第18章『 戴冠の影で』
二月の凍てつく風がようやく和らぎ、春の芽吹きを予感させる陽光が帝都オクタヴィアの赤瓦を照らし始めていた。
第一皇子ヴァルハルトの蜂起と討伐、帝都近衛軍の内紛、そして第3皇子による威圧――帝国を揺るがした怒濤の動乱から数週間。大混乱の渦中にあった帝都は、若き第5皇子イリアードの決断と手腕によって、急速に静寂を取り戻しつつあった。
紫宸殿の大広間では、盛大な即位の礼が執り行われていた。 亡き皇帝ヴィンセントの後を継ぎ、第二皇子であった皇太子が新皇帝として即位したのだ。
黄金の絢爛たる装飾が施された玉座に腰を下ろす新皇帝。その顔には、先日の恐怖の記憶が完全には拭いきれておらず、どこか頼りなげな陰が差し込んでいる。その傍らには、勝利者の笑みを浮かべる皇后――今や皇太后となった母と、その同族である高官たちがずらりと居並んでいた。第一皇子の脅威が去り、第3皇子を郊外に留めたことで、彼らは再び宮廷の権力を握り潰そうと野心を燃やしている。
しかし、宮廷の貴族たち、そして何より新皇帝自身が最も強く視線を送っていたのは、列の最前列に静かに佇む一人の青年であった。
漆黒の式典用甲冑を纏った第5皇子、アルヴェリア親王イリアード。
わずか一〇〇騎の親衛を率いて帝都に駆けつけ、混乱した近衛軍と親衛隊を速やかに掌握し、第3皇子の威圧を無血で退けた英雄。最下層の宮女を母に持ちながら、いまや帝都の兵士と民の信頼を一身に集める男である。
「……これより、新陛下への祝辞を賜る!」
儀礼官の声が響き渡ると、イリアードは静かに歩み出で、玉座の前で深く頭を下げた。
「アルヴェリア親王イリアード、謹んで新皇帝陛下の即位をお祝い申し上げます。陛下の御代が永きにわたり、帝国に繁栄と安寧をもたらすことを祈念いたします」
「うむ、うむ! 面を上げよ、イリアード!」
新皇帝は玉座から身を乗り出すようにして声を弾ませた。その瞳には、かつての混乱の中で自分を救ってくれた弟への、すがりつくような強い依存の色が浮かんでいた。
「イリアード、お前の忠節と功績にはどれほど感謝しても足りぬ。お前がいなければ、朕はヴァルハルトに殺されていたか、第3皇子の傀儡となっていたであろう。お前こそは帝国の真の守護者だ」
「勿体なきお言葉。私は皇族として、また臣下としての務めを果たしたに過ぎません」
「謙遜するな」 新皇帝は座り直し、視線を一動させた。
「そこでだ、イリアード。朕はお前に頼みがある。いや、皇帝としての最初の願望だ。――お前にはこのまま帝都に留まり、帝都防衛の全権を担う『帝都元帥』の職に就いてもらいたい。帝都近衛軍と皇帝親衛隊をすべてお前に委ねる。しばらく……いや、永遠に朕の傍らにおり、朕を支えてくれぬか」
大広間にどよめきが広がった。 帝都元帥――それは実質的に帝国の軍事権念頭を掌握するに等しい最高幹部のポストである。もしイリアードがその職に就けば、宮廷のパワーバランスは一変する。
皇太后とその同族である文官たちは、一瞬にして顔色を変えた。 (宮女の産んだ子にそこまでの権力を渡してなるものか!) (だが、兵たちの信任はイリアードにある……下手に反対すれば、兵の暴動を引き起こしかねん) 彼らは固唾をのんで、イリアードの答えを待った。
イリアードは微かに目を閉じ、そして静かに、しかし断固とした口調で言葉を紡いだ。
「――謹んで辞退申し上げます、陛下」
広間に静寂が落ちた。新皇帝もまた、信じられないというように目を見開いた。
「なに……? 辞退、だと?」
「ハッ。私はアルヴェリア親王。私の果たすべき真の責務は、南東の要衝であるアルヴェリア領を守護し、辺境の安定を保つことにございます。帝都の治安はすでに回復し、親衛隊も近衛軍も本来の指揮系統を取り戻しました。私のような辺境の領主が長居をすることは、かえって宮廷の秩序を乱す元となりかねません」
イリアードは一切の迷いなく、皇位の側に留まるという最大の権力を蹴ってみせたのだ。
◇
即位の礼が終わり、夜の静寂が皇宮を包み込む頃。 イリアードは新皇帝から自室への執術を命じられ、私的な応接室へと足を踏み入れた。
部屋には新皇帝が一人、ワイングラスを手に手持ち無沙汰にたたずんでいた。昼間の華やかな礼服からくつろいだ部屋着に着替えているが、その表情には隠しきれない焦燥と不安が刻まれていた。
「入れ、イリアード」
「失礼いたします、陛下」
「ふたりきりの時は『兄上』と呼んでくれと言ったろう。……座ってくれ」
イリアードが差し出された椅子に腰を下ろすと、新皇帝は自らワインを注ぎ、深々とため息をついた。
「昼間の返答……本気なのか? 帝都元帥の職を断り、アルヴェリアへ帰るというのは」
「本気にございます、兄上。私に政治の駆け引きは向いておりませぬ。私は剣を振り、兵を率いて領地を守る武人に過ぎません」
「嘘をつけ!」 新皇帝は思わず声を荒らげた。ワインがグラスから揺れこぼれる。
「お前が政治に向いていないはずがない! わずか一〇〇騎でこの帝都に乗り込み、親衛隊を収め、裏切りかけた近衛軍を心服させ、あの第3皇子の五千の軍勢を指一本触れずに引き下がらせたのだぞ!? それが政治でなくて何なのだ! お前の智謀と武勇がなければ、私は明日にも誰かに首を差しすげ替えられるかもしれんのだ!」
新皇帝の叫びは、悲痛であった。 第一皇子ヴァルハルトの猛威、そして第3皇子の冷酷な計算。さらに自分を囲む母や叔父たちの溢れんばかりの野心。すべてが自分を押し潰そうとしているように見えていた。
「イリアード、頼む……私を見捨てる気か? 母上や伯父上たちは私を甘やかすが、所詮は自分たちの都合で私を利用しているだけだ。私を『皇帝』としてではなく、『兄』として助けてくれたのはお前だけなのだ!」
新皇帝は、イリアードの手を握りしめんばかりの勢いで身を乗り出した。
イリアードはその視線を真っ直ぐに受け止めた。その瞳には、甘えを許さない冷徹なまでの理知と、深い弟としての情が同居していた。
「兄上。私が帝都に留まれば、兄上は本当の意味で『皇帝』にはなれません」
「なに……?」
「私が帝都元帥となれば、私を疎む皇太后様や文官の方々との間に激しい派閥争いが起こります。兵たちは私に忠誠を誓い、宮廷は私と貴族たちで二分されるでしょう。それは第二の動乱の種となります。……さらに言えば、兄上ご自身が、何か問題が起きるたびに私に頼ることになります」
イリアードは言葉を刻むようにして続けた。
「皇帝とは、孤独な存在です。他人に頼り、誰かの陰に隠れていては、いずれ第3皇子や権臣たちに見透かされ、真の傀儡となります。兄上ご自身が、ご自分の足で立ち、宮廷を抑え込まねばならないのです」
「私に……そんなことができると思うか? お前のように武勇があるわけでもなく、智謀があるわけでもない私に……」
「できます」 イリアードの声には不思議な力強さがあった。
「兄上には正統性があります。皇后様の産んだ皇太子であり、亡き父上が指名された正当な継承者であるという事実は、何物にも代えがたい武器です。そして何より、兄上は他人の痛みがわかるお方だ。傲慢だったヴァルハルト兄上にはなかった優しさをお持ちだ。それは、長きにわたる治世において最も必要な質でございます」
新皇帝は言葉を失い、弟の顔を見つめた。
「私はアルヴェリアへ戻ります。ですが、それは兄上を見捨てることではありません」
イリアードは立ち上がり、胸に手を当てて深く礼をした。
「私がアルヴェリアにいて、強大な軍事力を保持し続けている限り、第3皇子も、あるいは宮廷の不穏分子も、迂闊には動けません。『皇太子を脅かせば、南東からイリアードが即座に攻め込んでくる』――その恐怖こそが、兄上の王座を守る最大の抑止力となるのです」
「……私が帝都を離れ、遠くから兄上の背中を守る。それこそが、帝国にとって最善の配置なのです」
◇
イリアードが皇帝の部屋を辞し、宮廷の長い回廊を歩いていると、曲がり角の物陰から一人の少女が姿を現した。
正妻のリゼリアである。彼女は静かな足取りでイリアードの隣に並び立った。
「お疲れ様でした、イリアード様。陛下との話し合いは終わりましたか?」
「ああ。どうにか納得……いや、諦めていただけそうだ」
イリアードが苦笑交じりに答えると、リゼリアの表情が少し曇った。
「念視にて、宮廷のあちこちを探っておりましたが……皇太后様とそのお一族の動きが急です。イリアード様が帝都元帥を辞退されたと聞き、表面上は胸を撫で下ろしておりますが、同時に『イリアードが帝都におり、兵の信望を集めていること自体が危険だ』と囁き合っています」
「だろうな。彼らにとって、叩き上げの軍功を持ち、兵士に絶大な人気がある私は、いつ謀反を起こすかわからない不気味な存在だ」
「はい。今夜にも、イリアード様のアルヴェリア帰還を急がせるよう、陛下に圧力をかける構えです。『留まれば危険、去るのも怪しい』と……言葉巧みに毒を盛る気でしょう」
イリアードは冷ややかな目を向けた。 「元より長居する気はない。彼らが騒ぐ前に、明日にも帝都を発つ」
その時、回廊の影から滑り込むようにして、側室のセシリアが現れた。彼女の目には、幽かな緊張の色が走っていた。
「イリアード様、念話にて帝都郊外の第3皇子軍の動静を拾いました」
「ほう、第3皇子兄上が何か動きを見せたか?」
「はい。第3皇子様は、イリアード様が『帝都元帥』を辞退されたという報せを受け、非常に驚かれております。そして……こう漏らされたようです。『イリアードの奴、牙を隠して退く気か。だが、奴が帝都を去れば、皇帝はただの飾りになる。今度こそ、我らの天下だ』と」
セシリアはさらに声を潜めた。
「第3皇子様は、イリアード様が帝都を離れた隙を狙い、宮廷内の文官派と裏で手を結び、数ヶ月かけて徐々に帝都の権力を蚕食する計画を立てておられます」
イリアードは小さく鼻で笑った。
「なるほど、兄上らしい堅実で冷酷な企みだ。ヴァルハルト兄上のように単細胞に攻め込んでこない分、タチが悪いな」
「どうなさいますか?」とリゼリアが尋ねる。 「このままアルヴェリアへ戻れば、第3皇子様の思い通りに事態が進む可能性もございます」
「いや、これでいい」 イリアードは揺るぎない声で言った。
「第3皇子兄上が警戒しているのは、私の『存在』そのものだ。私がアルヴェリアで牙を研ぎ続けている限り、兄上も軽挙妄動はできない。もし過ちを犯せば、今度こそ私が全軍を率いて帝都へ攻め込み、彼らを叩き潰す。その覚悟を、去り際に示しておけばいい」
「……相変わらず、容赦がございませんね」 セシリアが可憐な唇に笑みを浮かべた。
「イリアード様、南東のアルヴェリアから連れてきた一〇〇騎の親衛隊も、すでに撤収の準備を整えております。彼らもまた、帝都のドブ臭い陰謀の空気には嫌気がさしているようです。『早くアルヴェリアの爽やかな風を浴びたい』と申しておりますわ」
「そうか。兵たちを待たせるわけにはいかないな。リゼリア、セシリア、お前たちも支度をせよ。明朝、陽が昇ると同時に帝都を発つ」
「御意に」 二人の妻は深く優雅に頭を下げた。
◇
翌朝。帝都オクタヴィアの南門には、朝靄が立ち込めていた。
昨夜までの雨が嘘のように晴れ渡り、澄み渡った青空が広がっている。城門の前には、一〇〇騎のアルヴェリア親衛騎兵が整然と列をなしていた。彼らの甲冑には過日の戦いの傷跡が残っていたが、その瞳は鋭く、高い士気を保ち続けていた。
門の周囲には、イリアードの噂を聞きつけた多くの帝都の兵士や民衆が集まっていた。
「第5皇子殿下が帰られるぞ……」 「殿下のおかげで、この帝都は血の海にならずにすんだのだ」 「なぜ帝都に残ってくださらんのだ! 殿下こそが我らの元帥にふさわしいのに!」
名残惜しむ声と歓声が交錯する中、門の楼閣から豪奢な馬車が到着した。 降り立ったのは、新皇帝その人であった。護衛の親衛隊を従え、皇帝はイリアードのもとへと足早に歩み寄ってきた。
「イリアード……本当に行ってしまうのだな」
「ハッ。陛下、お見送り感謝いたします」 イリアードは馬から降り、姿勢を正して礼をとった。
新皇帝は寂しげな表情を浮かべ、イリアードの肩に手を置いた。
「昨夜、お前の言葉をずっと考えていた。……お前の言う通りだ。私は今まで、母上や側近、そしてお前たち兄弟の影に隠れてばかりいた。だが、今日からは違う。私はこの国の皇帝として、自分の意志で宮廷を導いて見せる」
新皇帝の目には、昨夜までの怯えは消え、かすかな覚悟の光が宿っていた。
「もし……どうしても手に負えなくなった時は、また助けを求めてもいいか?」
「その必要がないことを祈っております」 イリアードは微かに微笑んだ。 「ですが、もし帝国を揺るがす不義の徒が現れたならば……このイリアード、アルヴェリアの地より一瞬で駆けつけ、陛下の敵を討ち払いましょう」
「うむ! 頼みにしているぞ、弟よ!」
新皇帝は強くイリアードの肩を抱きしめた。
その光景を、城門の物陰から苦々しい顔で見つめる一群があった。皇太后の親族である文官たちだ。 (忌々しい……去り際まで皇帝に強い影響力を残していくとは) (だが、これで奴は帝都から消える。宮廷は我らのものだ……)
文官たちが安堵の息を漏らしたその瞬間。
イリアードの背後に控えていた側室セシリアが、閉じていた瞳をゆっくりと開けた。 彼女は文官たちの方を鋭く見つめると、念話の力を全開にして、彼ら全員の脳内に直接、氷のように冷たい声を送り届けた。
『――文官の重鎮の方々へ。我が夫、イリアード様からの伝言です』
「ひっ……!?」 「な、なんだこの声は!? 頭の中に直接……!?」 文官たちが悲鳴を上げ、自分の頭を押さえてたじろいだ。
セシリアの冷徹な念話が続く。
『「陛下を不当に操り、私利私欲に走る者がいれば、たとえ帝都の深奥であっても、私の剣が届かぬ場所はないと知れ」……とのことです。どうか、陛下を健やかにお支えくださいますよう』
文官たちは顔を蒼白にし、膝をガクガクと震わせた。自分たちの企みがすべて見抜かれている恐怖に、ただただ平伏するしかなかった。
隣で正妻のリゼリアが、密かにくすりと微笑んだ。 「セシリア、少し脅かしすぎではありませんか?」
「ふふ、いいのですリゼリア姉様。あの者たちにはこれくらい釘を刺しておかなければ、すぐに調子に乗りますから」
イリアードは妻たちのやり取りに苦笑しながら、再び愛馬に打ち跨がった。
「陛下、これにて失礼いたします。帝国に永遠の栄光あれ」
「健やかでな、イリアード!」
イリアードが馬の綱を引くと、一〇〇騎の精鋭たちが一斉に馬首を返した。
「出発!」
イリアードの号令とともに、蹄の音が力強く大地を鳴らした。 一〇〇騎の騎兵集団は、朝靄を切り裂き、南東のアルヴェリアを目指して疾走し始めた。
◇
帝都オクタヴィアの巨大な城壁が、遥か後方へと小さくなっていく。
街道を駆け抜ける馬上で、イリアードは深く息を吸い込んだ。帝都の血と欲望の混ざり合った重苦しい空気とは異なる、澄み切った春の風が胸を満たしていく。
「やはり、外の風は心地よいな」
並走するリゼリアが、柔らかく微笑んだ。 「お疲れ様でした、イリアード様。帝都元帥の座を捨てられたこと、後悔はありませんか?」
「後悔などあるはずもない」 イリアードは前方の地平線を見つめた。
「帝都の玉座や元帥の椅子など、私にとっては鳥籠に過ぎん。宮廷のドブさらいに時間を費やすくらいなら、アルヴェリアの民を豊かにし、兵を鍛え上げる方がよほど意義がある」
「それに……」とセシリアが馬を寄せながら言った。 「第3皇子様も、宮廷の貴族たちも、これでイリアード様を恐怖し続けますわね。『帝都におらぬからこそ恐ろしい』……最高の縛り首の縄を、彼らの首にかけたようなものです」
「ふっ、お前たちの『目』と『声』があったからこそできた芸芸当だ。感謝しているぞ、リゼリア、セシリア」
「勿体なきお言葉です」 二人の妻は、嬉しそうに頬を緩めた。
今回の動乱で、第一皇子は滅び、第3皇子は牽制され、皇太子は皇帝として即位した。 一見すると、旧態依然とした宮廷の支配が戻ったように見える。しかし、その実質的な支配構造は大きく変化していた。
帝都の皇帝は、南東のアルヴェリアにいる第5皇子イリアードの武力を背景にして、権臣たちを抑え込む。 第3皇子は、イリアードの存在を恐れて安易な謀反を起こせない。 そしてイリアードは、帝国の最大の権力者でありながら、宮廷の汚濁から離れた場所で、着々と己の力を蓄え続ける。
「イリアード様」 リゼリアが遠くの空を仰ぎ見ながら言った。
「皇帝陛下が自立され、帝国が平穏を保てればよいのですが……もし、再び帝国が乱れた時は?」
イリアードは唇の端を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「その時は、もはや一〇〇騎では済まさん。アルヴェリアの全軍を率いて帝都になだれ込み、この手で新たな時代を創るまでのこと」
その言葉には、決して野心ではなく、絶対の自信と覚悟が満ちていた。
南東の空から、温かな陽光が降り注いでいた。 アルヴェリアの地へ向かう一〇〇騎の列は、風のように疾走を続ける。
大帝国の歴史に刻まれた「二月の動乱」は、こうして終わりを告げた。 しかし、それは同時に、アルヴェリアの若き獅子――第5皇子イリアードによる、新たな覇道の序章に過ぎなかったのである。




