オーレリア外伝『アンチルマ避難民藩地』その6
大陸を覆う秋の冷気は日毎に厳しさを増し、急造された「アンチルマ避難民藩地」にも、容赦のない木枯らしが吹き抜けていた。
皇帝アラリックの胸中は、ここ数か月間、焦燥と深い悔恨に苛まれ続けている。すべての始まりは、燕国の奪還を目指して敢行した先の親征であった。アラリックはそこで手痛い敗北を喫し、帝国が誇る近衛軍の大半を失うという痛恨の痛手を被った。さらにその余波は止まらず、古都アンチルマの陥落を招いたばかりか、防衛の盾となった残留近衛軍をも二度にわたって全滅させてしまったのである。
数万の臣民が家を追われ、寒空の下で飢えと寒さに震えていた。
「……帝都の豪華な玉座で、暖をとりながら報告書を眺めているなど、到底できぬ」
抑えきれぬ衝動に突き動かされたアラリックは、重臣たちの反対を押し切り、政務を側近に委ねると、わずかな供だけを伴って帝都を抜け出した。フェルゼンヴァルデン砦で防衛の指揮を執る実弟・イリアード親王にすら一切知らせず、粗末な商人の服を身に纏い、一人の小汚い「商人の若旦那」になりすまして、お忍びで避難民集落へと潜入したのである。
集落に足を踏み入れたアラリックが目にしたのは、立ち並ぶ粗末な天幕と、行き交う人々の疲れ果てた表情であった。だが、しばらく進むと、突如としてその一角から、弾んだ子供たちの明るい歓声が聞こえてきた。
(……この泥と絶望の集落で、子供たちがはしゃいでいるというのか?)
訝しんだアラリックが人だかりを掻き分けて近づくと、そこには一台の荷車が止まっていた。荷車の周りでは、年格好の異なる三人の若い娘たちが、押し寄せる子供たち一人ひとりに微笑みかけながら、香ばしい焼き菓子と艶やかな朱色の山査子飴を配っている。
「ほら、順番よ。みんなの分、ちゃんとあるからね」
「たくさん食べて、元気を出してくださいねぇ!」
「押さないでください。怪我をしてしまいますよ」
娘たちの温かな声と、子供たちの弾けるような笑顔。殺伐とした避難民集落において、そこだけがまるで陽だまりのような温もりに包まれていた。
アラリックは吸い寄せられるように、荷車の前へと歩み寄った。商人の若旦那を装い、低く落ち着いた声をかける。
「……お若いお嬢さん方。この避難民の子供たちに、菓子を配っておられるのかい?」
中央にいた、飛び切りの美貌を持つ可憐な少女――セシリアが、ぱっと花が咲くような笑顔をアラリックに向けた。
「ええ、そうなの! 子供たちの暗い顔を見ていられなくて。みんなが喜ぶ顔が見たくて、配っているのです」
その一言が、アラリックの胸を強く突き刺した。
皇帝である己の不徳と敗北のせいで、この幼子たちは家を失い、親を失い、惨めな避難生活を余儀なくされているのだ。それなのに、目の前の少女たちは見返りも求めず、ただ子供たちの笑顔のために手を尽くし、温もりを与えている。
(我が過ちを……この娘たちが救ってくれているというのか……)
アラリックの目頭が熱くなり、思わず涙が溢れ出そうになった。彼は慌てて袖で目元を拭い、目の前の少女をまじまじと見つめた。その時、彼女の衣装に施された細かな意匠が、アラリックの鋭い眼光に留まった。
娘たちの着ている衣服の腰帯と髪帯。そこに控えめにあしらわれているのは、気品ある『蓮の花』の紋章。そして何より、少女の細い腰に揺れているのは――澄み切った清流の如き輝きを放つ『水明』の玉佩であった。
(……あっ!? この玉佩は……!)
アラリックの脳裏に電撃が走った。それはかつて、自らの手で「水明将軍」の称号とともに授けた宝玉。目の前に立つこの愛らしくも凛とした少女こそ、弟イリアードの側室であり、圧倒的な海戦での功があった『水明将軍』セシリアその人であったのだ!
(そうか……イリアードの側室、セシリアであったか……!)
己の正体を明かすわけにはいかない。皇帝がお忍びでこんな場所にいると知れれば、周囲は大混乱に陥り、集落の動揺を招いてしまう。アラリックはぐっと感情を押し殺し、しがない商人としての体面を保とうと必死に声を絞り出した。
セシリアは、目の前の「商人の若旦那」が感極まって涙ぐんでいるのを見て、優しく微笑みながら言葉を続けた。
「お兄さん……いえ、若様もどうか、この子達のために援助をお願いできませんか? もうじき、恐ろしい冬が迫っています。でも、この集落には着るものも、暖かな寝具も、圧倒的に足りない状況なのです」
まっすぐな瞳で民の困窮を訴えるセシリア。アラリックの胸は、激しく締め付けられるような痛みに苛まれた。
(皇帝でありながら、民に寒さを忍ばせている己の無力さよ……!)
「……ああ。分かった……分かったとも……!」 アラリックは涙をボロボロとこぼしながら、何度も、何度も強く頷いた。「必ずや……必ずや、この子供たちに温かな着物と寝具を届けよう。決して、凍えさせはせん……!」
セシリアはその言葉に嬉しそうに目を細め、「ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。
まさにその時であった。
「――そこ動くな! 控えよ!」
突風のような足音とともに、怒号が響き渡った。集落の泥を跳ね上げながら猛スピードで馬を駆けさせてきたのは、他ならぬアルヴェリア親王イリアードであった! その背後には、殺気立った近衛騎兵たちがズラリと従っている。
イリアードは馬から飛び降りるなり、眼光を鋭く光らせて指示を出した。「その商人の若旦那を取り押さえろ! 連れて行け!」
「えっ!? ちょっと、殿下!? 何をするのですか!?」
セシリアが驚いて声を上げるが、イリアードは取り合わない。
「セシリア、お前たちは下がっていろ。怪しい商人が忍び込んでいるとの報を受け、検分に参ったのだ」
兵士たちは手際よく、抵抗しないアラリックと側近たちの腕を掴み、他人の目が一切届かない大型天幕の裏手へと強引に移動させた。人目が多すぎる広場で「皇帝」の正体が露呈するのを防ぐための、イリアードなりの精一杯の不敬を装った機転であった。
周囲に誰もいないことを確認した瞬間――。
イリアードは即座に兵たちを下がらせると、商人服を着たアラリックの前で、勢いよく泥の中に片膝をついた。
ドサッ、と重い音が響く。堅牢な甲冑に身を包んだ帝国軍総大将イリアード親王が、頭を深く垂れ、額を地面にこすりつけるようにして平伏したのだ。
「……兄上……いや、皇帝陛下。……大変なご無礼を働きましたこと、平伏してお詫び申し上げます」
イリアードの声は、緊迫感と深い恐縮に震えていた。
アラリックは、自分の前でひれ伏す弟を見下ろし、鼻でフッと息を吐いた。袖で涙を拭うと、先ほどまでの商人らしい気弱な表情は消え去り、そこには帝国を統べる至高の覇者の威厳が戻っていた。
「よい、面を上げよイリアード。人目を避けるための咄嗟の機転……見事であった」
「はっ……」
イリアードが顔を上げると、アラリックは自身の豪奢な威光を漂わせつつ、力強い手で弟の肩を掴んだ。
「イリアードよ。わしは自分の目で見た。……あの子供たちの笑顔を、そしてお前の側室たちが泥にまみれて民を支える姿をな」
アラリックの瞳には、再び熱いものが宿っていた。
「わしは皇帝として、二度とこの民を失望させはせん。お前たちの頭の中には策があるのか?」
イリアードは一瞬間を置き、凛とした笑みを浮かべた。
「……御意にございます、陛下。妻のリゼリアより、陛下にしか果たせぬ『最高の演出』の提案が届いております」
「ほう……リゼリアがな」 アラリックはニヤリと不敵に笑った。
「良いだろう! 天子たるこのアラリック、民の笑顔のためならば、どんなお芝居でも演じて見せようではないか! さあイリアード、案内せよ。帝国の『奇跡』を始めようぞ!」
◇
夕刻、寒風が吹き荒れるアンチルマ避難民集落の中央広場に、数万の避難民が集められていた。広場の中央に突如として組まれた高台。そこに、威厳あふれる黄金の甲冑(イリアードが慌てて砦から運ばせたもの)を纏った皇帝アラリックが姿を現すと、民からは地鳴りのような地よめきが起こった。
「アンチルマの民よ! 聞くが良い!」
アラリックの地響きのような声が、広場に響き渡る。
「寒波が迫り、皆が凍えていることを、このアラリックは深く心を痛めておった! ゆえに我は天に祈る! 帝国の至高なる神よ、この傷ついた民に暖を与え給え!!」
皇帝が両腕を突き上げ、天を仰いだその瞬間――!
あたりは目も眩むような眩い光に包まれた。
そして、広場の四方を取り囲む大型天幕の幕が、一斉に爆風で跳ね上がった。その奥から現れたのは、整然と積み上げられた数万着の厚手の羊毛外套と、ふかふかの綿入り寝具の山、そして夥しい食料の数々であった。
「「「おおおおおっ……!?」」」
民から悲鳴のような歓声が上がった。
「物資だ! 暖かい毛布と外套だ!」
「皇帝陛下の祈りが……天に通じたんだ!」
「奇跡だ! 神が陛下を通じて、俺たちに暖を与えてくださったぞ!!」
歓喜と涙が広場を埋め尽くし、人々は一斉に膝をついて皇帝に深く感謝の祈りを捧げ始めた。
その熱狂の遥か後方、天幕の陰で、セシリアとエミーナはハアハアと肩で息を切らせていた。
「うぅ……セシリア様ぁ……! 数万枚の毛布を空間跳ね渡り(テレポート)で一瞬で重ねるなんて、過酷すぎる労働ですぅ……! 指が固まっちゃいそうですぅ……!」
エミーナがぽろぽろと涙を流しながらも、その能力で完璧な仕上げを施していた。
「よく頑張ったわ、エミーナ! ロゼッタの監視のおかげで、誰も私たちの異能だなんて気づいていないわよ」
セシリアは可愛らしく胸を張り、満足そうに頷いた。
ロゼッタは「千里眼」で民の反応を監視しつつ、静かに報告する。
「……周囲に動揺はありません。他国の間諜も『帝国皇帝の持つ謎の秘宝か、天の奇跡』として本国への報告を作成し始めています。一族のタブーは守られました」
高台の上で、皇帝アラリックは驚きを胸に秘めながらも威厳を保ち、満足そうに胸を張って民の歓声に応えていた。その傍らで控えるイリアード親王は、冷や汗を拭いながら遠くの天幕を見つめた。そこには、彼の妻――リゼリアが立っている。
リゼリアは凛とした立ち姿で、満足そうに微笑みながら夫の視線を受け止めていた。
「完璧な幕引きですね、リゼリア様」
ベルナデットが隣で淡々と算盤を収める。
「避難民の防寒資材調達完了。凍死予測数はゼロへと修正されました。さらに皇帝陛下の支持率は過去最高値を更新。兵站的にも政治的にも、極めて合理的な解決です」
「ふふ、そうね。でも一番大切なのは、これで誰も凍えずに冬を越せるということよ」
リゼリアの紫水晶の瞳に、防寒着を羽織って温もりに顔を綻ばせる子供たちの姿が映っていた。
戦火の陰で繰り広げられた、二度目の壮大な兵站戦。王妃の智謀と異能の乙女たちの絆によって、アンチルマの民はまた一つ、厳しい冬という破滅の淵を乗り越えたのであった。




