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『~オーレリア戦記~』  作者: りあと
『~オーレリア戦記~』
14/26

第14章『収穫の時期』

10月を迎えたアクアパレスは、すっかり秋の深まりを見せていた。 北方特有の澄み渡った冷気が水路の面を撫で、要塞都市を取り囲む広大な開拓地には、黄金色に色づいた雑穀の穂が豊かに実を垂らしている。かつて「底なしの泥」と恐れられた湿原は、いまや2,000名のオテゲン人開拓民と3,000名のアルヴェリア兵の手によって、確かな実りの地へと姿を変えつつあった。 だが、親王府の日常は、秋晴れの穏やかな気候とは裏腹に、相変わらず賑やか(悪く言えばドタバタ)な喧噪に包まれていた。

「――ですから殿下! 9月に申請のあった第2部隊の副隊長とオテゲンの娘さんの結婚式は、来週の吉日に決まりました! ですが、その次にもう15件の婚姻届が積み上がっているんです! いい加減、この『開拓民と将兵の祝宴予算』の最終決済書類に署名してください!」

親王府の広い執務室に、セシリアの甲高い声が響き渡る。 動きやすい普段着の袖をまくり上げた彼女は、相変わらず両手に大量の書類を抱え、眉をひそめてデスクを睨みつけていた。戦場では敵の配置を何キロ先からでも見抜く「至高の異能」たる『念視』の使い手は、いまや完全にアルヴェリア最高の「縁結び兼、祝宴仕掛け人」へと変貌を遂げている。

しかし、彼女の視線の先にある執務机の奥――ふかふかの革張り椅子の背もたれからは、脱ぎ捨てられた毛布と、だらしなく投げ出されたイリアードの足しか見えない。

「......嫌だ。署名などせん。どうせ私が判を探せば、また『殿下、祝宴で挨拶を』だの『新郎新婦と杯を交わせ』だの、有象無象の仕事が増えるのだろう。私はもう、あの帝都の茶番劇で一生分の祝辞を述べ切ったのだ......」

毛布の隙間から、ぼぼやくようなイリアードの声が漏れ聞こえる。

「茶番劇と一緒にしないでください! 今回は殿下の手で、殿下の兵隊さんと新しい領民が結ばれるお祝いなんですよ!? ほら、リゼリア様も何か言ってやってください!」

セシリアが助けを求めるように隣へ視線を向けると、そこには優雅に紅茶のカップを傾ける正妻、リゼリアの姿があった。 リゼリアは柔らかく微笑むと、膝の上に載せた書類から視線の外をし、イリアードの毛布を優しく撫でた。

「ふふ、セシリア。イリアード様をそう詰めてはお可哀想ですよ。......ですが、イリアード様。オテゲンの部族長たちも、殿下が式に顔を出してくださるのを心待ちにしていらっしゃいますわ。元敵国であった自分たちの娘が、アルヴェリアの武士に大切にされ、領主様から直々に祝福される......それは彼らにとって、何よりの安心と『真の帰属』を意味するのですから」

「......ぐつ」

毛布がモゾモゾと動き、中からボサボサの黒髪を覗かせたイリアードが、苦々しい顔で二人を見上げた。18歳を過ぎたばかりの若き「黒き親王」の眼光は、いまや完全に駄々をこねる子供のそれである。

「リゼリア...... お前までセシリアの味方をするのか。私を休ませると言ったのは、9月のあの膝枕の時ではないか......」

「ええ、9月の間はたっぷり甘やかして差し上げましたもの。もう10月ですわ、殿下。そろそろ『本物の親王様』にお戻りいただきませんと、執務室の外で待ちぼうけを食らっている内政官たちが干からびてしまいますわ」

「う......」

イリアードはぐうの音も出ず、深々とため息をつくと、観念したように毛布を払って起き上がった。

「分かった、分かったよ! 判を探せばいいのだろう、判を!......ただし、セシリア。あの銀髪の副隊長の祝宴に出す酒は、領内の蔵から一番安い麦酒を出せよ。あいつは遠征中、私の目を盗んでオテゲンの娘に色目を使っていた罰だ」

「もう、殿下ったら相変わらず子供っぽいんだから! 副隊長さんは命がけで前線基地を制圧した英雄ですよ? 上等なワインを出してあげてください!」

セシリアがぷんぷんと怒り、リゼリアがクスクスと鈴を転がすように笑う。 冷徹な知略と圧倒的な武功によって「オクタヴィアの泥沼」を生き抜いたアルヴェリア軍。その頂点に立つ若き主君の私室は、10月の秋風とともに、どこまでも穏やかで温かい日常に包まれていた。

しかし、平和な日常の裏側で、イリアードという男の鋭利な頭脳が完全に停止しているわけではなかった。

数日後。要塞都市アクアパレスの北側に広がる、かつての湿地帯―――いまや見事な水路網と整然とした区画に生まれ変わりつつある「新開拓区」の小高い丘に、イリアードの姿があった。 羽織った漆黒のマントを秋風にはためかせ、彼は眼下に広がる風景を静かに見つめている。 隣には、側仕えの衣装を身にまとったセシリアと、防寒用の毛皮を羽織ったリゼリアが寄り添っていた。

「...... 見事なものだな」

イリアードの口から、ポツリと漏れたのは、珍しく素直な感嘆の言葉だった。 丘の上からの眺望は、数ヶ月前までの泥沼と病魔が蠢く暗鬱な湿原とは一変していた。 張り巡らされた水路は太陽の光を浴びて銀色に輝き、その周囲にはオテゲン人たちが建てた素朴だが頑丈な木造住宅が立ち並んでいる。畑では、オテゲン特有の北方作物とアルヴェリアの穀物が整然と植え分けられ、農作業に勤しむ人々の中には、アルヴェリア兵の姿も多く交じっていた。

特に目を引くのは、水路沿いの水田跡地で行われている活気ある作業だった。 かつて底なしの泥と呼ばれたアクアパレス周辺の泥炭地を活用し、オテゲン人と兵士たちが膝まで泥に浸かりながら、まるま々と太った立派な蓮根れんこんを次々と掘り起こしている。水路の泥を掻き分ける力強い歓声が丘の上まで届いていた。 一方で、収穫が終わったばかりの小高い乾いた畑地では、来春の菜種油の収穫を見据えたアブラナの種付けが始まっており、筋状に耕された黒土に手際よく種が蒔かれていた。 さらにその隣の区画では、ぬかるみから掘り起こされたばかりの大量の里芋が山と積まれ、泥を払って仕分けをするオテゲンとアルヴェリアの女性たちが賑やかに笑い合っている。

重い荷物を一緒に運ぶ兵士。里芋の泥を落としながらオテゲンの子供たちを肩車して笑う若い武官。そして、泥にまみれた蓮根を抱えながら互いに照れくさそうに微笑み合い、水路の脇を歩く男女の姿。

「......2,000人の捕虜、か」

イリアードは自言自語のように呟いた。

「帝都の老豚どもは、私に厄介な『食客』を押し付け、アルヴェリアの兵站を押し潰すつもりだったのだろう。奴らにとって捕虜とは、使い捨ての奴隷か、あるいは食いつぶされるだけの無駄飯食いでしかないからな」

「ええ」と、リゼリアが隣で静かに頷く。

「ですが殿下は、彼らをただの『胃袋』ではなく『手足』として受け入れた。泥を耕して蓮根や里芋を実らせ、水路を掘り、この過酷な北方で共に生きる仲間として」

「ふん。綺麗な言い方をするな、リゼリア。私はただ、タダで手に入った健康な労働力を最大限に搾取しているだけだ」

イリアードは悪態をついたが、その表情に冷酷さはなかった。

「......セシリア。『念視』で見る限り、オテゲン人たちの間に不満や反乱の兆候はあるか?」

問いかけられたセシリアは、胸元に下げた小さな水晶にそっと手を触れ、目を閉じた。数秒の後、パッと目を開けると、自信満々に胸を張った。

「まったくありません! むしろ『本国の部族長たちに搾取されていた頃より、掘りたての美味しい里芋や蓮根が毎日食べられて、油を採るためのアブラナの種付けまで一緒にできて、ここは天国だ』って、みんな感謝していますよ! 先週なんか、オテゲンの長老たちが『殿下に献上したい』って、自家製の干し肉と羊乳のチーズを親王府に持ってきてくれたじゃないですか」

「あのチーズは塩気が強すぎて喉が渇くのだ......」

「もう! 殿下のために心を込めて作ったものなんですから、美味しく食べてください!」

セシリアが頬を膨らませると、リゼリアがクスクスと笑いながらフォローを入れた。

「でもイリアード様、あの干し肉や、いま収穫している日持ちのする里芋は、兵士たちの冬の保存食として非常に優秀ですわ。オテゲンの伝統的な保存技術や泥地の農法は、我がアルヴェリアの兵站をさらに強化してくれます。春になれば種付けしたアブラナから灯りや調理に使える貴重な油も採れますし、捕虜を受け入れたことで、我が軍の『北方の冬を越す力』は、以前よりも確実に向上しています」

「......フッ、兵站の専門家にそう言われては、返す言葉もないな」

イリアードは苦笑し、視線を再び眼下の街並みに戻した。 種族の違い、元敵味方という過去、そしてかつての憎しみ。それらは、過酷な自然という共通の敵を前に、そして「生きるための労働」と「愛」という普遍的な営みの中で、急速に溶け去ろうとしていた。

「2,000人の胃袋は、いまやアルヴェリアを支える2,000本の腕となり、そして未来を産み出す血肉となった......。父帝がこの光景を見たら、さぞかし苦い顔をするだろうな」

「帝都の皆様には、この温かさは絶対に理解できませんわ」

リゼリアが、イリアードの袖をそっと引き寄せる。

「あちらは他人の手柄を奪い合い、足を引っ張り合うだけの『黄金の檻』。ですがここには、命を懸けて守るに値する『私たちの家』があります」

「ああ......」

イリアードは、リゼリアの小さく温かい手に自分の手を重ねた。 五ヶ月に及ぶ遠征、五倍の敵との死闘、そして帝都での孤独な政治戦。背負ってきたものの重さが、いま、この秋風の中で穏やかに昇華されていくのを感じていた。

だが、平和な開拓地の視察から親王府へと戻ったイリアードたちを待っていたのは、慈愛に満ちた「もう一人の支配者」であった。

親王府の奥、日当たりの良い中庭に面したテラス。 そこに鎮座していたのは、イリアードの母君である婕妤(しょうよ) フレデリカであった。 帝都の苛烈な宮廷闘争を遠隔で操り、数々の陰謀を退けてきた伝説の才女。しかし今の彼女は、上質なシルクのドレスに身を包み、優雅な手つきでティーカップを手に取っていた。

「おかえりなさい、イリアード、リゼリア、セシリア」

「母上......」

イリアードが背筋を伸ばすと、フレデリカは慈愛に満ちた、しかしどこかすべてを見透かすような微笑みを向けた。

「新開拓区の様子はどうでしたか? 噂によれば、我がアルヴェリアの勇猛なる兵士たちが、泥まみれになりながらオテゲンの可愛らしい娘さんたちと蓮根や里芋を収穫し、すっかり骨抜きにされているそうですが」

「うっ......それは、セシリアが余計な仲介をしているせいで.......」

「あら、良いことではありませんか」

フレデリカはクスクスと笑った。

「武力で征服した土地は、いずれ武力で奪い返される。ですが、婚姻と血縁によって結ばれた土地は、決して解けることのない強固な領土となる。イリアード、あなたが兵たちの婚姻を寛容に許可しているのは、実に理にかなった素晴らしい統治ですよ」

「......褒めていただけるのは光栄ですが、母上。私を呼び出されたのは、単なる街の噂話のためではないでしょう?」

イリアードが眼光を少し鋭くすると、フレデリカは満足そうに目を細め、テーブルの上に置かれた一通の密書を示した。 封蝋には、帝都オクタヴィアの皇室章が刻まれている。

「帝都からの定期便です。...... どうやら、あなたがオテゲン捕虜2,000人を奴隷として売却せず、自領の開拓民として優遇し、あまつさえ軍の兵士と婚姻させているという報が、老皇帝の耳に届いたようです」

「......チッ」

イリアードはあからさまに不機嫌な舌打ちをした。

「相変わらず、帝都の耳ざといハイエナどもめ。他人の領地で何が起きていようが放っておけばいいものを」

「ふふ、彼らにしてみれば恐怖なのですよ」

フレデリカの瞳に、かつて宮廷闘争を生き抜いた暗い知性が一瞬だけ宿った。

「五倍の敵を無傷で打ち破った『黒き親王』が、いまや敵国の人々すら巻き込んで、北方の辺境に圧倒的な国力を蓄えつつある。...... 帝都の愚か者どもは、あなたがその強大な力をもって、いずれ帝都へ攻め上ってくるのではないかと怯えているのです」

「馬鹿馬鹿しい」

イリアードは鼻で笑った。

「あんな澱んだ泥沼のような帝都など、金をもらっても欲しくない。私とアルヴェリア軍が望むのは、このアクアパレスの平和と、豊かな暮らしだけだ」

「ええ、分かっていますとも。ですが、政治とは常に『相手がどう思うか』で動くもの。......イリアード、帝都の牽制をかわしつつ、我がアルヴェリアの発展を邪魔させないための『次の一手』、もう考えてありますね?」

母の問いかけに、イリアードはふっと口元を歪めた。 冷徹無比な軍略家としての「表の顔」が、一瞬だけ蘇る。

「簡単なことです。帝都には『オテゲン捕虜の開拓作業は泥に塗れて過酷を極め、多くが病死または脱走している。アルヴェリア軍はその対応に追われ、手一杯である』という偽の報告書を送っておけばいい。......ついでに、帝都の有力貴族たちへ、我が領地で採れた質の良い毛皮と羊毛を『従属の証』として献上しておきましょう。奴らは喜んで鼻高々になり、こちらの実情を探るのをやめるはずです」

「見事ですわ、殿下」

リゼリアが感心したように手を打った。

「相手のプライドを満たしつつ、実利はこちらが握る。これぞまさに、アルヴェリア流の外交ですわね」

「まあ、素晴らしいわ」

フレデリカも満足そうに頷いた。

「これなら、帝都の蛇どももしばらくは大人しくしているでしょう。...... さて、政治のお話はここまで。イリアード、仕事の話が終わったのなら、少しは母とお茶を楽しみなさい。......それとも、またリゼリアの膝の上が恋しいかしら?」

「は!?い、母上! 人前で何を――!」

イリアードの顔が一瞬で真っ赤になった。

「ふふっ、帝都での『黒き親王』の演舞の反動で、9月はずっとリゼリア様に甘え通しだったと、侍女たちから伺いましたよ?」

「セシリア! お前か! お前が母上に余計なことを喋ったな!」

「きゃーっ! 私じゃありませんよ! 侍女のみんなが『殿下が可愛らしい』って噂してたんですーっ!」

中庭に、イリアードの悲鳴と、女性たちの華やかな笑い声が響き渡った。 帝都を震撼させた過酷な遠征から数ヶ月。北方のアクアパレスには、厳しい冬の訪れを前に、確かな絆とあたたかな幸せが満ちていた。

その夜。 秋の夜風が親王府の窓を静かに揺らす中、イリアードは私室のバルコニーに一人立っていた。 手に持ったワイングラスには、夜空に浮かぶ澄んだ月が映り込んでいる。 遠く新開拓区の方角を見やれば、かつて暗闇に包まれていた湿原のあちこちに、収穫を終えた農民や兵士たちの生活を営む温かい灯火(ともしび)が揺らめいていた。

「......何を考えていらっしゃるのですか、イリアード様?」

背後から静かな足音が近づき、温かい絹のショールがイリアードの肩にかけられた。 正妻のリゼリアだ。 彼女は優しく夫の腰に腕を回し、その背中に体を寄せてきた。

「リゼリアか......」

イリアードはグラスを持ち替え、彼女の肩を抱き寄せた。

「いや......ただ、不思議なものだと思ってな。ほんの半年前まで、私はあの帝都の泥沼で、いつ背後から刺されるかも分からぬ孤独な戦いを続けていた。......それが今では、こんなにも多くの人間が、この私を頼り、この土地で笑って暮らしている」

「それは、殿下が彼らを愛し、守ろうとしたからです」

リゼリアはイリアードの胸に顔をうずめ、愛おしそうに囁いた。

「武力や恐怖で縛り付けた支配など、長くは続きません。ですが、殿下がもたらした『生きるための糧』と『家族という絆』は、このアルヴェリアをどんな防壁よりも強固な要塞にしています」

「......大げさだな。私はただ、自分が楽をしたいだけだ」

イリアードは照れ隠しに鼻を鳴らした。

「領民が勝手に働き、勝手に豊かになってくれれば、私は公務を放り出して、一日中お前の膝の上で寝ていられるからな」

「ふふ、またそんな格好悪いことを」

リゼリアがクスクスと笑い、イリアードの顎にそっと手を添えた。 夜月のもと、二人の視線が交差する。

「ですが......私は、そんな『素のあなた』を見せていただけるのが、何よりも幸せなのですわ。冷徹な『黒き親王』ではなく、私だけの愛しい夫としてのあなたを」

「リゼリア......」

二人の唇が静かに重なった。 秋の冷たい夜風も、互いの体温を確かめ合う二人を邪魔することはできなかった。

「あーっ! また二人だけでズルいぞーっ!」

そこへ、部屋のドアがバタンと開く音が響いた。 両手に夜食のスープ皿を載せたトレーを持ったセシリアが、プンプンと怒りながらバルコニーへと飛び出してきた。

「私だって一日中、街の恋愛相談と書類整理でクタクタなんですよ! 殿下、私にも甘えさせてください! というか、今日収穫されたばかりの里芋がたっぷり入った、この温かいスープを飲んでください!」

「セシリア...... お前は本当に空気が読めん奴だな」

イリアードは呆れたように肩をすくめたが、その表情には温かな笑みが浮かんでいた。

「仕方がない。リゼリア、部屋に戻ろう。......セシリアのスープが冷める前に」

「ええ、喜んで」

三人は顔を見合わせ、楽しそうに笑い合った。 水の都アクアパレスの10月は、こうして静かに、そして賑やかに過ぎていく。 来たるべき北方の大地における「過酷な冬」を前に、イリアード率いるアルヴェリアは、何ものにも負けない強固な絆と、温かな愛の力で満たされていた。

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