第81章『枯れない泥の花』
帝国歴303年、12月。
東方の島国ノバージェとの海戦や、古都アンチアルマのブランカ・オデュヌ、そしてグラッディとの血腥い大戦がひとまずの沈静を見せ、帝都オクタヴィアは久方ぶりの平穏に包まれていた。戦勝の最高立役者たるアルヴェリア親王イリアードが辺境ボルゲーゼとアクスアルブを見事に奪還し、祝勝ムードと安堵感は、今なお市井の各所に色濃く残っている。
しかし、表舞台の喧騒がどうあれ、帝国の心臓部たる宮廷の「後宮」を満たす張り詰めた冷気と濃密な権力闘争の香りが薄れることはない。
後宮の最奥、見事な白磁のテーブルが設えられた東屋では、後宮の最高権力者である太皇太后アデレードを筆頭に、シュタインベルク家の血を引く錚々たる宮廷の主人たちが顔を揃えていた。漆黒と紫の豪奢な衣装を纏ったアデレードは、厳格な眼光で周囲を睥睨し、その傍らには彼女の姪であり皇帝アラリックの母でもある皇太后ジュリエット、そしてその娘である現皇后ロザリアが気高く佇んでいる。
この三代にわたるシュタインベルク家の女たちが支配する空間に、色とりどりの華麗な衣装に身を包んだ側室たち――貴妃、淑妃、徳妃、賢妃といった上級の妃から、昭儀、昭容、修儀、充華、さらには婕妤や美人に至るまで、後宮の位階を構成する妃嬪たちが一堂に会していた。
「それにしても、アルヴェリア親王妃殿下とあの側室セシリアは、未だに辺境の泥地に引き籠もって避難民の救済などという『泥弄り』に精を出していらっしゃるそうですわね」
ふと静寂を破ったのは、豪奢な絹のドレスを揺らした貴妃の涼やかな声だった。彼女は目の前の上質な茶を口に含み、侮蔑の混じった笑みを浮かべる。
「フェルゼンヴァルデン砦でしたかしら、それともアンチルマ避難民藩地でしたか。戦火に追われた薄汚い民を相手に、親王の正妻と側室が揃って炊き出しとは、相変わらず高貴な身分に相応しくない野卑な振る舞いですこと」
その言葉に、隣に座る淑妃が調子を合わせるように上品な扇で口元を隠した。
「ええ、本当に。先だって帝都のお茶会にリゼリア殿下が顔を出された折、我が物顔でソルトラグーンの極上の塩などという『泥の産物』を献上してまいりましたけれど……あの時の無礼、思い出すだけでも不愉快ですわ。何が『泥があるからこそ美しい蓮の花が咲く』ですか。宮廷の何たるかも解さぬ辺境の育ちが、口先だけで太皇太后陛下に言い返すなど、身の程知らずにも程があります」
妃嬪たちの間でクスクスと忍び笑いが広がる。彼女たちの視線は自然と、最上座に君臨する太皇太后アデレードへと集まった。アデレードは、かつてリゼリアの背後に控えていた侍女(セシリアの変装)の不可解な「悪戯」によって愛用の扇を壊され、角砂糖を袖口に滑り落とされた屈辱の記憶を呼び覚まされたのか、その厳格な目元を僅かに険しくした。
「……ふん。相変わらず辺境の者たちは教育が行き届かぬと見える。イリアードがどれほど戦功を挙げようとも、泥水の上に建てた城は所詮泥の城。根無し草の繁栄など一瞬の夢に過ぎないということを、あの女たちは未だ理解しておらんようですね」
アデレードの重々しい声が響くと、その場にいた妃嬪たちは一斉に姿勢を正し、深く頭を垂れた。
その様子を満足げに見つめていた皇后ロザリアが、真っ白な高級ドレスの胸元を優雅に撫でながら口を開く。かつてセシリアの【念動】によって赤ワインを浴び、完璧に染め上げられたあのドレスはとうに処分したものの、受けた屈辱の傷は今なおロザリアの胸に深く刻まれている。
「お祖母様の仰る通りでございます。夫のイリアード親王が『黄金の獅子剣』を授かり、帝国全軍の指揮権を握っているからといって、正妻も側室も調子に乗りすぎなのです。過剰な功績は時に誤解を招くもの。あの泥地で育った卑しい民や避難民どもを煽動し、よからぬ過度な野望を抱いていなければ良いのですが……」
ロザリアの言葉には、明確な牽制と敵意が満ちていた。
その時、これまで黙って茶を啜っていた徳妃が、少し困ったような笑みを浮かべて発言した。
「ですが、皇后陛下。イリアード殿下は前皇太子イザーク様亡き後、皇帝アラリック陛下の異母弟として常に辺境の防人を務めておられます。先のボルゲーゼとアクスアルブの奪還も、殿下の軍略があればこそ。その留守を守る親王妃たちが民の救済を行うのは、ある意味で親王府の忠誠の表れとも取れるのではないでしょうか」
「忠誠、ですか?」
皇太后ジュリエットが、徳妃の言葉を冷ややかに遮った。ジュリエットはシュタインベルク家の出身であり、その誇りは人一倍強い。彼女にとって、かつて前皇帝の寵愛を一身に受けた、身分の低い側室フレデリカ――すなわちイリアードの母親の存在は、今なお許しがたい汚点であった。
「徳妃、あなたは優しすぎるのか、それとも世間知らずが過ぎるのかしら。あのイリアードの母親であるフレデリカが、かつてどのような手を使って前皇帝陛下に取り入ったか、忘れたわけではありますまい? 身分が低いというだけの卑しい血筋でありながら、狐のように宮廷を惑わせた女の息子なのです。その息子が娶った正妻リゼリアと、側室セシリアとやらも、どのような邪心を隠し持っているか分かったものではありませんわ」
ジュリエットの言葉に、後宮の妃嬪たちは息を呑んだ。彼女たちが直接目にしたわけではないが、戦場にまで出向いて活躍する二人を宮廷の者たちはそれをただの「功績」や「奇跡」として処理しているが、本能的な恐怖と警戒感は拭いきれていない。
「確かに……」と、それまで大人しくしていた賢妃が囁くように言った。
「あのリゼリア殿下の瞳に見つめられると、まるで己の心の奥底まで見透かされているような、奇妙な錯覚を覚えることがございます。あれがもし、辺境の妖術の類なのだとしたら、恐ろしいことですわ……」
「馬鹿馬鹿しい」
ロザリアが鼻で笑った。
「妖術などと、大袈裟な。ただの不気味な女というだけに過ぎません。それよりも問題なのは、彼女たちがフェルゼンヴァルデン砦で集めているという『民衆の支持』です。避難民を救済し、彼らに恩を売ることで、アルヴェリア親王府は独自の勢力を築こうとしているのではないかしら」
その言葉に、中級の妃嬪である昭儀や昭容たちも顔を見合わせ、不安げな表情を浮かべる。
「もしそうなれば、帝都の平穏が脅かされることも……」
「三公である司徒リヒャルト様や、尚書令ジョバンニ様といったシュタインベルク家の重鎮たちも、この動きには警戒を強めていらっしゃると聞きますわ」
後宮の妃嬪たちの会話は、単なる女の嫉妬や陰口の域を超え、帝国を二分しかねない政治的な権力闘争の様相を呈し始めていた。シュタインベルク家という巨大な門閥貴族の血を引く者たちにとって、辺境で圧倒的な武功を挙げ、民衆の絶大な支持を得つつあるアルヴェリア親王府は、目の上のコブ以外の何物でもないのだ。
その様子を静かに見守っていたアデレードは、手にした新しい扇をゆっくりと開いた。
「騒ぐことはありません、ロザリア、ジュリエット。そして妃嬪たちよ。どれほど泥の中で蠢こうとも、所詮は辺境の僻地。この帝都オクタヴィアの、そして我がシュタインベルク家が築き上げた帝国の礎は、そう簡単に揺らぐものではありません」
アデレードの毅然とした一言で、ざわついていた東屋は一瞬にして静まり返った。最高権力者の威厳は、やはり伊達ではない。
「……ですが、お祖母様」とロザリアはなおも食い下がった。
「もし、あのリゼリアとセシリアが、再びこの帝都に現れたら? その時も私たちは、ただ静観しているだけでよろしいのですか?」
アデレードは冷酷な微笑を浮かべ、茶を一口含むと、静かに言い放った。
「その時は、後宮の本当の恐ろしさを教えてやるまでです。礼儀も分からぬ泥地の者たちに、宮廷の秩序というものがどれほど厳格で、冷徹なものであるかをね」
その言葉の裏には、アルヴェリア親王府に対する絶対的な排除の意志が込められていた。
一方、その頃。
帝都の妃嬪たちが怨嗟と陰謀の言葉を交わしているとは露知らず(あるいは、完全に予知していたかもしれないが)、遙か遠くのフェルゼンヴァルデン砦では、夕暮れの柔らかな光の中で二人の美しい女性が並んで歩いていた。
「――はくしゅん!」
セシリアが可愛らしく小さなくしゃみをして、侍女服の袖で鼻を押さえた。
「あら、セシリア、風邪かしら? 肩の力を抜いて、無理をしないでね」
正妻のリゼリアが、その特有の優しい微笑みを浮かべながら尋ねる。
「いいえ、リゼリア様。風邪ではございませんわ。なんだか、帝都の『狸ども』が、私たちの噂をして悪口でも言っているような気がしただけです」
セシリアは不敵に笑い、その隠された【念動】の力で、近くの地面に落ちていた小石をふわりと浮かせて見せた。
「ふふ、またそんなことを。でも、私たちがこの地で避難民の皆さんと共に生き、戦火で傷ついた民を救っている限り、帝都の華やかな後宮にいる方々には、決して私たちの本当の『強さ』は理解できないでしょうね」
リゼリアの「透視」と「未来予知」の瞳には、これから訪れるであろう激動の未来と、それを二人で乗り越えていく確固たる絆の光が映っていた。
「ええ、その通りですわ、お姉様。私たちの能力も、この絆も、誰にも渡しません。アルヴェリアを守るために、もっと強くなりましょう」
二人の声に出さない笑い声が、辺境の夕暮れの空に温かく響き渡っていた。帝都の後宮がどれほどの陰謀を巡らせようとも、泥の中から咲く美しい蓮の花が枯れることは決してないのだから。




