オーレリア外伝『アンチルマ避難民藩地』その9
帝国歴303年12月――。
舞い散る粉雪が「アンチルマ避難民藩地」の天幕群を白く染め上げ、本格的な冬の到来を告げていた。
10月の「防寒具と温泉の奇跡」、そして11月の「異能の義賊作戦」を経て、極限の危機に瀕していた避難民たちの暮らしは奇跡的なほどの安定を見せていた。寒波の中で凍える者はおらず、悪徳商人に脅かされることもない。しかし、年の瀬が差し迫る中、アルヴェリア親王妃リゼリアの眼差しには、また新たな「慈愛の企み」が宿っていた。
「もうすぐ新年ね。戦火に追われ、厳しい冬を迎える民たちに……一年の邪気を払い、無病息災を願う『椒柏酒』を振る舞いましょう」
本陣の広々とした木造天幕の中、リゼリアは集まった面々を見渡して微笑んだ。
そこに集っていたのは、リゼリア、セシリア、ベルナデット、ロゼッタ、エミーナ。 リヴィエール一族の血を引く、美しくも常識外れの秘術を秘めた乙女たちである。
椒柏酒とは、山椒の実と側柏の葉を上質なお酒に漬け込み、薬草の効能と清廉な香りを移した伝統的な祝い酒である。邪気を払い、飲む者の寿命を延ばすと伝えられる縁起物だが、数万人の避難民全員に行き渡らせるとなれば、その仕込みの規模はまさに途方もない。
「まあ! 椒柏酒ですか! とっても素敵ですぅ!」 エミーナがぽんと手を叩き、可愛らしく目を輝かせた。 「甘酸っぱくて、ピリッとした香りがして……飲むと身体の芯からポカポカ温まりますよねぇ!」
「ですがセシリア様、エミーナ」 黒髪の侍女ロゼッタが、静かな声で現実的な課題を口にする。 「藩地の人口は数万人規模。一人あたり盃に一杯ずつ配るとしても、必要な酒の量は数十樽、山椒の実と側柏の葉に至っては、数kg単位の膨大な量が必要となります。現在の藩地の備蓄には、薬草酒の材料など一滴も存在しません」
「ふふっ、ロゼッタったら、またそんな固いことを言っているの?」
セシリアがポンと胸を張り、得意げに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「私たちに『準備できないもの』なんてないじゃない! 材料の調達も、熟成の工程も……いつもの『お茶目な裏工作』で完璧に解決しちゃうわよ!」
「お止めください、セシリア様」 侍女ベルナデット――「無慈悲のナデット」が、眼鏡の奥の目を光らせて淡々と割り込んだ。 「出所不明の薬草酒が数十樽も一夜にして天幕の中に現れれば、さすがに怪しまれます。今回は『仕込みの工程』だけは民の前で手作業で行っているように見せかけ、調達と熟成の時間を異能で極限まで圧縮するのが、最も合理的かつ自然なカモフラージュです」
「なるほど! ナデット様の言う通りね!」 リゼリアは満足そうに頷き、全員に指示を出した。 「それじゃあみんな、非公開の特設天幕で、椒柏酒の極秘仕込みを開始しましょう!」
「「「はいっ!」」」
◇
特設天幕の中には、セシリアたちの異能によって、どこからともなく運び込まれた大量の空の酒樽と、清らかな湧き水、そして清酒の原料となる米や麹がうずたかく積み上げられていた。
まずは、最も重要な薬草の調達である。 山椒の実は完熟した芳醇な香りのもの、側柏の葉は東方の青々とした新鮮な枝葉でなければならない。
「さあ、エミーナ! 一番いい山椒と側柏を引き寄せるわよ!」
「はいっ、セシリア様! 空間調達、発動ですぅ!」
セシリアとエミーナが揃って空中に手をかざすと、天幕内の空間が微かに歪み、黄金色の光の気泡が弾けた。次の瞬間、空中にざあっと色鮮やかな山椒の赤い実と、瑞々しい側柏の緑の葉が降り注ぎ、大きな竹籠いっぱいに収められた。
「わぁ……! すごい、とっても良い香りがしますぅ!」 エミーナが目を細め、山椒のピリッとした甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。
「次は選別と乾燥ね!」 セシリアが指先を鳴らすと、微小な熱と風の微操作により、湿気を帯びていた薬草が一瞬で均一に乾燥し、極上の薬味へと姿を変えた。
その横では、ロゼッタが「千里眼」を全開にし、天幕の外の様子を完璧に監視している。 「……周囲100メートル以内に巡回兵なし。藩地の民たちも、天幕の中で暖をとっています。異能の反応、外部への漏洩なし。作業を継続してください」
「手際が良いですね」 ナデットは手元の木札にペンを走らせ、仕込みの進行状況をチェックしていく。 「主原料となる上質な清酒数十樽。セシリア様の空間調達により、帝国の遠方にある名醸造元の貯蔵庫から『代金(先日の義賊作戦で得た金貨)を正当に置いてくる』形で一括買い付け・移送完了。品質、アルコール度数ともに最高級品です」
「よし! 材料はすべて揃ったわね!」
セシリア、リゼリア、エミーナの三人は袖を捲り上げ、大きな木樽の前に立った。ここからの「仕上げの刻印」だけは、彼女たち自身の腕と真心で行うのが親王家の決まりである。
乾燥させた山椒の実と側柏の葉を、丁寧に布袋へと詰めていく。
「民のみんなが、来年は病気や怪我に苦しみませんように……」 エミーナが願いを込めながら、結び目をキュッと縛る。
「戦火が収まり、穏やかな日々が戻ってきますように……」 セシリアも真剣な面持ちで、酒樽の中へとその薬草袋を静かに沈めた。
リゼリアは優しく目を細め、樽の中に並々と注がれた清らかな酒を見つめた。 「みんなの想いが、この酒にしっかりと宿るわね」
そして、最後にして最大の超常工程――「熟成」である。 本来であれば、椒柏酒は薬味を漬け込んでから数週間から数か月ほどじっくりと時間を置き、角を落として薬効を抽出させなければならない。しかし、新年まではあとわずか数日しかないのだ。
「セシリア、エミーナ。時間干渉の微小展開を」
「お任せください、リゼリアお姉様!」
セシリアとエミーナが樽を挟むように手を合わせ、リヴィエール一族の秘術を解放した。 二人の掌から放たれた淡い紫色の光線が、数十樽の酒樽を包み込む。樽の中の時間だけが極限まで加速され、刻一刻と月日が流れていく――。
樽の中から、「とくとく……」という清涼な音が響き、山椒の黄金色と側柏の爽やかな風味が、見る見るうちに酒へと溶け出していった。
わずか数分後。 ふたを外すと、そこには熟成を極めた完璧な「椒柏酒」が完成していた。 山椒のピリッとした爽快な香りと、側柏の清々しい樹木の香り、そして芳醇な酒の甘みが完璧に調和した、神酒とも言える逸品である。
「……ん」 ロゼッタが柄杓でほんのひとすくいし、小さく毒味をした。 「……素晴らしい出来です。一口含んだだけで、全身の血の巡りが良くなり、指先まで温かくなります。これなら、寒さに震える避難民の体力を劇的に回復させることができるでしょう」
「大成功ね!」 セシリアとエミーナは顔を見合わせ、嬉しそうに手を繋いでくるくると回った。




