第16章『氷点下の要塞都市と、温かな結界』
12月、アルヴェリアの本拠地アクアパレスは、息をのむほど美しい銀世界へと姿を変えていた。 北方の過酷な寒気が湿原の空気を完全に凝固させ、要塞都市を巡る美しい水路には薄氷が張り詰めている。空からは綿雪がひらひらと舞い降り、かつて泥と病魔が澱んでいた未開地は、いまや真っ白な絨毯に覆われていた。
だが、この猛烈な寒波の中でも、アクアパレスから立ち上る生活の煙が絶えることはない。 領民たちは川魚の燻製作りに精を出し、薪を拾い、脱穀と粉挽きに追われていた。さらに、収穫した里芋を使った酒造りも大盛況だ。米や小麦を食料として確保するため、酒は別の作物で造るという知恵と試みである。
「――殿下! 12月ですよ! 初雪が降ったというのに、なぜ年末の大市と冬至の祝祭予算書が放置されているのですか!?」
親王府の重厚な執務室に、寒気を吹き飛ばすようなセシリアの悲鳴が響き渡った。 普段着の上にモコモコした羊毛ポンチョを羽織ったセシリアは、抱えた書類の山をデスクへドスンと叩きつける。戦場では「千里眼」の異能で氷のように冷たく敵陣を見抜いた才女も、いまや完全に『年末行事・生活資材統括総裁』と化していた。
しかし、部屋の奥にあるソファーは、重厚な毛布と毛皮が小さな山のように盛り上がっているだけだ。
「……嫌だ。出ない。見ない。ハンコ押さない……」 「12月の寒さを舐めないでください、イリアード様! いま私がこの『毛布の結界』から一歩でも出れば、明晰な頭脳は瞬時に凍結し、アルヴェリアの内政は崩壊します。ゆえに! 私は来年の春まで、ここでリゼリアの体温を感じて過ごすのだ」
毛布の隙間から覗くイリアードの頭は、正妻リゼリアの膝の上にしっかりと収まっていた。18歳にして敵を震え上がらせる「冷徹な親王」の面影はどこにもなく、ただの重度の寒がり少年である。
リゼリアは膝の上の愛しい夫の黒髪に指を滑らせ、愛おしそうな苦笑いを浮かべた。 「ふふ、イリアード様。お気持ちは分かりますわ。ですが……今年の『冬至の祝祭』は特別な意味を持っていますのよ」 「……なぜだ」 イリアードが片目だけ出して不機嫌そうに尋ねる。 「今年は、新しく仲間となった2,000名のオテゲン人たちが初めて共に迎える冬です。彼らが我が領民として定着したことを示し、厳しい冬を越すための試食会と大市を兼ねた祝祭……。殿下のサインがなければ、市場の開設許可が出せませんの」
「う……」 正妻の完璧な正論に言葉が詰まる。そこへセシリアがぷんぷんと頬を膨らませて追い打ちをかけた。 「そうですよ! 11月に私とリゼリア様で調整した『オテゲン伝承の羊毛インナー』と『地下氷室の熟成保存食』のお披露目でもあるんです! オテゲンの女の子たちも『殿下に手料理を食べてほしい』って楽しみにしているんですよ!」 「……お前たち、また私が断れない状況を作ってから書類を持ってきたな?」
イリアードは深々と溜め息をつくと、観念したように毛布を払い、リゼリアの膝から体を起こした。 「分かった、判を押せばいいのだろう! ……ただし、セシリア。大市に出す酒の試飲はすべて私が行う。毒見という名目でな」 「ただお酒が飲みたいだけじゃないですか! でも、よし! ほら、サインをお願いします!」
流麗な署名が書類に滑っていく。冷徹な知略で五倍の敵を打ち破ってきた親王府の奥居間は、初雪の日も温かな笑い声に包まれていた。
12月中旬、大市は熱気に満ちあふれていた。 厚手の毛皮コートを羽織ったイリアードは、リゼリアとセシリアを伴って「極秘」の視察に訪れていた。
「……見ろ、セシリア。あの混雑ぶりを」 指差した先には、オテゲンの女性たちが作った防寒着を買い求める長蛇の列ができていた。 「言った通りでしょう?」セシリアが誇らしげに胸を張る。「オテゲンの羊毛加工技術と、アルヴェリアの頑丈な縫製技術の合体作です! これで兵士たちの冬場のアクアパレス警備も快適になります!」 「霜焼けで動けなくなる兵が減るのは、兵站上きわめて望ましい」 イリアードが頷くと、今度はリゼリアがそっと袖を引いた。 「イリアード様、あちらをご覧くださいな」
巨大な鍋からは素晴らしい湯気が立ち上っていた。地下氷室で熟成された肉と根菜を煮込んだ「羊肉と薬草のスープ」が振る舞われている。 「おお、身体が温まる! オテゲンの娘さん方は料理も上手だなあ」 「たくさん食べて、寒い冬を乗り切りましょうね!」 笑顔を交わす領民とオテゲンの少女たち。かつて「捕虜2,000人」という重荷として押し付けられた人々は、いまや誰よりも温かくアクアパレスを支える掛け替えのない「家族」となっていた。
「……フッ。帝都の父帝がこの光景を見たら、泡を吹いて倒れるな」 イリアードの口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。 「奴らは無益な飯食いを押し付け、こちらの国力を削ぐつもりだった。……だがここにあるのは、削ぎ落とされた国力ではない。新たな技術、新たな血、そして強い生への活力だ」 リゼリアが優しく腕に手を添えた。 「殿下が彼らに与えた『人としての尊厳』が、いまやアクアパレス最大の武器となっておりますわ」 「私はただ、タダで手に入った労働力を効率的に活用しただけだ」 素直じゃない言葉に、二人の妻は顔を見合わせてクスリと笑った。
夕暮れ時、親王府へ戻ったイリアードたちを待っていたのは、母フレデリカからの呼び出しだった。 防寒対策の完璧なサロンで、フレデリカは温かい果実茶を手に密書を指で突いた。
「帝都オクタヴィアからの便りです。……どうやら、あなたが11月に送った『捕虜が行き倒れている』という偽の報告書と、献上した上質な毛皮が効いたようですね。老皇帝どもは『さすがの黒き親王も北方の冬と捕虜の始末に手を焼いている』と大満足し、警戒を緩めています。今冬は刺客に悩まされる心配はなさそうですよ」
イリアードは鼻で笑った。 「愚か者どもめ。目の前にある美しい毛皮が、我らの兵站強化の産物であることすら気づかんとは」 「ええ。ですが油断は禁物です」フレデリカの瞳に元宮廷闘争の覇者の光が宿る。「相手が『困窮している』と思い込んでいる今こそ、春に向けた真の国力蓄積のチャンスです」 「言われるまでもありません、母上。春が来れば、開拓地は二倍に広がり、我が軍の兵站能力は帝都の常備軍を遥かに凌駕するでしょう」
力強い言葉に頷いたフレデリカは、表情を柔らかく緩めた。 「頼もしいことです。……さて、堅苦しい話はここまで。今夜は冬至の前夜祭です。私特製のホット・ワインを淹れましょう」
北方の大地に流れる安らぎのひととき。権力闘争を遠く離れたこの場所で過ごす温かな夜に、イリアードの胸は深く満たされていた。
深夜。静かに雪が降り積もる中、イリアードはガラス窓から夜の街を眺めていた。 白銀の世界に灯る暖かい生活の明かり。そこへ、背後からリゼリアが歩み寄り、そっと厚手の毛布を肩にかけた。
「リゼリア……起きていたのか」 「ふふ、あなたの体温が隣にないと、寒くて目が覚めてしまいますもの」 リゼリアが胸に顔をうずめると、イリアードは愛おしそうにその肩を抱き寄せ、髪に口づけを落とした。
「……半年前まで、私の過ごす冬はいつも殺風景で冷たいものだった。孤立無援の戦い、耐え忍ぶためだけの季節。……だが、いまは違う。お前がいて、セシリアがいて、母上がいて、この街の笑顔がある。この温もりがあるからこそ、私はどんな過酷な冬にも立ち向かえる」 「イリアード様……」 リゼリアの瞳にうっすらと感動の涙が浮かぶ。冷徹な重圧を背負い続けてきた夫が、ようやく手に入れた平和と愛を噛み締めているのだ。 「これからもずっと側にいますわ。どんな寒い冬が来ようとも、私たちがあなたを温め続けます」
二人は静かに見つめ合い、唇を重ねた。薪ストーブの火がパチパチと温かな音を立てる。
「あっ! また二人だけでロマンチックな雰囲気になってるーっ!」
静寂を破り、巨大なクッションを抱えたセシリアが飛び込んできた。 「ズルいですリゼリア様! 私だって寒くて目が覚めたんですから! 殿下、私にも抱きつかせてください!」 「セシリア……お前は本当に、私の感動的な余韻を台無しにする天才だな」
呆れ果てて肩をすくめるイリアードだったが、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。 「はいはい、おいでセシリア。三人で暖まりましょう」 リゼリアの手招きに、セシリアは「わーい!」と長椅子へ飛び込み、イリアードの反対側の腕にしっかり抱きついた。
「へへっ、殿下の体温、すごく温かいです……」 「……当たり前だ。お前たちがまとわりついてくるから熱いくらいだ」
文句を言いながらも、イリアードは大切な妻たちの体温と毛布の温もりに包まれ、ソファーへ深く身を沈めた。 窓の外では粉雪が静かに街を覆っていく。けれど、この部屋にある確かな温もりを奪うことなど、過酷な冬であっても決してできはしないのだった。




