第15章『アルヴェリアの冬、温かな兵站』
11月を迎え、アルヴェリアには急速に初冬の気配が忍び寄っていた。北風がアクアパレスの水面を細かく揺らし、朝晩の澄み切った空気には白い息が混じる。広大な開拓地では、10月中に収穫を終えた雑穀や根菜が親王府の大蓄え処へと次々に運び込まれていた。かつて泥沼と病魔に包まれていた湿原は、いまや厳しい寒さを乗り越えるための重厚な兵站拠点へと変貌を遂げている。
アルヴェリア南部の町フルヴィアルトでは、大河アシェロンの川砂を用いたガラス工芸の活性化計画が進められていた。これは元々リゼリアが発案し、親王イリアードへ提案していた案件だったが、当時の領内では人手不足のために後回しにされていたものである。農作物とは異なり、通年生産できる産業を持つことは大きな強みとなる。アシェロン河口付近の塩分を含む湿地帯に自生するアッケシソウを燃やして灰にし、ガラスに練り込むことで光の屈折率が高まり、極めて高い透明感とツヤが生まれる。品質の良いガラス製品は金と同等の価値を持つため、非常に有用だった。燃料には、ソルトラグーン北部から採掘される泥炭が使用される予定だ。
そんな折、執務室の重厚なドアが蹴破られんばかりの勢いで開き、セシリアが叫んだ。その両手には、前月よりもさらに高く積み上がった書類の山。その隙間から覗く彼女の顔は、怒りと疲労でほんのり赤くなっている。戦場で千里眼のごとき『念視』を駆使し、氷のような冷徹さで敵陣を見抜いていた魔導の才女は、いまや完全にアルヴェリアの「防寒資材・開拓民生活総括担当」になり果てていた。
だが、部屋の奥にあるふかふかの長椅子からは、微かな寝息しか聞こえてこない。厚手の毛布に包まったイリアードは、正妻リゼリアの膝の上にすっぽりと頭を乗せ、彼女のドレスの裾をぎゅっと握りしめたまま完全に丸くなっていた。
「……嫌だ。起きん。動かん。判も捺さぬ……」
毛布の隙間から、消え入りそうな声が漏れる。
「11月の風は冷たいのだ。私のような繊細な人間がこの時期に執務机に向かえば、たちまち心身が凍りついてしまう。……リゼリア、もう少しだけ抱きしめてくれ。お前の体温が足りん」
そう言ってイリアードは、子供のようにリゼリアのお腹のあたりにぎゅっと顔を埋めた。帝都で「黒き親王」と恐れられ、五倍の敵を相手に冷徹な知略で完勝を収めた18歳の英傑の姿は、そこには微塵も存在しない。
リゼリアは困ったように眉を下げつつも、愛おしさに満ちた微笑みを浮かべ、白く細い指先で夫の黒髪をやさしく梳いていく。
「ふふ、イリアード様。お気持ちはよく分かりますけれど……セシリアが言う通り、オテゲンの人々にとって北方の冬は命に関わる大問題ですわ。彼らの遊牧生活の知恵と、我がアルヴェリアの毛皮や羊毛の備蓄を組み合わせる決裁だけは、殿下にしか下せません」
「……ぐぬっ」
イリアードは苦しげな声を漏らした。
「リゼリア……なぜお前は、私を甘やかしながら同時に正論で追い詰めるのだ。それは反則だろう……」
「あら、甘やかして差し上げていますよ?」
リゼリアはくすくすと鈴を転がすように笑い、イリアードの背中をトントンと優しく叩いた。
「ほら、セシリアが持ってきてくれた暖かいホット・ワインをお飲みになって、少しだけ起きてくださいな。書類の読み上げは私がいたしますから、イリアード様は首を上下に振るか、判を捺すだけで結構ですわ」
「な……! リゼリア様、甘すぎます!」
セシリアがドサリと書類を卓上に置き、頬を膨らませて異議を唱えた。
「そんなんだから殿下がいつまでも駄々っ子になっちゃうんですよ! 先月だって『10月になれば戻る』っておっしゃっていたのに、もう11月ですよ!? 街では『殿下はもう奥様方の太ももから二度と立ち上がれないらしい』って噂が広まり続けているんですからね!」
「ふん、噂など勝手にさせろ」
イリアードはリゼリアの膝からしぶしぶ顔を上げ、毛布を肩に羽織ったまま不機嫌そうに呟いた。
「あの有象無象どもに本物の私を見せる必要などない。それよりセシリア、先月許可した15件の婚姻はどうなった? 祝宴のせいで兵士たちの訓練がおろそかになっては困るぞ」
「ふふん、ご安心ください!」
セシリアは胸を張ると、書類の山から一枚の羊皮紙を抜き出した。
「オテゲンの女性たちと結ばれた兵士たちはですね、『新しい家族にいいところを見せる』と言って、寒風吹きすさぶ中でもいつもの1.5倍の強度で訓練に励んでいます! それに、妻になったオテゲンの女の子たちが、兵士たちの防寒着の補修や、過酷な冬を越すための『特製羊毛インナー』の縫製を進めてくれているんです! 兵站の面でも、殿下が怠けている間に私とリゼリア様で完璧に連携を取りましたから!」
イリアードは目を丸くした。
「……特製インナーだと?」
「ええ」と、リゼリアが誇らしげに頷く。
「オテゲン伝承の羊骨オイルを染み込ませた羊毛布地ですわ。これを通気性の良いアルヴェリア織の生地の内側に挟み込むことで、軽さを保ったまま体温を逃がさない構造になっています。……これなら、冬場の湿原警備に当たる兵士たちの霜焼けを激減させられますわ」
イリアードは呆れ果て、再びリゼリアの膝の上へと頭を落とした。
「お前たち……私の知らぬ間に、また勝手に最強の兵站を作り上げているな……」
「当たり前です! 殿下が公務をサボってここでゴロゴロしていらっしゃる分、私たちがこの街の暮らしを支えているんですから!」
セシリアが誇らしげに腰に手を当てる。かつての冷徹無比な戦争の爪痕は、このアルヴェリアにおいて、着実に「生きるための知恵」と「温かな営み」へと書き換えられつつあった。
◇
11月中旬。要塞都市アルヴェリアの北側、新開拓区の最奥部に位置する「第3耕作地」に、イリアードの姿があった。
厚手の黒い毛皮付きコートを纏った彼は、寒風に髪をなびかせながら、新しく建てられた巨大な木造倉庫を見上げている。隣にはリゼリアとセシリア、そしてオテゲン人捕虜たちの代表である老部族長・トルガが控えていた。
「殿下、これが我が族に伝わる『地下氷室兼、熟成穀物庫』にございます」
白い髭を蓄えたトルガが、深く頭を下げながら説明した。
「北方の極寒を利用し、地下深く掘り進めた穴に氷と塩を敷き詰めることで、肉や野菜、穀物を腐らせることなく春先まで保存できます。アルヴェリアからいただいた鉄製の工具と水車網のおかげで、予定の三倍の貯蔵庫が完成いたしました」
イリアードは冷たい風を突き抜けるような鋭い眼光で、倉庫の構造と補強資材を細かく検分した。
「……見事なものだな。帝都の連中が誇る大石造りの兵糧庫よりも、遥かに合理的で堅牢だ」
「ありがたき幸せにございます」
トルガの表情には、かつて「捕虜」として連行されてきた頃の絶望や怯えは欠片もなかった。あるのは、自らの技術が正当に評価され、生きる糧を保障されていることへの深い敬意と誇りである。
「殿下……我がオテゲンの民は、当初、悪名高きアルヴェリアの苛政に奴隷として使い潰されるものと覚悟しておりました。しかし、あなたが与えてくださったのは、泥を耕せば自分たちのものになる土地と、人としての尊厳でした」
トルガは膝をつき、湿った大地に額を擦り付けた。
「今や我が娘たちはアルヴェリアの勇敢な兵士たちの妻となり、新しい命を宿す者も出ております。この11月の寒風の中にあっても、我らの心と腹は温かい。オテゲン2,000の民、全員がイリアード殿下とアルヴェリアのためにこの命を捧げる覚悟でございます」
その言葉に、後方に控えていたオテゲンの若い男たちや女性たちも一斉に膝をついた。
イリアードはフッと短く息を吐き、静かに歩み寄ると、トルガの肩を掴んで立ち上がらせた。
「無駄な忠誠の誓いはやめろ、トルガ。私が必要としているのは死ぬ覚悟を持った兵士ではなく、春になれば再びこの大地を耕し、豊かな実りをもたらす健全な民だ」
「殿下……」
「命を捧げる暇があるなら、その手で新しい防寒着を作り、自分の家族を温めろ。……ただし、春の作付け計画で手抜かりがあった場合は、容赦なく私の膝詰めでシゴき上げるからそのつもりでいろよ」
厳しくも温かみを含んだイリアードの言葉に、トルガは目頭を熱くしながら「ハッ!」と力強く頷いた。
その光景を後ろで見守っていたリゼリアとセシリアが、顔を見合わせて微笑む。
「……本当に、素直ではありませんわね、イリアード様は」
リゼリアが小声で呟くと、セシリアもクスクスと笑いながら同意した。
「ですね! 『過酷な労働力として搾取している』なんて言っておきながら、先週もオテゲンの子供たちのために木製の玩具の手配を内政官に指示していたのを、私は『念視』でちゃんと見ていたんですから!」
「セシリア、余計なことを言うなといつも言っているだろう」
イリアードが振り返り、ジロリと睨みつけたが、二人にはまったく効いていなかった。
種族の垣根を越え、過酷な北方の冬を前に固く結ばれた絆。2,000人の捕虜という巨大な「胃袋」は、いまやアルヴェリアの冬を支える最も強固な「防壁」へと進化を遂げていた。
◇
その日の夜。
親王府の大広間では、11月の寒さを吹き飛ばすような、賑やかな宴が催されていた。
本来であれば厳粛な軍の報告会となるはずの場であったが、今夜は「防寒対策完了と初冬の労い」と称して、アルヴェリア兵とオテゲン人開拓民の代表者たちが集まり、杯を交わしていた。
大鍋でぐつぐつと煮込まれているのは、オテゲン特製の羊肉と根菜の濃厚なスープ。香ばしい麦酒と熟成された果実酒が惜しみなく振る舞われ、あちこちで歓声と笑い声が巻き起こっている。
「おい、副隊長! 奥さんに鼻の下伸ばしてんじゃねえぞ!」
「うるさい! 俺の妻は世界一可愛いんだ! お前ら独身組は羨ましがってろ!」
第二部隊の銀髪の副隊長が、照れくさそうに微笑むオテゲン人の若い妻を引き寄せながら杯を干すと、周囲の兵士たちから嵐のような冷やかしと歓声が上がった。
広間の上段、親王の席に腰掛けたイリアードは、肘をつきながらその光景をぼんやりと眺めていた。
「……賑やかすぎるな。これではまるで山賊の集会だ」
「あら、良いではありませんか」
隣の席から、優雅に杯を傾ける母フレデリカが声をかけた。
「帝都の宮廷で行われている祝宴は、他人の手柄を値踏みし、毒を警戒しながら飲む上辺だけの茶番劇。ですが、このアルヴェリアの宴には、偽りのない生の喜びが満ちています。……イリアード、あなたが守り抜いたのは、まさにこの笑顔なのですよ」
「……私はただ、自分の本拠地を快適にしたかっただけです、母上」
イリアードは素気なく答えたが、その手にある杯の酒を静かに口に含んだ。
そこへ、豪華な刺繍が施された冬用のドレスを身に纏ったリゼリアと、華やかな魔導礼装を着たセシリアが歩み寄ってきた。
「イリアード様、兵士たちと開拓民の部族長たちが、殿下と杯を交わしたいと順番を待っておられますわ」
「嫌だ。私はもう一杯飲んだら私室へ戻る。酒払いの相手などごめんだ」
「もう! 殿下ったら、こういう時くらいシャンとしてください!」
セシリアが腰に手を当てて怒るが、リゼリアは優しくイリアードの手を両手で包み込んだ。
「イリアード様。ほんの一杯だけで結構ですわ。あなたが彼らの前に立ち、その存在を示すだけで、このアルヴェリアの団結は揺るぎないものになります」
「……リゼリア」
正妻の愛おしそうな眼差しで見つめられ、イリアードはぐうの音も出なくなった。
「……分かった。一杯だけだぞ」
イリアードが重い腰を上げ、杯を手に立食の広間へと降りていくと、一瞬にして騒がしかった大広間が静まり返った。
三千のアルヴェリア兵、そして二千のオテゲン開拓民の視線が、一斉に彼に集まる。
イリアードは静かに杯を高く掲げた。
「……アルヴェリアの将兵、そして新たな領民たちよ。苛烈な北方の冬が迫っている。帝都の愚者どもは、我が地が寒さと飢えで自滅すると高括っているはずだ」
静寂の中、イリアードの低く通る声が広間に響き渡る。
「だが、見よ。我々には耕された広大な大地があり、溢れんばかりの食糧があり、互いを温め合う家族がいる。……このアルヴェリアに、凍える者も絶望する者も存在させん。存分に食べ、存分に飲み、来るべき冬を笑って乗り越えるぞ!」
「「「「おーっ!!! 殿下万歳! アルヴェリア万歳!!!」」」」
地鳴りのような歓声が親王府を揺らした。兵士も、捕虜であったオテゲンの民も、全員が掲げた杯を打ち合わせ、歓喜の声援を上げる。
「見事な演説でしたわ、イリアード様」
戻ってきたイリアードに、リゼリアがうっとりとした表情で寄り添う。
「……ただの思いつきだ。さあ、約束通り私は引っ込むぞ」
イリアードは少し顔を背けながら、リゼリアの手を引いて大広間の喧噪を後にした。
◇
深々とした静寂が包む、親王府の私室。
大広間の喧噪が嘘のように静まり返った部屋には、暖炉の薪がぱちぱちとはぜる音だけが心地よく響いていた。
イリアードは長椅子に深く腰掛け、暖炉の火を見つめている。
「ふぅ……ようやく静かになったか」
「お疲れ様でした、イリアード様」
リゼリアが温かいハーブティーを乗せたトレイをテーブルに置き、彼の隣にそっと腰を下ろした。
イリアードは躊躇うことなく、リゼリアの膝の上に頭を預けた。
11月の冷え込みを忘れさせるような、柔らかく温かな正妻の太ももの感触。イリアードは満足そうに吐息をつき、リゼリアの腰に腕を回して抱きついた。
「……やはり、ここが一番落ち着く」
「ふふ、本当に甘えん坊なお坊ちゃま親王様ですねぇ」
リゼリアはやさしく微笑み、イリアードの髪を梳きながら、彼の額にそっと唇を寄せた。
「ですが、今夜のあなたは本当に素敵でしたわ。……帝都での冷徹な『黒き親王』としてではなく、みんなを惹きつける真の指導者として」
「……よせ。私はただ、お前やセシリアと静かに暮らせる場所を守りたいだけだ」
イリアードはリゼリアのお腹に顔を埋めながら、ボソリと呟いた。
「帝都の連中は権力や名誉のために戦うが、そんなものには何の意味もない。……私にとっての『戦う理由』は、この部屋の温もりとお前の体温だけだ」
「イリアード様……」
リゼリアの胸が熱く打たれる。
18歳の若さで苛烈な戦場を駆け抜け、背後から刺されかねない政治の泥沼を生き抜いてきた夫。彼が求めているのは、世界を支配する威光などではなく、ただ大切なものを守り、愛する者の腕の中で羽を休める穏やかな時間なのだ。
「うふふ……ですから私どもが、いつまでもこうしてあなたをお守りいたしますわ。あなたがどんなに我が儘になろうと、どんなに公務を放棄しようと、この膝の上はいつだってあなたの場所です」
「……感謝する」
イリアードが心地よさに目を細めかけたその時――
バンッ!
「ちょっとお二人ともーっ! 私を置いて二人だけでしっぽりしないでくださいーっ!」
またしても扉が勢いよく開き、セシリアが飛び込んできた。
礼装の帯を少し緩めた彼女は、両手に大きな毛布を抱えて憤慨している。
「大広間の片付けを内政官たちに押し付けて逃げてきたんですよ!? ほら殿下、私にも半分膝を譲ってください! それにこの特製毛布、オテゲンの女の子たちが殿下のために作ってくれた最新作なんですから!」
「セシリア……お前は本当に、私の平穏をぶち壊す天才だな」
イリアードはあきれ顔で首を持ち上げたが、セシリアは構わずに長椅子へ飛び込んできた。
「はいっ! これで三人でぬくぬくです!」
セシリアが抱えてきた厚手の羊毛毛布が、長椅子に座る三人をごっそりと包み込む。
「あらあら、セシリアったら強引ですわねぇ」
リゼリアがくすくすと笑い、セシリアもイリアードの反対側に身を寄せ、彼の腕にぎゅっと抱きついた。
「いいじゃないですか! 11月は寒いんですから、みんなでくっついて暖を取るのが一番ですよ!」
「……まったく」
イリアードはため息をついたが、毛布の温もりと、左右から伝わる大切な妻たちの体温に、自然と表情が緩んでいくのを隠せなかった。
暖炉の火がパチパチと燃え上がり、私室の中にやさしい光と影を落とす。
外では北風が吹き荒れ、本格的な冬の到来を告げていたが、この部屋の中に流れる時間は、どこまでも温かく、幸せに満ちていた。
帝都の策謀も、過去の激闘も、この北方の要塞都市アルヴェリアの温もりを奪うことはできない。
冷徹な知略を持つ若き主君と、彼を深く愛する二人の妻たち。そして彼らを慕う五千の民が紡ぐ物語は、雪に包まれる冬の季節を越えて、さらに確かな未来へと続いていくのだった。




