第79章『孤立無援と魔王の叫び』
帝国歴303年12月、古都アンチアルマ。
かつて帝国の美しき文化と繁栄の象徴であったこの街は、冬の冷気と重苦しい静寂に包まれていた。春に騎馬民族グラッデェの侵攻を受け、一度、陥落したこの古都を晩秋に奪還した男——ブランガ・オデュヌは、旧太守邸の執務室の窓辺に立ち、白く霞む街並みを見下ろしていた。
寒風が窓枠を叩く音が、部屋の沈黙をより一層際立たせる。
「……静かすぎるな」
ブランガが低く呟いた。その声には、武将特有の野性と、長年の死線を潜り抜けてきた者だけが持つ鋭敏な警戒心が滲んでいた。
アクスアルブの占拠に始まり、夏には僅か四千の手勢でグラッデェの先鋒三万を散らし、秋には一万一千で十万の猛攻を退け、ついにこのアンチアルマを取り戻した。自らの武名と率いる軍勢の精悍さには絶対の自信がある。しかし、その胸の内に渦巻く胸騒ぎだけは消えなかった。
重々しいドアのノック音が響き、側近の部下が部屋へと滑り込んできた。その顔色は、外の雪よりも蒼白であった。
「ブランガ様! 密偵より急報にございます!」
「どうした。帝都からの返答でも届いたか?」
ブランガは振り向くことなく問いかけた。帝都オクタヴィアの若き皇帝アラリック、そして権謀術数に長けた老臣たち——彼らが自分を「親王殺しの大逆人」として討伐してくるか、それとも現実を受け入れてアンチアルマの太守として追認してくるか。ブランガはその連絡を待っていたはずだった。
だが、側近からもたらされた言葉は、彼のあらゆる予測を嘲笑うものだった。
「フェルゼンヴァルデン砦のイリアード親王率いる帝国軍十三万……そのうちの十万が、寒さを突いて突如として南下を開始してありました!」
「……何だと?」
ブランガの眉根が跳ね上がった。
「十万が南下? フェルゼンヴァルデン砦を捨ててか? 馬鹿な、グラッデェの残党への備えはどうするのだ。それに、我らのいるアンチアルマへ向けた進軍か?」
「いえ……それが……!」 側近は声を発震わせながら、恐ろしい事実を口にした。
「イリアード軍の標的は、アンチアルマではございません。奴らは凄まじい速度で我が軍の背後へ回り込み、北西に進路を変えボルゲーゼ領を奪取、そして半数はそこから南へ向かいアクスアルブおよびその周辺都市へと侵攻いたしました!」
「なに……!?」
ブランガは勢いよく振り返り、卓上の地図に視線を叩きつけた。
「交戦の報告は!? ボルゲーゼの守備隊は何をしている! なぜ抗戦の報が届かん!」
「……それが……交戦は一切行われておりませぬ。イリアード親王の手には、全軍の軍権の象徴たる『黄金の獅子剣』が握られていたとのこと……。さらには圧倒的な兵力差と電撃的な展開の前に、ボルゲーゼもアクスアルブも、すべての都市が一切の血を流すことなく……無血開城いたしました」
言葉を失うブランガの頭上で、巨大な罠の歯車が合致したような鈍い音が響いた。
「無血開城……だと……?」
ブランガの手が、地図上のボルゲーゼとアクスアルブを強く押し潰した。
完璧な作戦だったはずだ。この冬の間、アンチアルマで軍を再編し、帝都の文官どもが「恭順か討伐か」で足踏みしている隙を突く。そして春の訪れとともに東の2つの砦を落とし、帝都オクタヴィア完全に手中に収め、自らの絶対的な領土を確立する——それがブランガの描いた覇道の筋書きだった。
だが、すべては覆った。
イリアードは春を待たなかった。ブランガが古都アンチアルマの攻略の際に10万の兵を電撃的に背後に動かしていたのである。彼らがフェルゼンヴァルデンで静観を決め込んでいる様に見えたのはその為であったのだ。そしてブランガが手中に収めていたはずのボルゲーゼとアクスアルブを、瞬く間に、完璧な形で奪還してみせたのだった。
「奴らは……最初から狙っていたというのか。俺がここに来るという事を……」
戦慄がブランガの背筋を走り抜けた。 背後の補給線であり、退路でもあったアクスアルブとボルゲーゼが落ちた。それは即ち、自分たちがここアンチアルマという「孤島」に完全に閉じ込められたことを意味していた。
前後を塞がれたのではない。西には撤退したグラッデェ、そして南と東にはイリアードの帝国大軍。
「……待て」
ブランガの脳裏に、更なる恐ろしい疑念が浮かび上がった。
イリアードはなぜ、十三万のうち十万もの大軍を南下させることができたのか? フェルゼンヴァルデン砦に遺された三万の兵だけで、もしグラッデェが再来したらどうするつもりなのか?
「まさか……グラッデェの動きすら、奴らは掴んでいるというのか……?」
その問いに答える者は、この室内にはいなかった。
遠くフェルゼンヴァルデン砦に留まる親王妃リゼリアが、その「遠見の眼」で三十五万のグラッデェ本隊の動きを見抜き、イリアードと皇帝アラリックがその前提の下で盤面を組んでいたなど、ブランガに知る術もない。
だが、武将としての直感が、自らが置かれた真の絶望を告げていた。
「俺を……壁にするつもりか」
ブランガの口から、乾いた掠れ声が漏れた。
イリアード軍はアンチアルマを直接攻撃しに来ない。ただ、補給を断ち、この街に留まらせる。そして雪解けの春、三十五万という膨大な残存戦力を率いて必ずや再侵攻してくるであろうグラッデェの怒涛の鉄騎——その最前線に、自分たちを「肉の壁」として放置する気なのだ。
「皇帝アラリック……イリアード……! 貴様ら、最初からこの俺を、グラッデェを削るための捨て駒として……!」
卓上の地図が、ブランガの握りしめた拳によって引き裂かれた。
帝都の宮廷で繰り広げられていた議論の数々は、すべて自分たちの目を逸らし、この孤立状態を完成させるための大芝居だったのだ。まんまと嵌められた。虎を狩るための檻に、自ら入ってしまったのだ。
「ブランガ様! いかがいたしますか! 今すぐ全軍を率いてアクスアルブへ打って出ますか!?」
動転する側近の声に、ブランガは深呼吸を一つし、殺気を含んだ眼光で彼を睨みつけた。
「無駄だ。十万の手勢で完璧に囲まれた陣地に、この攻城戦で疲弊した軍で突撃してみろ。全滅するだけだ」
ブランガはゆっくりと身を起こし、腰の剣の柄に手を置いた。
敗北感と屈辱、そしてそれを上回る猛烈な闘志が、彼の胸中で黒い炎となって燃え上がった。
「イリアードめ……黄金の獅子剣を掲げて帝王気取りか。帝国の狐どもが、俺を盤上の駒として扱いきれると思うなよ」
窓の外、古都アンチアルマに降り注ぐ雪が強まっていく。 春になれば、この街にはグラッデェ三十五万の鉄騎が押し寄せる。逃げ場はない。帝国軍による救助もない。待っているのは、地獄のような死闘だけだ。
だが、ブランガ・オデュヌはまだ死んでいなかった。
「伝えよ、全軍に。冬の間に城壁を固め、糧食を極限まで節約せよ。春が来れば……地獄が来る」
ブランガは不敵な笑みを口元に浮かべた。
「グラッデェの三十五万とて、俺の首を容易く取れると思うな。そしてイリアード……貴様らが仕掛けたこの毒杯、ただでは飲み干さん。グラッデェもろとも、貴様らの帝国そのものを道連れにしてくれるわ」
冷酷な嵐の中、孤立無援の古都アンチアルマで、追い詰められた一頭の野獣が、来たるべき壮絶な春に向けて静かに爪を研ぎ始めていた。




