第17章『凍てつく玉座』
建国より三百年を数える大帝国に、終わりの始まりを告げる報せが走ったのは、粉雪が舞い散る二月の早朝であった。
「皇帝陛下、崩御――!」
帝都オクタヴィアの宮廷は、一瞬にして凍りついたような静寂に包まれ、直後に怒号と悲鳴が交錯する大混乱へと陥った。絶対の権威として君臨していた皇帝ヴィンセントが突如として世を去ったのだ。遺体が安置された紫宸殿の周りには、白煙のような吐息を吐き出しながら、甲冑の擦れ合う音を響かせる兵たちの姿があった。
帝都には現在、帝都近衛軍八千と、皇帝の身辺を守護する皇帝親衛隊二千が常駐している。だが、主を失った大蛇の如く、その指揮権は宙に浮いていた。
後宮の深奥、絢爛豪華な調度品に囲まれた一室には、第二皇子であり皇太子を務める二十三歳の青年が閉じこもっていた。 「……父上が亡くなられただと? まさか、そんなはずは……」 怯えを隠せない皇太子の傍らには、彼の直属である皇太子近衛隊一千が厳重な警戒網を敷いている。皇太子の母親は正妃である皇后であり、さらにその背後には前皇帝の母である皇太后が控えていた。皇太后と皇后は同族の出であり、宮廷の要職には彼らと同族の有力貴族たちがズラリと名を連ねている。血統と宮廷工作の面において、皇太子の優位は揺るぎないものに見えた。
しかし、その正当性を武力によって打ち砕こうとする動きが、即座に帝都の外部で巻き起こる。
帝都から西南へ百二十キロメートル。実り豊かな領地を治める第一皇子ヴァルハルト(二十五歳)は、報せを受け取るやいなや、溢れんばかりの自尊心を露わにして激昂した。 「長男であるこの私が差し置かれ、後宮で女どもの裾に隠れているような弟が玉座に就くだと? 笑止千万! 帝国の主たるべき者は、強者でなければならん!」 自らを皇位にふさわしい唯一の器と信じて疑わないヴァルハルトは、直ちに領内の私兵五千を招集。自ら陣頭に立ち、帝都オクタヴィアを目指して破竹の勢いで進軍を開始したのである。
ヴァルハルトは即座に手を打った。自分と同じく軍事力を有する弟たち――帝都郊外に駐屯する第3皇子と、遠方に寄せる第5皇子へ遣いを飛ばし、自らへの支持を打診させたのだ。
だが、帝国の動乱は、この男の思い通りには進まなかった。
◇
帝都から南東に百五十キロメートル離れたアルヴェリア領。寒風が吹き荒ぶ城砦都市の執務室で、第5皇子イリアード(十八歳)は、密書を差し出してきた第一皇子の使者を静かに見つめていた。
イリアードの母は、かつて後宮の下級宮女であった。他の皇子たちに比べ、身分は最も低い。しかし、彼は自らの剣と智謀で北方辺境の反乱を鎮圧するなど、若くして確かな武勇と軍功を積み重ねてきた叩き上げの将でもあった。
使者が退出した後、イリアードは重厚な木製机に拳を置いた。 「ヴァルハルト兄上が蜂起されたか……。帝都は血の海になるな」
部屋の扉が開き、二人の少女が足早に入ってきた。正妻のリゼリア(十七歳)と、側室のセシリア(十六歳)である。二人はいずれも可憐な容姿の中にどこか浮世離れした静謐な雰囲気を纏っていた。彼女たちは古の血を引く「精神感応(念話)」と「千里眼(念視)」の能力者であった。
「イリアード様」 リゼリアが凛とした声を響かせる。 「ただいま、念視にて帝都周辺の情勢を探りました。第一皇子軍五千は西南から進軍中。そして……帝都郊外に陣を張る第3皇子様のもとにも、ヴァルハルト様からの書状が届いております」
「第3皇子兄上の動きは?」とイリアードが問う。
今度はセシリアが、閉じた瞳をゆっくりと開きながら答えた。 「第3皇子様(二十一歳)は、叔父上である重鎮・大将軍と密談を重ねておられます。第3皇子軍五千は極めて精鋭。ですが、ヴァルハルト様からの使者に対しては、明確な返答を避けておられます」
「なるほど……無返答か」 イリアードは口元に微かな冷笑を浮かべた。 「第3皇子兄上と大将軍は日和見を決め込んでいるわけではない。ヴァルハルト兄上が帝都に近づき、疲弊したところを正規軍の力で叩き潰す気だ。己の威信を高めた上で、最も有利な形で皇太子に貸しを作る……それがあの叔父甥の企みだろう」
「では、第一皇子様からの支持要請に対し、イリアード様はどうなさいますか?」 リゼリアの問いに、イリアードは立ち上がった。 「沈黙だ。兄上たちの醜い権力闘争に、アルヴェリアの領民を巻き込むわけにはいかん。だが……帝都の混乱を野放しにはできない」
イリアードは長剣を腰に差し、自らの親衛騎兵を見回した。 「これより帝都へ向かう。連れて行くのは精鋭一〇〇騎のみだ」
「一〇〇騎!?」 セシリアが息を呑む。 「あまりに危険です! 帝都周辺には数万の軍勢が蠢いているのですよ?」
「軍を率いて動けば、私まで謀反の意ありと見なされる。一〇〇騎ならば、ただの急報警護の名分が立つ。リゼリア、セシリア、二人も同行しろ。お前たちの『目』と『声』が、この土壇場で局面を左右する」
「御意に」 二人の妻は力強く頷いた。
遠く帝都では、第四皇子(二十歳)が事態の推移におびえていた。母は位の高い側室、実家も叔父も文官の長老という名門であったが、本人には何の取り柄もない生粋の貴公子である。彼は後宮の奥深くに身を潜め、ただただ文官の親族たちが保身のために右往左往するのを眺めることしかできなかった。 また、武家の一族を母に持つ第6皇子はまだ十五歳と幼く、自陣営の館で固まって嵐が過ぎ去るのを待つばかりであった。
帝国の命運は、動き出した皇子たちの手中へと委ねられた。
◇
第一皇子ヴァルハルトの進軍の報は、帝都オクタヴィアの内部を激震させた。
「ヴァルハルト殿下が攻めてくるだと!?」
帝都近衛軍八千を率いる将軍は、保身と野心に満ちた男であった。彼は即座に腹をくくった。 「皇太子など、女どもの傀儡に過ぎん! 武勇に優れる第一皇子殿下につくぞ。第一皇子が即位されれば、我ら近衛軍の功績は絶大。私は大将軍の座を手に入れられる!」
将軍は帝都近衛軍八千を率い、第一皇子への与力を宣言。帝都の城門を開放しようと動いた。
しかし、皇宮の内部では全く異なる意志が働いていた。 皇帝親衛隊二千を率いる隊長は、亡き皇帝への忠誠と、正統なる皇太子への信義を貫く男であった。 「逆賊ヴァルハルトに与する不義の輩どもめ! 皇帝陛下の御意思は皇太子殿下にあり! 宮廷を守護せよ!」
親衛隊長は、自らの親衛隊二千に加え、隠されていた予備兵勢力一千を呼応させて「親衛隊三千」の陣容を整えた。さらに皇太子近衛隊一千、そして皇宮の警護や裏工作を担う宦官五00人を扇動して動員。総勢四千五百の勢力をもって、反乱へと傾いた帝都近衛軍の遮断にかかった。
「城門を破らせるな! 近衛軍の裏切り者どもを討て!」
絢爛たる皇宮の回廊が、凄惨な戦場へと変貌した。 豪華な白磁の床は赤く染まり、絢爛な錦の帳に血飛沫が飛び散る。宦官たちは短刀や毒針を持って物陰から襲いかかり、近衛隊の重装騎兵と親衛隊の槍兵が正面から激突した。近衛軍八千のうち、半数の四千が皇宮突入を試みたが、親衛隊の死力を尽くした防衛線と狭小な建築構造に阻まれ、泥沼の市街戦へと引きずり込まれた。
一方、帝都の西南郊外――。 「ハハハ! もはや帝都は我が手中にあり!」 勝利を確信して進軍していた第一皇子ヴァルハルトの五千の軍勢の前に、突如として整然たる大陣形が立ちふさがった。
帝都郊外に留まっていた、第3皇子と大将軍の率いる正規軍五千である。
「な、なんだと……!?」 ヴァルハルトが愕然とする。 「第3皇子! 私からの打診を無視して、なぜここに立ちふさがる! 私と手を組み、あの幼弱な皇太子を排除するのではなかったのか!」
第3皇子は陣頭に立ち、冷酷な笑みを浮かべた。 「兄上、自尊心ばかりが高く、情勢が見えておられぬな。皇太子を倒してあなたが即位すれば、単なる『謀反人による王座奪還』だ。だが、暴走したあなたを私が鎮圧すれば……私は『帝国を救った英雄』として皇太子殿下に絶大な恩を売ることができる」
「貴様ぁっ……!」
「撃てぇっ!」 大将軍の掲げた指揮旗が振り下ろされた。 百戦錬磨の正規軍五千が一斉に襲いかかる。野心だけで集められた第一皇子の私兵五千は、錬度と統制において圧倒的に劣っていた。陣形は瞬く間に壊乱し、大混乱に陥った。
「退くな! 押し返せ!」 ヴァルハルトの叫びも虚しく、兵たちは次々と武器を捨てて逃亡を始めた。正規軍の容赦ない挟撃を受け、第一皇子軍は徹底的に駆逐され、ヴァルハルト自身も数頭の側近とともに落ち武者の如く討ち取られ、あるいは捕縛されて壊滅したのである。
◇
第一皇子敗北の報は、疾風のごとく帝都内へと駆け抜けた。
皇宮の門前で親衛隊と交戦中であった帝都近衛軍の兵士たちに、激震が走る。 「ヴァルハルト殿下が……負けた!?」 「第一皇子軍は壊滅したぞ! 我々は謀反人の片棒を担がされていたのか!」
絶望と怒りが、近衛軍の兵士たちの間で爆発した。 「出世だと!? 将軍の野心に付き合わされて、我らは朝敵にされたのだ!」 「将軍を殺せ! 首を差し出して、皇太子殿下に赦しを請うのだ!」
内部分裂を起こした近衛軍内部で、兵士たちの暴動が発生した。自分たちの将軍を包囲した兵らは、自らの生き残りをかけて剣を群がり突き立てた。即位後の出世を夢見ていた将軍は、哀れにも身内の兵の手によって凄惨な死を遂げることとなったのである。
将を失い、完全に混乱と恐怖に陥った帝都近衛軍。皇宮を死守したものの満身創痍の親衛隊。 帝都オクタヴィアが不気味な静寂に包まれたその時、郊外から堂々たる大軍が進軍してきた。
第一皇子を討ち果たした第3皇子と、その叔父である大将軍の五千の正規軍である。
第3皇子は帝都の目と鼻の先に陣を張ると、使者を皇宮へ送った。 『第3皇子、逆賊ヴァルハルトを討伐せり。これより帝都に入り、正統なる皇太子殿下の支持を表明し、宮廷の治安を維持せん』
その報告を聞いた皇太子と皇后は、安堵すると同時に恐怖に身を震わせた。 第3皇子は「皇太子支持」を掲げているが、帝都内にまともな防衛力は残っていない。第3皇子が五千の兵を引き連れて帝都に入れば、皇太子は事実上、第3皇子と大将軍の傀儡となる。実権はすべて第3皇子派に奪われるのだ。
「どうすればいい……第3皇子を拒む兵など、今の我らにはない……!」 皇太子が頭を抱えていたその時。
帝都の南門に、わずか一〇〇騎の騎兵集団がたどり着いた。 馬を走らせてきたその集団の先頭に立つのは、漆黒の甲冑を身にまとった第5皇子イリアードであった。
南門を守る半狂乱の近衛軍兵士たちが槍を構える。 「だ、誰だ! これ以上の軍の進入は認めん!」
イリアードは馬を止め、朗々と声を響かせた。 「アルヴェリア親王、第5皇子イリアードである! 帝都の動乱を聞きつけ、皇帝陛下の御遺体をお守りし、皇太子殿下をお支えするために一〇〇騎のみを率いて馳せ参じた!」
一〇〇騎という極めて少数であること、そしてイリアードの威風堂々とした態度に、兵士たちは戦慄しながらも門を開けた。
イリアードの後方、馬上に並ぶ二人の美女――リゼリアとセシリアは、そっと目を閉じ、能力を発動させていた。
「(イリアード様、第3皇子軍の陣営に念視を伸ばしました。第3皇子様は、帝都内の疲弊を見抜き、今夜半にも『全軍警護』の名目で皇宮を制圧する構えです)」 リゼリアの声が、イリアードの脳内に直接届く。
「(また、帝都内の残留近衛軍の残党に念話で働きかけ、イリアード様の武勇と『皇太子殿下を純粋に助けに来た』という意図を直接兵士たちの心に伝えています。兵たちの動揺は収まりつつあります)」 セシリアの念話が重なる。
「よくやった、二人とも」 イリアードは密かに呟き、一〇〇騎の精鋭とともに、血臭漂う帝都の大通りを堂々と進軍した。
◇
帝都の門をくぐったイリアードは、直ちに壊滅状態の親衛隊と接触し、彼らを掌握した。さらに、念話による情報工作と自らの圧倒的なカリスマ性によって、指揮官を失って右往左往していた帝都近衛軍の残党をも自らの傘下に収めていく。
「第5皇子殿下は、功名心ではなく、純粋に帝国と皇太子殿下のために来られたのだ!」 兵たちの間で、その声は瞬く間に広がった。わずか一〇〇騎で乗り込んできたという事実が、逆に「野心なき忠義の将」という強烈な印象を全軍に与えたのだ。
イリアードは勢いそのままに皇宮へと乗り込んだ。 謁見の間では、恐怖に震える皇太子と、顔色を失った皇后、皇太后、そして文官の伯父を持つ第四皇子らが集まっていた。
イリアードは皇太子の御前に至ると、重厚な甲冑を響かせて片膝を突いた。
「第5皇子イリアード、アルヴェリアよりただいま参上いたしました。皇帝陛下の崩御、誠に痛恨の極みにございます」
皇太子は泣きだしそうな顔で駆け寄ってきた。 「イ、イリアード! よくぞ来た! 西南のヴァルハルトは討たれたようだが、今度は郊外に第3皇子の五千の兵が迫っているのだ! あいつは私を傀儡にする気だ!」
イリアードは静かに顔を上げた。その瞳には、揺るぎない確信の光が宿っていた。
「ご安心ください、皇太子殿下。私イリアードは、臣下として、そして弟として、正統なる皇太子殿下の支持をここに表明いたします。私の率いる兵、そして帝都に残る親衛隊・近衛軍の残余、すべてを殿下の盾といたしましょう」
「おぉ……! 受けてくれるか! 私を守ってくれるか!」
「ハッ。ですが殿下、第3皇子兄上が大軍を率いて帝都に入城すれば、主客が転倒いたします。直ちに第3皇子に対し、以下のように宣旨をお出しください」
イリアードは毅然とした声で進言した。 「『逆賊討伐の功を称える。だが帝都の治安は第5皇子イリアードが掌握したため、第3皇子軍は郊外に留まり、軍を収めて領地へ撤退せよ』……と」
皇后が目を見張り、口を挟んだ。 「しかしイリアード、そのような命を第3皇子が素直に聞くはずが……彼らには五千の正規軍があるのですよ?」
イリアードは不敵に微笑んだ。 「聞かざるを得ません。私が皇太子殿下を擁立し、帝都の残存勢力(親衛隊・近衛軍計数千)を即座に再編して城壁を固めました。第3皇子兄上がこれを力ずくで破ろうとすれば、今度は第3皇子ご自身が『皇太子に刃を向ける第二の逆賊』となる。正義の名分は、完全に我らにあります」
背後に控えるリゼリアが、イリアードにのみ聞こえる念話で告げた。 「(イリアード様。第3皇子陣営の動静を念視しました。第3皇子と大将軍は、あなたが電撃的に帝都に入り、皇太子様と親衛隊を掌握したことに激しいショックを受けています。『出遅れた』と歯噛みしております)」
セシリアも念話を重ねる。 「(大将軍は『名分を失った以上、強行突破は朝敵の汚名を着る』と主張し、第3皇子様を説得し始めています)」
イリアードの読みは完璧であった。
数時間後、帝都郊外の第3皇子陣営から使者が到着した。 第3皇子軍は皇太子への恭順を示し、帝都への強行入城を断念。郊外にて「皇太子支持」の立場を表明せざるを得なくなったのである。
大激震に見舞われた二月のオクタヴィア。 第一皇子ヴァルハルトは露と消え、第3皇子は手柄を立てながらも王手をかけ損ね、第四皇子は無力さを晒し、第6皇子は沈黙を守った。
そして、最も身分の低い宮女を母に持つ第5皇子イリアードは、わずか一〇〇騎で帝都の危機を制し、皇太子の最大の功臣にして「帝都の守護者」としての地位を確立したのである。
冬の終わりの冷たい風が、帝都の屋根を吹き抜けていく。 玉座の傍らに立つイリアードの隣で、リゼリアとセシリアが静かに微笑んでいた。 激動の帝国に、新たな覇者の影が落ちようとしていた。




