オーレリア外伝『アンチルマ避難民藩地』その5
帝国歴303年10月――。
古都アンチルマが陥落してから5ヵ月の月日が流れていた。かつて戦火を逃れた無数の避難民を包み込んだ「アンチルマ避難民藩地」は、秋の訪れとともに新たな、そして極めて苛烈な危機に直面していた。
昼間の日差しはまだ柔らかいものの、夜が訪れると大陸特有の鋭い冷気が容赦なく天幕を刺す。急造の避難民藩地には、まともな防寒設備など存在しない。 主食である食料の確保については、アルヴェリア親王妃リゼリアの冷徹な兵站戦と、セシリアやエミーナといった側室・侍女たちの密かな活躍によって、どうにか危機を脱したところであった。しかし、避難民の数は数万人。迫り来る本格的な冬を前に、数万着の外套と数万枚の毛布・寝具の調達は、文字通り「絶対的に不可能な無理難題」として立ち塞がっていた。
薄暗い本陣の天幕の中、リゼリアは冷え込む指先を温めるように胸の前で組み、佇んでいた。その傍らには、相変わらず寸分の隙もない立ち姿で木札と算盤を手に置く侍女ベルナデット――「無慈悲のナデット」の姿がある。
「非合理的極まりない事態です、リゼリア様」
ベルナデットの声が、静かな天幕に冷たく響く。
「現在、避難民藩地に存在する毛布および厚手の外套は、全体のわずか一割一分。今週末には夜間の気温が氷点下に達するとの予測が出ました。このままでは、凍死者および寒冷による疾病患者が数千人規模で発生します。帝国軍の備蓄を削るにも、すでに糧食の15パーセントを融通させた直後です。これ以上の防衛資材の徴発は、親王殿下の軍事的防衛線を崩壊させます」
リゼリアはかすかに眉をひそめた。
「セシリアやエミーナの『空間調達』の異能を使えば、数万着の防寒着や寝具を召喚すること自体は可能でしょうけれど……」
「お止めください」
ベルナデットは即座にその言葉を遮った。
「食料の微小な誤魔化しならいざ知らず、数万着の精巧な毛布や衣服が出所不明のまま一夜にして空から降ってきたとなれば、いかに愚鈍な民であっても『超自然的な異力』の存在を確信します。一族の能力秘匿という鉄則が破られれば、帝国はおろか他国の間諜や教会までをも巻き込んだ大混乱へと発展いたします」
「ええ、分かっているわ、ナデット」
リゼリアは紫水晶の瞳を伏せた。 一族の秘められた異能を守りつつ、目の前で震える数万の民を救う。そのためには、前回の兵站戦以上の「構造の変革」と、絶対的な「大義名分」が必要であった。
(何か……何か、誰もが納得し、疑う隙すら与えない『理屈』はないかしら……?)
リゼリアは意識を集中させ、静かに自らの内に眠るもう一つの秘術――「念視」の力を解放した。
広大な帝国の風景が、リゼリアの脳裏に瞬時に広がっていく。彼女の精神は空間を跳躍し、遠く離れた街道へと視界を飛ばした。 ――そこでリゼリアが捉えたのは、思いも寄らない人物の姿だった。
やや裕福な商人の服を纏い、荷馬車の御者台に腰掛け、路面の悪さに苦笑いを浮かべている男。 ……帝国を総べる至高の存在、皇帝アラリックその人であった。
(……皇帝陛下が……!?)
リゼリアは思わず息をのんだ。皇帝は護衛を数名だけ連れ、商人になりすまして、お忍びでこのアンチルマ避難民藩地へ向かって内密に視察を進めていたのだ。民の窮状をその目で確かめんとする、天子ならではの苛烈なまでの行動力。
その光景を見た瞬間、リゼリアの脳裏に雷光のごとく閃きが走った。
完璧なシナリオ。誰も疑いようのない、壮大な「演出」。
(これだわ……! これなら、異能の力を使っても完璧に説明がつく!)
「ナデット、策が決まったわ」 リゼリアはパッと瞳を開き、凛とした微笑を浮かべた。 「これより、皇帝陛下による『天子の奇跡』を演出します」
「……奇跡、でございますか?」 普段は動じないベルナデットが、微かに眼鏡の奥の目を丸くした。
「ええ。皇帝陛下には、この藩地で民のための『大規模な祈祷儀式』を行っていただくの。そして、陛下が天空へ向かって祈りを捧げたその瞬間――不思議なことに、数万の民に行き渡る大量の防寒着と寝具が、天からの賜り物として出現するのよ!」
「なるほど……」
ベルナデットは一瞬でその意図を理解し、素早く計算を弾いた。
「出所不明の膨大な物資も、『天子たる皇帝陛下の祈りが天に通じ、神域より齎された奇跡の賜物』という物語を被せれば、民は歓喜して崇め奉り、異能の露見どころか皇帝威信の爆発的な向上へとすり替わります。物理現象としては支障ありません」
「そうよ。そして……当の皇帝陛下にも、その大口を叩いたお芝居に乗っていただく必要があるわ。急ぎ、殿下に連絡を取ります」
リゼリアは迷いなく、深く息を吸い込むと、遠くフェルゼンヴァルデン砦で防衛指揮を執っている夫・イリアード親王に向けて、強力な「念話」の波動を放った。
◇
「——全軍、西側の防衛線を補強せよ。寒冷前線が来ている、作業を急げ!」
フェルゼンヴァルデン砦の作戦室で、峻烈な声を張り上げていたイリアード親王は、突如として脳裏に響き渡った「声」に身体を強張らせた。
『——殿下、聞こえるかしら?』
(また愛妻か……! 今度は一体何を言われるのだ?)
イリアードは思わず額を押さえた。妻たちからの連絡はいつも嬉しいけど悩ましいのだ。前回の軍糧15%引き渡しの悪夢が脳裏をよぎる。周囲の将校たちが「殿下!?」と狼狽する中、イリアードは手で制しながら意識を集中させた。
『忙しいところ申し訳ないです。緊急事態なの。避難民藩地に寒波が迫っているわ。数万人の防寒着と寝具が足りないの』
『それは重々承知している! だが、軍の防寒資材まで民間に回せば、今度こそ兵が凍死して砦が落ちるぞ!』
イリアードは心の中で叫んだ。
『分かっているわ。だから軍の物資は使わないの。……殿下、驚かないで聞いて下さい。実は皇帝陛下が、商人に扮してお忍びで藩地に向かっていらっしゃるわ』
『……は!? 兄上が……!?』
イリアードは絶句した。最高権力者が前線近くの避難民藩地に無断で潜入しているなど、気苦労の種以外の何物でもない。
『陛下が藩地に到着されたら、すぐに捕まえて……いいえ、恭しくお出迎えして、こう申し上げて欲しいの。『陛下、民を救うために、ぜひ藩地の広場で「幸福祈願の儀式」を行ってください』と』
『……待てリゼリア。兄上は常人だ。祈祷のマネ事はできても、実際に天から防寒着を降らせるような神通力など持っておらんぞ!?』
『そこは、私とセシリアとエミーナの出番よ』 リゼリアの声には、確信に満ちた悪戯っぽい響きがあった。
『陛下が祈祷のクライマックスで天に手を掲げた瞬間、私たちが空間調達の異能を使い、天幕の裏や広場の中央に数万着の防寒具と寝具を「奇跡の物質化」として降らせるわ。……分かったかしら? 陛下には「皇帝の祈りに天が応えた」という完璧な奇跡の演者になっていただくのよ』
イリアードは目を見開いた。 あまりに壮大、あまりに不敵なカラクリ。だが、皇帝の権威を傷つけることなく、むしろ天子としての神聖性を極限まで高めつつ、数万の民を凍死から救う唯一無二のウルトラCであった。
『……兄上が、そのような茶番に乗ると思うか?』
『乗るわ、絶対に』
リゼリアは断言した。
『陛下は民を想うお方よ。ご自身の威信で数万の民が救われ、かつ帝国の威信が保たれるなら、喜んで世界一の名優を演じてくださるわ。……さあ殿下、至急、馬を走らせて陛下を「捕獲」し、兵達に広場の設営を命じてください』
念話が途切れると同時に、イリアードは深くため息をつき、すぐさま顔を上げた。 「——急報だ! 近衛騎兵30を率い、至急向かう! また、藩地の中央広場に即席の祭壇を組み上げよ! 皇帝陛下による幸福祈願の儀式を行う!」
「は、はいっ!? 陛下が祈祷を!?」 混乱する将軍たちを置き去りにし、イリアードは風のように作戦室を飛び出していった。




