第78章『アクスアルブの無血開城』
帝都オクタヴィアの「大理石の玉座の間」で繰り広げられた緊迫した談議は、老練な政治家たちの思惑が交錯する中で、皇帝アラリックが演じた大芝居であった。
若き皇帝が見せた苛立ちや躊躇、そして諸侯の提案に深く頷いてみせた態度の多くは、宮廷内に潜む内通者や諸侯の目を欺くための緻密な演劇に過ぎない。
真の実情は、すでにふた月前に決せられていたのだ。
——同年10月、アンチアルマ避難民藩地。
復興に揺れる避難民キャンプの天幕の裏で、皇帝アラリックと異母弟であるアルヴェリア親王イリアードは密かに膝を交えていた。帝国の未来を背負う若き兄弟は、ブランガ・オデュヌという脅威の真価と、その背後に潜む絶望的な現実を見抜いていたのである。
その話し合いの場で、アラリックは燦然と輝く宝剣を、再び弟へと手渡した。アラリックは二年前に弟へ賜与していた剣である。帝国軍全軍に対する絶対的な軍権の象徴——『黄金の獅子剣』。それこそが、二人の固い信頼と密約の証であった。
「兄上、宮廷の老狐たちに悟られてはなりませぬ」
イリアードは冷ややかな、しかし確信に満ちた眼差しで言った。
「ブランガ・オデュヌの狙いは単なる領土の占拠ではない。奴はこの帝国そのものを狙っているのです」
「ブランガはグラッデェを追い払った英雄気取りだが、親王イザークを殺した大逆人だ」
アラリックは続けた。
「奴を生かしておけば帝国の根幹が腐る。……だが、本当に10万を動かすのか? フェルゼンヴァルデン砦を空にすれば、西からの守りが薄くなるのではないか?」
その問いに対し、イリアードは静かに首を振った。 彼がここまで強気な策を展開できる最大の根拠は、妻リゼリアの存在にあった。彼女は古の血筋を引く異能の持ち主であり、千里の先を見通す「遠見の眼」と「魂の潮流を読む力」を有していた。
「グラッデェの全貌は、まだ潰れておりませぬ」
事前にリゼリアからもたらされた言葉を、イリアードは兄に伝えた。
「退却したグラッデェは、本国になお三十五万もの膨大な軍勢を残しております。猛冬を越すために一時身を引いたに過ぎません」
三十五万——帝国の斥候すら把握し得なかったその途方ない数字を掴んでいたからこそ、兄弟の決断は早かった。
「ならば、ブランガをただ叩くだけでは足りぬな」
「左様です。だからこそ、我が軍は春を待ちません。寒さが厳しくなる前に行動を起こします」
計画はこうだ。 11月を待たずしてイリアードは全軍を統率し、フェルゼンヴァルデン砦に最小限の守備兵三万を残して、自ら十万の大軍を率い電撃的に南下する。
そこから進路を北西に変えてボルゲーゼを奪取する。その後、半数は南下してアクスアルブを掌握する手はずである。
妻リゼリアは、安全かつ戦略の要衝であるフェルゼンヴァルデン砦に留まる。
その異能の力で戦況とグラッデェの動向を千里の彼方から監視・指揮支援する。
◇
……そして現在、12月。
帝都の宮廷で三公や諸侯が「ブランガを追認すべきか、討伐すべきか」と呑気な議論を重ねている頃、極寒の南西部ではすでに結末が訪れていた。
イリアード率いる十万の軍勢は、疾風のごとき速度で南下後、北上してブランガ・オデュヌが本格的な防備を固める間もなく、圧倒的な軍勢と「黄金の獅子剣」の威光を背景に、ボルゲーゼ領およびアクスアルブ、そして周辺都市へと怒濤のごとく迫った。
その圧倒的な展開速度と威圧の前に、各都市の守備隊や領民は戦う術を持たず、一切の血を流すことなく次々と陣門を開いた。
元々帝国の民であり、帝国軍の兵達である。
彼らが反乱を起こして帝国と決別を望んでいた訳ではなかったのだ。
「黄金の獅子剣」の威光はむしろ、反抗よりも歓迎の意思を巻き起こしたのであった。
「報告! ボルゲーゼ、アクスアルブ、双方ともに無血開城! 我が軍、完全に両地を奪還いたしました!」
急報を受けたイリアードは、奪還したボルゲーゼの陣中で冷たく口元をほころばせた。腰に差した『黄金の獅子剣』の金色の柄に手を置き、北東のアンチアルマを見やる。
帝都のアラリックが演じた「決断を欠く若き皇帝」の虚像に誰もが目を奪われている隙に、イリアードの作戦は完璧に完遂されたのだ。
いまや、春を待って東進し、帝都オクタヴィアを手中に収めるつもりであった、ブランガ・オデュヌは、ボルゲーゼとアクスアルブの双方を奪い返され、古都アンチアルマの中で完全に孤立していた。自らの陥路にすら気づかぬまま。
フェルゼンヴァルデン砦に留まるリゼリアからは、異能の伝達を通じて静かな声がイリアードの心に届く。
『……イリアード様。アンチアルマのブランガ軍は退路を絶たれ、完全に籠の中の鳥となりました。そして西の果て、グラッデェの三十五万もまた、雪解けとともに動く気配を見せています』
「よくやってくれた、リゼリア」
イリアードは心の中で妻に感謝を告げ、冷徹な将軍の顔に戻った。
「哀れな男だ、ブランガ・オデュヌ。自分が帝国に対し主導権を握ったと錯覚していたようだが、貴様はすでに盤上の駒に過ぎん」
狙い通り、孤立したブランガはアンチアルマで足止めされた。 来春、融雪とともに怒涛のごとく再攻勢をかけてくるグラッデェ三十五万の大軍。その恐ろしい鉄騎の嵐と最初に激突し、肉の壁となって削り合わされるのは、アンチアルマのブランガ軍である。
毒をもって毒を制す。 大逆人ブランガにグラッデェの猛攻を受け止めさせ、相打ちに持ち込むための舞台は整った。
「兄上、帝都の狸どもをうまく騙し続けてください」
イリアードは『黄金の獅子剣』を硬く握り締め、冬の澄んだ空を仰いだ。




