『七弦の残響』
帝都オクタヴィアの太明宮にて、宮廷楽師を育てる教坊の女楽選抜試験が行われていた。十三歳の少女フレデリカ・リヴィエールは、愛用する七弦の古琴「水鏡」を抱えて試験に臨むが、周囲の受験者や審査役からは「古琴は宴席にそぐわない古臭く寂しい楽器だ」とあざけられ、冷遇される。
審査役である教坊掌楽使シン・カルラは、あえて古琴では演奏不可能とされる難曲「霓裳羽衣」の表現を課題として命じる。フレデリカは動じることなく、長年鍛え上げた繊細かつ正確な指さばきと多彩な技法を駆使し、殿内全体を揺らすほどの立体的な響きと圧巻の生命力で難曲を奏で上げた。
その圧倒的な演奏は冷ややかだった審査役や周囲を息を呑ませ、満場一致の称賛を獲得。フレデリカはその才能をシン・カルラに高く認められ、見事、皇宮専属の琴師として採用されるのであった。
朱塗りの大門が、重々しい地響きを立てて開かれていく。
帝都オクタヴィアに朝靄が立ち込め、未だ薄暗い天の端が淡い紫に染まり始める刻限。太明宮の側門前には、小綺麗な衣服に身を包んだ少女たちの長い列が出来上がっていた。
その列の終端近く、己の身の丈ほどもある桐の木箱を大事そうに抱え直す少女がいた。名を、フレデリカ・リヴィエールという。今年で十三。小柄な体に似合わぬその木箱の中には、彼女が幼少の頃から肌身離さず愛用してきた一張の古琴――「水鏡」の如く青と白銀の艶がある、七弦の古琴が納められている。
「……大きい箱ね。貴女、何をしに来たの?」
不意に前の少女が振り向き、フレデリカの抱える大きな箱をあからさまに不審そうな目で見下ろした。豪奢な絹の小袖を着、髪には真珠の簪を挿した、いかにも裕福な官僚の家柄らしき少年のような勝気さを残した少女だ。
「わ、私は……教坊の女楽選抜の試験に」
フレデリカが気圧されながらも弱々しく答えると、少女はくすりと鼻で笑った。
「教坊? そんな大きな箱を持ち込むなんて。宮廷の女楽師を目指す者は皆、典雅な琵琶や華やかな箜篌を嗜むものよ。古琴なんて、いまや書斎で隠遁した老道士か頑固な文人が爪弾くもの。唐の皇宮で求められるのは、帝をお慰めする最新の燕楽や胡楽よ。古臭い琴の音など、誰が聴くというの?」
周囲の少女たちからも、クスクスと小さな嘲笑が漏れた。
帝都オクタヴィアは世界中の文化が入り乱れる大花園であった。西域から伝わった賑やかな胡琵琶や屈折したメロディを奏でる笛、賑やかな打楽器が宴を彩る主役であり、昔から伝わる「古琴」は、もはや儀式か文人の嗜みとして固苦しく敬遠されがちだったのだ。
フレデリカはぎゅっと木箱の紐を握りしめた。
(古琴は古くなんてない。琴の音には、人の心を映す鏡がある。風の音も、水の流れも、誰かの哀しみも、すべてを七つの弦で救うことができる……)
言い返したい言葉は胸の奥に仕舞い込み、フレデリカは静かに深く頭を下げた。言葉で争う必要はない。自分が何を響かせられるかは、すべて弦が語ってくれるはずだからだ。
オーレリア帝国の教坊選抜試験は、極めて厳格であった。 選抜の舞台となるのは、教坊の長である「楽営使」や、尚宮局の厳格な女官たちが居並ぶ廣楽殿の回廊である。
殿内からは時折、華やかな琵琶の掻き鳴らしや、清らかな歌声、あるいは優美な舞の鈴の音が漏れ聞こえてくる。しかし同時に、容赦のない「不合格(不第)」の言い渡しと、落胆して泣き崩れる少女たちの姿も絶えなかった。
「次、フレデリカ・リヴィエール!」
女官の甲高い呼び声が響く。
フレデリカは背筋を正し、重い箱を抱えて一歩一歩、磨き上げられた黒檀の床を踏みしめた。殿内に入ると、正面の台座の上に三人の審査役が座していた。
中央に座すのは、当代随一の音楽家であり、帝の絶大な信頼を得ている教坊掌楽使・シン・カルラ。その左右には、眉をひそめた厳格な正四品の尚宮と、老練な宮廷音楽家たちが並んでいる。
「フレデリカ・リヴィエール、十三才。……ふむ、持ち込みの楽器は、古琴か」
シン・カルラは手元の名簿に目を落とし、少し意外そうに眉を上げた。四十半ばの彼は、洗練された風貌をしていたが、その瞳は鋭く、幾千の奏者を見抜いてきた観察眼に満ちている。
「娘よ。ここが何の場か分かっているか? 宮廷の女楽は、宴を賑やかし、帝の御心を和らげるためのもの。古琴の静寂なる音色は、老荘の道を求めるには適していようが、広大な皇宮の宴席では蚊の鳴くような音にしかならんぞ」
尚宮も冷ややかに付け加えた。
「左様です。近頃の若い奏者は、琵琶の華やかさを嫌い、風雅を気取って奇を衒う者がおります。古琴など、儀礼の音楽を司る太常寺の老楽師に任せておけばよいものを」
会場に冷ややかな空気が満ちる。フレデリカは怯まず、ゆっくりと琴箱の蓋を開けた。
現れたのは、漆が擦れ、年月を経て渋い古色を帯びた一枚の琴。フレデリカの手は小さく繊細だが、指先には固いタコがしっかりと刻まれていた。それは幼い頃から毎日、何時間も弦と対話してきた証であった。
「……お言葉ですが、試験官様」
フレデリカは清らかな、しかし芯のある声で口を開いた。
「琴の音は、決して蚊の鳴くような音ではありません。響かせ方ひとつで、雷鳴にもなれば、千人の啜り泣きにもなります。静けさの中にこそ、真の大地と天の広がりがございます。どうか一度だけ、私に弾く機会を」
シン・カルラの目が、わずかに細められた。生意気だと怒りを露わにする尚宮を手のひらで制し、彼は深く椅子の背に寄りかかった。
「……面白い。ならば弾いてみよ。ただし曲目は我らが指定する。西域の曲調を取り入れた『霓裳羽衣』の旋律の一部を、その古琴で表現してみせよ」
殿内にざわめきが広がった。
『霓裳羽衣』――それは華やかで幻想的、目まぐるしく変化する曲調を持つ、最新の宮廷燕楽の最高峰である。音数の少ない、古典的な五音階(宮・商・角・徴・羽)を基本とする古琴で、西域の半音階や奔放なリズムを持つ曲を弾くなど、通常では不可能な難題であった。
「……承知いたしました」
しかし、フレデリカの顔に迷いはなかった。
彼女は床に座し、膝の上に古琴を据えた。目を閉じ、一息深く吸い込む。
(都の賑やかさも、仙人の舞う天上の雲も、すべてはこの七本の弦の中にある……)
そっと、第一弦に指を掛けた。
――ポーン。
最初に放たれた一音が、廣楽殿の広い空間に打たれた。
それは単なる音ではなかった。深く、太く、まるで太古の鐘が鳴り響いたかのような、腹の底にしみわたる重厚な振動。殿内の誰もが、思わず息を呑んだ。
フレデリカの指が、まるで生き物のように弦の上を滑り始める。
『吟』『猱』と呼ばれる古琴独特の指の押し込みと擦り技(左指で弦を滑らせて音程を無段階に変える技法)を駆使し、彼女は西域の妖艶で緩やかな旋律を琴の上に再現し始めた。
静かな序奏。雲の上の宮殿に漂う仙女たちの羽衣が、澄んだ風に揺れているかのような旋律。
「なに……!?」
シン・カルラが思わず立ち上がりかけた。
古琴の音量は小さいはずだった。しかし、フレデリカの弾く音は、廣楽殿の木造の柱や天井に共鳴し、部屋全体を包み込むような不思議な立体感を持って響いていた。彼女の爪が弦を弾く「指法」があまりにも正確で、無駄な力が一切抜けているため、弦の振動が最大限に引き出されているのだ。
やがて、曲調が一変する。
破の章へ入り、リズムがにわかに激しくなった。フレデリカの小柄な体が大きく揺れる。右指が七本の弦を目にも留まらぬ速さで掻き鳴らす『滾拂』の技が繰り出された。
――滝が落ちるような音。 ――風が猛吹くような音。
古琴から出ているとは信じがたい、怒涛の音が殿内を駆け巡る。華やかな琵琶のリズムを、彼女は古琴の擦り音と打弦で見事に表現し直していた。そこには古臭さなど微塵もなく、ただただ聴く者の胸を激しく揺さぶる、圧倒的な音楽の生命力だけが存在していた。
嘲笑していた他の受験者たちも、言葉を失ってフレデリカの手元を注視している。
曲はクライマックスに達し、天上の仙女たちが最高潮の舞を踊り終える瞬間を迎える。フレデリカの指が弦の上を素早く駆け上がり、最後に右手の親指で一筋の音を弾いた。
――ピーン……。
余韻が、長く、長く、空間に引き伸ばされる。
フレデリカが弦を押さえていた手をそっと離し、膝の上に戻した。
廣楽殿の中は、完全な静寂に包まれていた。誰もが息をするのさえ忘れたかのように、沈黙が続いた。
「……素晴らしい」
ぽつりと、シン・カルラの口から言葉が漏れた。
彼はゆっくりと手を叩き始めた。一人、また一人と、老楽師たちも拍手に加わる。尚宮でさえも、驚愕に目を見開いたまま、小さく拍手を送っていた。
「古琴の表現力がここまでとは。お前はただ曲をなぞったのではない。この『水鏡』の七本弦を使って、帝都オクタヴィアの賑わいと、天上の幻想を新たに変奏してみせたのだ。これほどの爪さばき、音色の描き分け……天才か」
シン・カルラは前へ進み出ると、フレデリカの目の前でしゃがみ込み、その小さな手を覗き込んだ。
「娘よ、名を何と申した?」
「……フレデリカ・リヴィエールと申します」
「フレデリカ・リヴィエール。お前の琴は、皇宮の宴を単に賑やかにするものではない。帝の疲れた御心を癒やし、百官の魂を揺さぶる一品となるだろう。教坊の女楽として……いや、皇宮専属の琴師として、即刻採用とする!」
「あ……ありがとうございます!」
フレデリカは深く、深く床に頭をつけた。握りしめた拳の下、畳まれた着物の袖に、安堵の涙が一粒落ちた。
遠くで、帝都オクタヴィアに昼を告げる太鼓の音が響き始めていた。
フレデリカ・リヴィエール
13歳の小柄な少女。幼少期から愛用する七弦の古琴「水鏡」の奏者。合格後は「幽香院」にあてがわれ雑務をこなしながらも、夜に一人静かに琴を弾き続け、皇帝にその才能を見出される。
アナ・カルラ
裕福な家柄出身の少女で、教坊掌楽使シン・カルラの姪。胡琵琶の優秀な奏者であり、フレデリカや古琴を嘲笑・蔑視する。
シン・カルラ
教坊の長である教坊掌楽使。アナの叔父。帝から絶大な信頼を得ている当代随一の音楽家。
ヴィンセント
オーレリア帝国の皇帝。宴の狂騒に疲れていたところ、満月の夜に幽香院から流れるフレデリカの「名の無い曲」に心を癒やされ、彼女を専属の琴師として清涼殿へ呼び寄せる。
老女官(管弦を仕切る役目)
フレデリカの古琴は音が小さすぎると言い捨て、彼女に演奏ではなく雑用ばかりを命じる。




