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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴303年
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第77章『帝都オクタヴィアの木枯らし』

帝国歴303年12月。


北からの烈風が帝都オクタヴィアの白亜の城壁を叩き、重厚な石造りの宮殿「大理石の玉座の間」には、重苦しい静寂が満ちていた。高天窓から差し込む冬の薄光が、床に敷き詰められた深紅の絨毯と、居並ぶ権力者たちの影を長く引き伸ばしている。


玉座に鎮座するのは、弱冠二十六歳の若き皇帝アラリック。その彫像のように整った容貌には、年若き支配者特有の硬直した憂いが影を落としていた。


「——報告は以上か、中書令」


皇帝アラリックの静かだが冷ややかな声が、広間に響く。


中書令マートル・フォン・ブライトクロイツは、絹の袍の袖を正しながら一歩前に出た。前帝の貴妃ソフィアの弟であり、名門ブライトクロイツ家の当主である男の目には、明らかな警戒の色が浮かんでいる。


「はっ、陛下。古都アンチアルマを奪還したブランガ・オデュヌは、いまだ同地にとどまり、軍の再編を行っている模様。我が方の斥候によれば、西のフェルゼンヴァルデン砦にて十三万の軍を預かるアルヴェリア親王イリアード殿下に対しても、何ら恭順の儀を見せておりませぬ」


「恭順、か」


アラリックは背もたれに深く体を預け、細い指先で玉座の肘掛けを叩いた。


「春先、我が誇る近衛重装騎兵団が騎馬民族グラッデェに破れ、アンチアルマを奪われた折、臣下の誰がそれを奪還し得た?ブランガ・オデュヌなる一介の徒が、アクスアルブを占拠したかと思えば、夏には四千の手勢でグラッデェの先鋒三万を散らし、秋には僅か一万一千で十万の猛攻を退けた。そして先月……ついにグラッデェを帝国の領外へと追い払ったのだぞ」


「ですが陛下!」


声を張り上げたのは、三公の一角、太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼであった。重厚な鎧を纏った老将の顔は、怒りと屈辱で赤く染まっている。


「ブランガ・オデュヌは、我が甥……イザーク親王を殺害した大逆人にございます!実り豊かなボルゲーゼ親王領を力で奪い、皇族の血を汚した賊。奴の挙動は到底、帝国への忠義などではございませぬ!」


「太尉よ、声が大きいぞ」


ヴァレリオの罵声を遮ったのは、静謐にして絶対的な威厳を纏う老人の声だった。三公の長、司徒リヒャルト・フォン・シュタインベルク。太皇太后の兄であり、現皇帝および皇后ロザリアの祖父でもある、帝国の真の重鎮である。


リヒャルトはゆっくりと立ち上がり、白髪を湛えた頭をわずかに下げた。


「イザーク親王殿下の御身に起きた悲劇は、誠に痛恨の極み。しかし、太尉。ブランガがグラッデェの猛威を押し留めなければ、今頃このオクタヴィアの門前にて、我らは異民族の鉄騎に怯えていたやもしれんのだ。民政を統括する司徒として言わせていただけば、奴が奪還した土地からあがる税と穀物は、崩壊しかけた帝国南西部の屋台骨を支えている」


「司徒殿!では、親王殺しの罪を不問に付せとおっしゃるのか!」


「罪と功は別けて考えるのが執政の道、と言っているのだ」


両者の視線が激しく交錯する。


その背後で、尚書令ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルク——リヒャルトの息子であり、皇帝の叔父、そして皇后ロザリアの父でもある男が、冷ややかな笑みを浮かべていた。ジョヴァンニは尚書省の長官として行政の実権を握っているが、今は静観を決め込んでいる。


また、侍中ゲオルグ・フォン・フェルゼンもまた、老練な眼光を走らせながら口を開かなかった。数々の政変を生き抜いてきたこの老政治家は、風向きを慎重に見極めているのだ。


「……司空はどう考える?」


皇帝アラリックが、静かに控えていたベアトリクス・フォン・オルデンブルクに問いかけた。土木・国家事業を統括する司空ベアトリクスは、一歩前に出ると深々と頭を下げた。


「陛下。アンチアルマ周辺およびボルゲーゼ領の城砦、街道の損壊は甚大にございます。ブランガ・オデュヌの手によって復旧が進められているとはいえ、我が国が正式に文官や技官を派遣せねば、春以降の物流に支障をきたします。国家事業の観点から申せば、早急に同地の行政権を明確にすべきかと」


「つまり、ブランガを正規の領主として追認するか、討伐軍を出すかを決めよ、ということだな」


アラリックの言葉に、殿内が緊張で固まる。


討伐軍——言うのは易いが、相手はグラッデェの十万を破った男である。しかも現在、フェルゼンヴァルデン砦には皇帝の異母弟であるイリアード親王が十三万の兵を擁して駐屯している。イリアードがどう動くかが、最大の懸念事項であった。


「中書令」アラリックがマートルに向けた。「イリアードからは何と言ってきている?」


マートルは一瞬躊躇してから答えた。


「は……イリアード殿下からは、『ブランガ・オデュヌの行動には不審な点もあるが、軍事的な合理性において疑う余地なし。当方は砦の守備に万全を期しつつ、帝都からの裁定を待つ』との報告が届いております」


「イリアードは静観か。賢明なことだ」


アラリックは吐息をついた。


その時、殿内の側面に控えていた皇后ロザリア・フォン・シュタインベルクが、静かに扇を収めた。皇太后の姪であり、皇帝の従妹でもある彼女の立ち振る舞いには、シュタインベルク家の誇りと気品が溢れていた。


「陛下、一言発言のお許しを」


「許す、皇后」


ロザリアは気品ある声で居並ぶ群臣を見渡した。


「太尉の怒りも、司徒の深慮も、共に帝国の未来を思えばこそのもの。しかし、現在グラッデェは西へ撤退したとはいえ、完全に潰えたわけではございませぬ。この冬の間に我が国が内輪揉めをはじめ、ブランガ・オデュヌを敵に回せば、再び北と南西から挟み撃ちに遭うこととなりましょう」


「では、皇后殿下はあの野心家に封土を与えよとおっしゃるのか?」ヴァレリオが苦々しく問う。


「封土ではなく、毒杯付きの恩賞です」


ロザリアの瞳に、冷酷な光が宿る。


「ブランガ・オデュヌをアンチアルマの太守に任じ、同時にイザーク親王殺害の疑惑を晴らすための『出頭』を命じるのです。もし断れば、奴は名実ともに帝国の敵。その時はイリアード殿下の十三万と帝都の兵で挟み撃ちにすればよい。逆に命に従い、太守としての責務を果たしつつ帝都に恭順を示すならば、奴の武力は帝国の盾として利用できます」


殿内にどよめきが広がった。


「なるほど……さすがは皇后殿下」


侍中ゲオルグ・フォン・フェルゼンが、初めて口を開き、うなずいた。


「虎を野に放つのではなく、鎖をつけて門番とさせる。断れば討つ大義名分が立ち、受け入れればグラッデェに対する防壁となる。老骨の身ながら、感服いたしました」


リヒャルト・フォン・シュタインベルクも満足そうに髭を撫でた。自身の孫娘であり、皇后であるロザリアの深謀遠慮は、シュタインベルク家の権威をさらに高めるものだ。


しかし、ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼだけは納得がいかない様子で、拳を握りしめていた。


「しかし……イザーク親王の無念は……!」


「太尉」


ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルクが、静かだが威圧的な声で割り込んだ。


「個人の恩怨よりも、帝国の存続が先決にございます。ボルゲーゼ家の血を引く者が失われたことは悲劇ですが、今、帝国軍の主力をブランガ討伐に割けば、誰がこのオクタヴィアを守るのですか?」


尚書令ジョヴァンニの言葉は、実質的な決定打であった。行政の実権を握る彼が皇后の案を支持したことで、議論の潮流は完全に決まった。


皇帝アラリックは、ゆっくりと立ち上がった。


「決まりだな。中書省は直ちに詔書を起草せよ。ブランガ・オデュヌを暫定的にアンチアルマおよび南西部の管理者に任ずる。ただし、来春の雪解けとともに帝都へ出頭し、親王殺害についての弁明を行うことを義務付ける」


「御意」マートルが深々と礼をした。


「それから、フェルゼンヴァルデン砦のイリアードに連絡を送れ。ブランガの動きを厳重に監視し、一歩でも怪しい動きを見せれば、即座にこれを挟撃する準備を整えよ、と」


「かしこまりました」


アラリックは冷ややかな視線を、遙か南西の空へと向けた。


「ブランガ・オデュヌ……一騎当千の将か、それともただの野心家か。この冬が明けた時、その首が帝都の門に掲げられるか、我が足元にひざまずくか、見ものだな」


権力と策略が渦巻く帝都オクタヴィア。

12月の凍てつく風が、大理石の玉座の間を吹き抜けていくのであった。



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