第80章『生き延びるための糧』
帝国歴303年12月、古都アンチアルマ。
背後の補給線であったボルゲーゼ領とアクスアルブを、アルヴェリア親王イリアードの手によって電撃的な無血開城で奪い返されたブランガ・オデュヌは、自らが完璧な「籠の鳥」となった現実と対峙していた。
雪がしんしんと降り積もる旧太守邸の執務室で、ブランガは冷え切った地図を睨みつけていた。前後を絶たれたこの古都で春を迎えれば、西から復讐に怒りを爆発させたグラッデェの怒濤の鉄騎と真っ向から激突することになる。イリアードと皇帝アラリックは、自分をグラッデェの戦力を削るための「肉の壁」としてこの地に孤立させたのだ。
「打って出ることもできず、ただ春の地獄を待つのみか……」
ブランガが低く苦々しい溜息を漏らしたその時、急報を告げる荒々しい足音が廊下に響き渡った。
「ブランガ様! 東のフェルゼンヴァルデン砦方面より、謎の補給部隊が到着いたしました!」
「なに……? 補給部隊だと?」
ブランガは眉をひそめた。イリアードの手によって完全に封鎖されたはずの補給路である。いまさら帝国軍が自分たちに物資を届ける理由などどこにもない。
「敵の襲撃か? 偽装した奇襲部隊か!?」
「いえ……それが、交戦の意図は皆無にございます。我が軍の警戒線をすんなりと通過し、大量の物資を城門前に下ろすと、あっという間に撤収していきました。残された荷の山には、差出人の書状が添えられております……」
報告に上がった側近の手は、寒さからか、それとも恐怖からか微かに震えていた。
ブランガは外套を羽織ると、重々しい足取りで城門前へと向かった。
吹雪く広場には、見渡す限りの物資の箱が積み上げられていた。整然と並べられた木箱の群れは、飢えに怯え始めていたアンチアルマの兵士たちにとってみれば莫大な糧食の山であった。
「これは……なんだ」
ブランガが力任せに箱の一つを剣の柄で壊すと、中から現れたのは白く乾いた大量の塊であった。
「……乾燥蓮根、にございます」
側近が緊張した面持ちで告げた。
それは、アルヴェリア領で大量に生産され、非常食用に高度な乾燥加工が施された特殊な保存食であった。アルヴェリア領の軍旗に描かれた「清廉なる蓮の花」——その地を象徴する産物そのものだった。水に戻せば長期間の籠城に耐えうる莫大な量の食料。
孤立無援のブランガ軍にとって、本来であれば涙を流して喜ぶべき命の綱である。しかし、その箱の上に置かれた一通の美しい書状を目にした瞬間、ブランガの顔からは血の気が引いた。
書状の末尾に捺された二つの印章と、記された称号。それを見たブランガは、戦慄とともに自らがさらなる底なしの策略の中にいることを悟った。
差出人の名は——『水鏡将軍』リゼリア、ならびに『水明将軍』セシリア。
「水鏡……水明だと……!?」
ブランガの口から掠れた声が漏れた。
その二つの称号は、かつての数々の目覚ましい戦功により、親王妃リゼリアとその妹セシリアに下賜された帝国最高の特権称号であった。
『水鏡』『水明』の称号を持つ者は、帝国の危機に際して、いつでも帝国正規軍から五千の兵を無条件で借り受け、直接指揮する権限を持つ。
だが、この称号の真の恐ろしさはそこではなかった。
『黄金の獅子剣』を携えるアルヴェリア親王イリアードが、万が一不測の事態や過酷な戦況に陥った際、この二人はその「代理」を務めることが法的に認められているのだ。
黄金の獅子剣の代理——それは即ち、皇帝アラリックの直命と同等であり、帝国軍全軍の最高指揮権を握ることを意味していた。
フェルゼンヴァルデン砦に留まり、「遠見の眼」で戦局のすべてを見通すリゼリア。そして彼女とともに最高指揮権の代理資格を保持するセシリア。この二人の女性の手の中に、すでに帝国全軍の命運と権限が握られていたのだ。
イリアードが南下してボルゲーゼとアクスアルブを奪還したのも、リゼリアが砦から盤面全体をコントロールしていたからに他ならない。
ブランガの手が激しく震えた。
彼は震える指先で書状を開いた。そこには、女性らしい流麗で気品に満ちた文字で、たった一行だけ、残酷なメッセージが記されていた。
——『貴公らの健闘を祈る』
「……ッ!!」
静かな文字から放たれる、圧倒的な見下しと冷酷な嘲笑。
それは、「貴様らの企みも、あがきも、すべて私たちの掌の上だ。この食料を食んで、春までせいぜい生き延び、グラッデェ相手に泥を啜って戦うがいい」という無言の宣告であった。
「……ふざけるな……ふざけるなよッ!!」
ブランガの胸中で、猛烈な屈辱と怒りが火山のように噴出した。
自分はグラッデェの猛攻を退け、この古都アンチアルマを奪還した英傑のはずだった。帝国の覇権を握るべく動いていたはずだった。それがどうだ。今やフェルゼンヴァルデン砦に鎮座する二人の女から、哀れみと蔑みとともに「餌」を投げ与えられているのだ。
自分たちが生き延びるための食料すら、敵であるはずのアルヴェリアから与えられたという屈辱。しかもそれを食べなければ、春を待たずして兵が飢え死にし、グラッデェと戦うことすらできずに滅びるという事実。
「俺を……俺たちをここまで小馬鹿にしおって……!」
ブランガは書状を力任せに破り捨てると、怒りに身を震わせ、腰の剣を激しく抜き放った。
「リゼリア……! セシリア……! イリアードォッ!!」
咆哮が、冬のアンチアルマの城門前に空しく響き渡る。
兵士たちは沈黙し、積まれた乾燥蓮根の山と、狂乱する将軍の姿をただ青ざめた顔で見つめていた。与えられた食料は命の糧であるが、同時にそれは、彼らが二度とこの罠から抜け出せないことを告げる絶望の鎖でもあった。
破り捨てられた紙切れが、北風に乗って舞い上がる。
フェルゼンヴァルデン砦の『水鏡』と『水明』——最高指揮権を背負う二人の女将軍が見つめる眼下で、孤立した野獣ブランガ・オデュヌは、与えられた餌を喰らいながら、来たるべき地獄の春へと引きずり込まれていくのだった




