オーレリア外伝『アンチルマ避難民藩地』その10
帝国歴303年12月31日、大晦日――。
舞い散る粉雪が「アンチルマ避難民藩地」の天幕群を白く包み込み、刻一刻と激動の一年の終わりが近づいていた。
10月の「防寒具と温泉の奇跡」、11月の「異能の義賊作戦」、そして「椒柏酒の仕込み」。過酷な戦火と極寒に晒されていた避難民たちの暮らしは、リヴィエール一族の乙女たちが密かにもたらしてきた「温かな奇跡」によって、見違えるほど穏やかなものとなっていた。
大晦日の夕刻――。
アンチルマ避難民藩地の中央広場には、先日湧き出た温泉の湯気が温かに立ち込め、大きな篝火が焚かれていた。 広場に集まった数万の避難民たちの前に、アルヴェリア親王妃リゼリアをはじめとする親王家の女性たちが立ち並んでいた。
「アンチルマの民よ!」 リゼリアの凛とした美しい声が、静まり返る広場に響き渡る。
「今年は大変な苦難の年でした。故郷を追われ、辛く厳しい日々を耐え抜いてくれたことに、心から感謝します。今夜は、みなさんのこれまでの苦労を労い、来たる新年の無病息災と平安を祈り、特製の『椒柏酒』を振る舞います!」
歓声が上がった。 セシリア、ロゼッタ、エミーナの手によって、並々と注がれた木製の盃が、子供(には甘い特製薬草茶)から老人まで、一人ひとりの手に丁寧に行き渡らされていく。
「ほら、どうぞ! 飲んで身体を温めてね!」 セシリアが一人のおばあさんに盃を手渡すと、おばあさんは震える手でそれを受け取り、大切そうに一口含んだ。
「おお……! なんと爽やかで、温かいお酒じゃ……。身体の奥から、力が湧いてくるようだ……」 おばあさんの目に、感謝の涙が溢れ出た。
あちこちで盃を交わす音が響き、人々は一口飲むごとに顔を綻ばせ、互いの健康と新年を祝い合った。 「美味い! こんな極上のお酒、生まれて初めて飲んだぞ!」 「身体がポカポカする! 明日からも元気に生きていけそうだ!」
民たちの弾けるような笑顔と熱気が、冬の寒さを完全に追い払っていた。
広場の少し離れた場所で、セシリアが盃を手に、リゼリアの隣へと歩み寄ってきた。
「姉様。民の顔から、すっかり影が消えましたね」
セシリアが感嘆混じりに呟くと、リゼリアは優しくセシリアの腕に手を添えた。 「いいえ、セシリア。これは私一人ではなく、セシリアやエミーナ、ロゼッタにナデット……みんなの真心が作り出した奇跡よ」
セシリアは盃を口にし、その芳醇な味わいに目を見開いた。
「……確かに。この温もりは、どんな兵站物資よりも強く民の心を生かしますね」
「ふふ、そうでしょう?」
遠くでは、ロゼッタとエミーナが子供たちに囲まれながら、楽しそうにおかわりの酒や温かいお茶を配り歩いているのが見えた。その傍らでは、ナデットが手帳に「避難民の罹患率予測:ゼロに修正」と満足そうに書き込み、リゼリアが静かに微笑みながら見守っていた。
◇
そしてその夜、暦の最後を締めくくる特別な夜を前に、アルヴェリア親王妃リゼリアは本陣の広々とした木造天幕に面々を集めていた。
天幕の中に集っていたのは、リゼリア、セシリア、ベルナデット、ロゼッタ、エミーナ。 公には隠された古代超常の血脈、「リヴィエール一族」の血を引く女性たちである。
天幕の中央には、赤々と燃え盛る大きな囲炉裏が置かれ、心地よい薪の爆ぜる音がパチパチと響いていた。周囲を明るく照らすのは、何十本もの分厚い蝋燭と清廉な油灯の灯りである。
「今夜は『守歳』を行うわ」
リゼリアは紫水晶の瞳を温かく細め、集まった一同を見渡して静かに語りかけた。
「大晦日の夜、家族が一堂に会し、一晩中火を絶やさず、灯りを消さずに夜明かしをする伝統の風習よ。去り行く旧年への感謝と別れを惜しみ、これから訪れる新年の福と平安を眠らずに待つの。……今年、数々の苦難を共に乗り越えてきた私たち一族にとっても、特別な夜にしましょう」
「守歳……一晩中、みんなでお話ししながら夜明かしをするのですね!」
セシリアがぽんと手を叩き、跳ねるような笑顔を見せた。 「素敵なお祝いだわ! 寒くて暗い夜も、みんなで火を囲んでいれば全然怖くないものね!」
「はいっ! 私、セシリア様とお姉様方と朝まで一緒にいられるなんて、とっても嬉しいですぅ!」 エミーナが両手を合わせて目を輝かせる。
「ですがセシリア様、エミーナ」 黒髪の侍女ロゼッタが、いつものように静かな声で現実的な確認を入れた。 「守歳において最も重要なのは『火と灯りを絶やさないこと』です。藩地の冬夜は冷え込みが厳しく、通常の燃料では未明に火が鎮火するリスクがあります。また、徹夜による体力の消耗も懸念されます」
「ふふっ、ロゼッタったら、またそんな心配をして!」
セシリアは悪戯っぽく笑うと、腰に下げた『水明』の玉佩を撫でながら胸を張った。
「燃料の心配ならいらないわ! 私たちの『空間調達』と熱操作の異能を使えば、朝日が昇るまで消えない極上の香木と薪をいくらでも準備できちゃうんだから!」
「お止めください、セシリア様」 侍女ベルナデット――「無慈悲のナデット」が、眼鏡の奥の目を光らせて淡々と割り込んだ。 「異能による燃料の無尽蔵な生成は、外部への魔力反応漏洩のリスクを伴います。今回は、セシリア様とエミーナ様の異能で『薪の燃焼効率を微小に引き伸ばす時間干渉』のみを最小限に適用し、表面上は手作業で薪をくべ続けるのが、最も合理的かつ自然なカモフラージュです」
「なるほど! ナデットの計算通りにするのが一番ね!」 リゼリアは満足そうに頷いた。 「それじゃあみんな、守歳の準備を始めましょう!」
◇
夜が深まるにつれ、天幕の外の風音は強さを増していった。しかし、守歳の天幕の中は、まるで別世界のような温もりと輝きに満たされていた。
囲炉裏の中では、セシリアとエミーナが微小な異能を込めた極上の薪が、橙色の穏やかな炎を上げて燃え続けている。その炎からは、白檀と桃の木が混ざり合ったような、甘く爽やかな香気が漂っていた。
五人は囲炉裏を丸く囲むように座り、先刻仕込んだばかりの熟成された「椒柏酒」や、温かい薬草茶が入った器を手に取った。
「こうして火を囲んでいると、今年あった色々なことを思い出しますねぇ……」 エミーナが膝を抱え、炎を見つめながらぽつりと呟いた。
「古都アンチルマが落ちた時は、本当にどうなっちゃうんだろうって、毎日泣いてばかりでしたぁ……」
「ええ……最初は避難民藩地の食料も資材も、何もかもが足りなくて絶望的だったわね」 セシリアも頷き、しんみりと茶の湯気を見つめる。
「ですが、リゼリア様の冷徹なまでの策謀と、セシリア様たちの『お茶目な裏工作』によって、危機はことごとく回避されました」 ナデットが手帳を開くことなく、珍しく柔らかい口調で添える。 「軍糧の徴発、防寒具と温泉の奇跡、悪徳商人からの財宝回収……。数値データの上でも、この藩地の生存率は不可能な領域から完全な安定へと覆されました」
「ロゼッタの監視と防壁、ナデットの完璧な計算があったからこそよ」 リゼリアは五人の杯を見つめ、感謝を込めて微笑んだ。 「私たちは一族の秘められた力と絆で、この数万人もの民の命と笑顔を守り抜くことができたの。つらく苦しい一年だったけれど、みんなとこうして生き延び、新しい年を迎えられることを、心から誇りに思うわ」
「リゼリアお姉様……!」
セシリアとエミーナの目頭が熱くなった。 ロゼッタも黒髪を揺らし、静かに深々と頭を垂れる。
夜が更けるにつれ、昔話やこれまでの苦労話、そして来たる春への希望など、尽きることのない語らいが続いた。
ロゼッタは「千里眼」で時折天幕の外の様子を伺いつつ、囲炉裏の火加減を怠らない。
「……藩地の天幕群でも、多くの家族が明かりを消さずに守歳を行っているのが見えます。みんな、火を囲んで暖をとり、穏やかに笑い合っていますよ」
「そう……よかった」 リゼリアは嬉しそうに目を細めた。
真夜中を過ぎる頃、さすがに疲労と温もりから、エミーナの瞼が重そうに閉じかけ、「ふにゃあ……」とセシリアの肩に頭を預けて舟を漕ぎ始めた。
「ふふ、エミーナったら。守歳なんだから、寝ちゃダメよ?」 セシリアが優しく頭を撫でると、エミーナは「はっ! 寝てません、起きてますぅ……!」と慌てて目をこすり、その可愛らしい仕草に一同の笑みがこぼれた。
灯りは絶やされず、炎は衰えることなく、明るくあたたかな光が天幕の中を照らし続ける。 旧年中の悲しみや戦火の恐怖、失ったものへの哀愁――それらすべての「去り行く過去」に別れを告げるように、五人は火を見つめ、静かに祈りを捧げた。
◇
やがて――。
天幕の隙間から差し込む風の冷たさが、わずかに和らいだ。 東の空が少しずつ薄紫から茜色へと染まり始め、闇が静かに引いていく。
「……リゼリア様。夜が明けます」
ロゼッタの静かな声に、全員が立ち上がり、天幕の幕をそっと押し開けた。
そこには、白銀に輝く積雪と、地平線からゆっくりと昇る神々しい新年の初日の出が広がっていた。 赤々と燃え続けた囲炉裏の火と、天幕を満たしていた灯りは、最後まで一度も消えることなく、新しい朝の光へと見事に受け渡されたのだった。
藩地のあちこちから、「おめでとう!」「朝だ! 新しい年だ!」という民たちの歓声が上がり始める。
「明けたわね……新しい年が」
リゼリアが初日の出を浴びながら、凛とした声で呟いた。
セシリアはエミーナと手を取り合い、眩しい太陽に向かって大きく手を伸ばした。
「旧年さん、さようなら! 新しい一年、いらっしゃい!」
「福がいっぱいの一年になりますようにっ!」
ナデットもロゼッタも、初日の出の光の中で、穏やかで美しい笑みを浮かべていた。
一晩中、火を絶やさずに夜明かしをした一族の「守歳」。 去り行く苦難の年に感謝と別れを告げ、消えぬ灯りと共に祈り待った新年の福は、今、確かな光となって、アルヴェリア親王家の乙女たちとアンチルマの民を、温かく包み込んでいくのであった。




