が、澱んだ政治の泥沼である帝都オクタヴィアをようやく離れ、懐かしき本拠地への帰還の途についたのは、夏の陽光が盛りを迎える七月のことであった。二月の厳冬に出陣してから、実に五カ月。数々の不条理な足止めを喰らいながらも、五倍の敵を翻弄して無傷に近い大勝利を収めた三千の将兵たちは、ようやく帝都の「黄金の檻」から解き放たれたのだ。しかし、その帰路を行くイリアードの表情は、完全に晴れやかなものとは言い難かった。なぜなら、彼らの後方には、三千のアルヴェリア兵に加えて、二千名におよぶ「戦利品」が延々と連なっていたからである。


「……父帝も、実に厄介な褒賞をよこしてくれたものだな」


行軍の馬上で、イリアードは後方を振り返りながら苦笑を漏らした。オテゲン皇国を事実上消滅させた圧倒的な戦功に対し、老皇帝から下された褒賞の一つが、この「二千名のオテゲン人捕虜」の身柄であった。帝都の感覚からすれば、奴隷や開拓の労働力として二千人もの人間を無償で与えられるのは、この上ない破格の恩賞である。だが、現実的な統治者であるイリアードにとっては、『はい、そうですか。ありがとうございます』と手放しで喜べるような代物ではなかった。捕虜とはいえ、彼らもまた人間として生きている。生きていく以上は、毎日食べ物を食さねばならず、過酷な北方の冬を越すための衣服も必要になる。つまり、アルヴェリアは帰還早々、突如として「二千の新たな胃袋と衣服の需要」を抱え込むことになったのだ。兵站の重要性を誰よりも知るイリアードだからこそ、この手放しの褒賞に頭を悩ませていた。だが、アルヴェリアという土地の持つポテンシャルが、その懸念を辛うじて救っていた。かつて底なしの泥と病魔が澱んでいた辺境の湿原は、イリアードの卓越した改革によって要塞都市へと変貌を遂げたばかりだ。水路が整備され、強固な防壁が築かれたとはいえ、都市の周囲にはまだまだ無限とも言える未開拓の荒野と湿地が広がっている。


「食わせるための畑なら、これからいくらでも作らせればいい。労働力としてこれほど健康な人間が二千人も手に入ったのだと思えば、むしろ安い買い物か……」


イリアードは自らに言い聞かせるように呟き、愛馬の歩みを厳かに進めた。行軍を続けること、さらに二カ月。季節はすっかり移り変わり、爽やかな秋の風がそよぐ九月。ついに三千名のアルヴェリア兵と、二千名の捕虜の長い列は、彼らの絶対の本拠地――美しい水路に守られた要塞都市『アクアパレス』へと到着した。



帝都オクタヴィアでも、これでもかとばかりに華やかな戦勝祝賀会や、大々的な戦勝パレード、そして仰々しい受勲式が執り行われた。イリアードをはじめとする将兵たちは、それらの虚飾に満ちた行事にはとうにあきあきしていた。しかし、本拠地アクアパレスで行われる凱旋行事こそが、本当の意味での「本番」であった。帝都の祝賀会が、他人の手柄を値踏みし、牽制し合うための政治的な茶番劇であったのに対し、アクアパレスでの祝祭は、命を懸けて戦った者たちを心から労い、その功績を分かち合うための純粋な場だったからである。何よりも、この地で留守を預かっていた二人の女性の存在が、祝祭をこの上なく実利的に、そして華やかに彩っていた。


「見事な凱旋ですわ、イリアード」


親王府の広間でイリアードを出迎えたのは、彼の母君である『婕妤しょうよフレデリカ』であった。帝都の宮廷闘争を遠隔で操るほどの才知を持ちながら、我が子の前ではどこまでも慈愛に満ちた母の微笑みを浮かべている。そして、その隣には、正妻の王妃リゼリア。彼女の両手には、すでに帝都での足止め期間中に完璧に計算され尽くした、新たな「戦勝褒賞目録」が握られていた。


「殿下、そしてアルヴェリアの勇士たち。皆様の圧倒的な武勇に対し、私とフレデリカ様より、ささやかながら私財を投じた恩賞をご用意いたしました」


リゼリアが凛とした声で宣言すると、並み居る将兵たちから地鳴りのような歓声が上がった。フレデリカとリゼリアが用意したのは、帝都の宮廷から下される名誉だけの勲章などではない。領内で自由に使えるまとまった一時金、上質な冬物の衣服、そして遠征中に留守を守った家族への生活補填など、どれも生活に直結する生きた褒賞ばかりだった。国家や皇帝からの恩賞を断る者はいても、自分たちを心から愛してくれる水宮の主たちからの、これほど行き届いた褒賞を断る幸せ者など、このアルヴェリア軍には一人として存在しなかった。祝祭は数日間にわたって続き、アクアパレスの街は歓喜の渦に包まれた。そして、その祝祭の熱気の中で、アルヴェリアの地ならではの「奇妙な変化」も生まれ始めていた。連れてこられた二千人のオテゲン人捕虜たちは、当初、オーレリア帝国の辺境部隊に奴隷のように扱われるのだろうと絶望していた。しかし、アクアパレスで彼らを待っていたのは、泥地を耕せば耕すほど自分の土地と食料が保証されるという、本国よりも遥かに人道的な「開拓民」としての待遇だった。さらに、アルヴェリア軍の三千の兵たちは、遠征中からセシリアの『念視』やリゼリアの兵站を通じて、オテゲンという民族の過酷な現状を知っていた。そのため、捕虜たちに対して不必要な暴力を振るうこともなく、むしろ同じ北方の厳しい自然を生きる者として、どこか親近感を持って接していた。


「おい、その荷物は重すぎる。俺が運んでやるよ」


「あ、ありがとうございます……オーレリアの兵隊さんは、皆さん優しいのですね」


街のあちこちで、そんな会話が交わされるようになる。元々、遊牧民族であるオテゲンの女性たちは、芯が強く、労働を厭わない健康的な美しさを持っていた。過酷な宮廷政治に汚れた帝都の令嬢たちとは違い、素朴で真っ直ぐな彼女たちの魅力に、独り身のアルヴェリア兵たちが惹かれるのに、そう時間はかからなかった。気がつけば、開拓地や市場で、捕虜の女性とすっかり恋仲になり、

「殿下! どうか彼女を俺の伴侶として迎えることをお許しください!」と、

親王府に直訴してくる兵がチラチラと現れ始めたのである。イリアードは、種族や元敵味方という垣根を越えて結ばれる若者たちを、

「ふん、勝手にするがいい。その代わり、人一倍働いて、新しい家族をしっかり養うんだぞ」と、

呆れながらもすべて笑顔で許した。この婚姻こそが、二千人の捕虜を完全にアルヴェリアの血肉へと変える、最も強固な絆になることを、若い親王は本能的に理解していたからである。



しかし、そんな「領民たちの新しい恋の始まり」や「完璧な戦後処理」の噂に混じって、領内ではもう一つ、別の噂が瞬く間に広がり、持ち切りになっていた。曰く――『我らが英雄、イリアード親王殿下は、戦場から戻られて以来、美しい二人の奥方に甘えすぎて、公務を完全に放棄していらっしゃるらしい』と。かつて「彼屋の親分(若き首領)」として、湿原の荒くれ者たちを力と知略でねじ伏せ、要塞都市を築き上げたあの冷徹なイリアードは、どこへ行ってしまったのか。街の酒場では、兵たちや領民たちが、そんな親王の姿を微笑ましそうに、あるいは呆れたように噂し合っていた。だが、当の本王府の奥、親王の私室の光景を見れば、その噂が「完全なる事実」であることが証明されただろう。秋の柔らかな木漏れ日が入る静かな部屋。イリアードは、豪奢な長椅子の上に横たわり、正妻であるリゼリアの柔らかい太ももの上に、すっぽりと頭を乗せていた。世に言う「膝枕」である。


「……少しくらい、休んでもいいじゃないか」


イリアードは、リゼリアのドレスの裾を指先でいじりながら、子供のように口を尖らせて悪態をついていた。帝都で見せていたあの冷徹無比な眼光や、ヴァルハルトを容赦なく追い詰めた痛烈な皮肉の切れ味は、今の彼からは微塵も感じられない。ただの、年の離れた美しい姉に甘える、まだうら若い少年のそれであった。リゼリアは、膝の上の愛しい夫を見下ろし、困ったような、しかしどうしようもなく愛おしそうな微笑みを浮かべた。彼女の白く細い指先が、イリアードの少し硬い黒髪をやさしく梳いていく。


「ふふ、イリアード様。お気持ちは分かりますが、先ほどから親王府の執務室の前で、内政官たちが書類の束を抱えて困り果てておりますわよ? 『新領民(捕虜)の居住区の区割りについて、殿下の最終的なご決裁を』と、足踏みをしております」


「嫌だ。あんなものは、リゼリアが適当に判を捺しておいてくれればいい。私はもう、一歩も動かん。帝都で一カ月間、あの有象無象どもの顔を見続けて、私の生涯分の忍耐力は完全に使い果たされたんだ。今はただ、こうしてお前の匂いを嗅いで、お前の体温を感じていたい」


そう言って、イリアードはリゼリアのお腹のあたりにぎゅっと顔を埋めた。クスクスと、リゼリアの身体が心地よく震える。


「本当に、今回の遠征でずいぶんと我が儘な子供になって戻ってこられましたね。帝都の夜会では、あれほど立派に『黒き親王』を演じていらしたと、フレデリカ様から伺いましたのに」


「あれは偽物の私だ。これが本物だ」


「はいはい。今回は仕方がありませんね」


リゼリアは優しく、夫の背中をトントンとあやすように叩いた。五カ月間におよぶ極限の緊張感、味方に背後から刺されかねない帝都での孤独な戦い。まだ18歳を少し過ぎたばかりの若い彼が、背負ってきたものの重さを、リゼリアは誰よりも理解していた。だからこそ、今だけは、領民たちに「公務放棄」と囁かれようとも、腕の中で気が済むまで甘やかしてやろうと決めていたのである。



イリアードがリゼリアの膝の上で完全に骨抜きにされているその時、部屋の扉がバタンと勢いよく開いた。


「もーう! 殿下、またここでリゼリア様に甘えてサボっていらっしゃるんですか!?」


現れたのは、側室のセシリアだった。戦場では、千里眼のごとき『念視』の異能を駆使し、氷のような冷徹さで敵の配置を見抜いていた魔導の才女である。しかし今の彼女は、きらびやかな魔導礼装ではなく、動きやすい普段着の袖をまくり上げ、両手に大量の紙の束を抱えて、実にあわただしそうにしていた。


「セシリアか。騒々しいぞ、せっかくの平穏が台無しだ。お前もそんな書類は放り出して、こっちに来てリゼリアの反対側の太ももに頭を乗せればいい」


「乗りません! というより、私にはそんな暇は一秒もありません! 殿下が公務を放り出してここでゴロゴロしていらっしゃるせいで、その皺寄せが全部私とリゼリア様に来ているんですよ!?」


セシリアはぷんぷんと怒りながら、抱えていた書類を卓上にドサリと置いた。しかし、その書類の中身をよく見ると、それらは堅苦しい内政の報告書ではなかった。


「……セシリア、それは何の書類だ?」


イリアードが不思議そうに首を持ち上げると、リゼリアがクスクスと笑いながら教えてくれた。


「イリアード様、それは、今回の遠征で手柄を立てた兵たちへの『婚姻許可申請書』と、セシリアが独自にまとめた『アルヴェリア軍・美男子将兵目録』ですわよ」


「……は?」


イリアードは目を丸くした。セシリアは少し顔を赤くしながらも、ふん、と胸を張った。


「仕方がありません! 今回の戦いで、我がアルヴェリア軍の知名度はオテゲン捕虜の女性たちの間でも鰻登りなんです! 『あの闇夜の包囲戦で、先頭を切って突撃したあの騎士様は誰!?』とか、『傷ついた私を優しく荷車に乗せてくれたあの兵隊さんは!?』とか、捕虜の女の子たちから毎日毎日、質問攻めに遭っているんですから!」


セシリアは、水晶球を用いた『念視』の能力を、戦後処理においては「街の若者たちの動向監視」および「恋愛の仲介」に完全に応用していた。オテゲンの女性たちから「あのカッコいい兵隊さんの名前を教えてほしい」と頼まれるたび、セシリアは異能を使ってその兵士の素性を特定し、戦功を調べ、二人の仲がうまくいくように裏で忙しく立ち回っていたのだ。


「特に、第二部隊の副隊長を務めた、あの銀髪の騎士! 彼がオテゲンの前線基地を制圧した時の身のこなしが凄くカッコよかったって、捕虜の女の子たちの間で今、大人気なんですよ! ほかにも、第三隊の弓兵の誰誰さんが素敵だとか、もう申請書が山積みなんです!」


「セシリア……お前、私の索敵を完璧にこなしたあの至高の魔導能力を、そんな用途に使っているのか……」


イリアードは呆れ果てて、再びリゼリアの膝の上に頭を落とした。


「いいじゃないですか! 殿下が公務をサボるなら、私たちがこの街の新しい家族を増やして、アルヴェリアをもっと豊かに賑やかにしてみせます! ほら、リゼリア様、この婚姻許可の件ですが、一部、オテゲン側の部族長との調整が必要な案件がありまして……」


「ええ、見せてちょうだい、セシリア。兵たちの私生活の安定こそが、最強の兵站の第一歩ですからね」


リゼリアは膝の上のイリアードの頭を優しく撫で続けながらも、セシリアが差し出した書類を片手で受け取り、素早く目を通し始めた。二人の優秀な妻たちは、夫を甘やかす一方で、親王府の機能が完全に停止しないよう、見事な連携でアルヴェリアの日常を回していたのである。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。