オーレリア外伝『アンチルマ避難民藩地』その1
帝国暦303年9月——。 古都アンチルマの陥落から、早くも四ヶ月の時が流れていた。
戦火を逃れた市民や近隣住民を収容するため、フェルゼンヴァルデンとグリムシュルヒトという二大要塞の中間に急造された「アンチルマ避難民藩地」は、今や限界を迎えつつあった。連日押し寄せる避難民に対し、絶対的に不足しているもの――それこそが「食料」であった。
薄暗い本陣の天幕。机上に広げられた戦術地図を前に、アルヴェリア親王妃リゼリアは毅然たる面持ちで佇んでいた。リヴィエール一族の血を引き、公には隠された超常の力――「予知」や「精神干渉」の異能を持つ彼女の瞳には、飢えに苦しむ民の未来が明瞭に映し出されていた。
「ナデット、キャニオンポートからの兵站はどうなっていますか? 滞っている理由を教えて」
リゼリアの峻厳な問いに、傍らに控える侍女ベルナデット――のちに敵味方から「無慈悲のナデット」と恐れられる娘が、冷徹な眼鏡の奥の目を光らせた。
「非合理的極まりない状況です、リゼリア様」
ベルナデットの声には、寸分の私情も挟まれていなかった。
「大河コミュシュルツの港町から南下する輸送ルートは、現在、フェルゼンヴァルデン砦に展開する帝国軍主力の輜重隊によって完全に占有されています。軍優先の通行規制により、民間の食料馬車が藩地に到達する確率は、予定の三割にまで落ち込んでおります」
分析・統計において右に出る者のないベルナデットは、手元の木札から算出した数値を瞬時に告げた。
「現在の備蓄では、あと12日と4時間で配給が底を突きます。二週間後には、藩地内で餓死者が発生するという予測が出ました」
リゼリアの眉が微かに動く。
「12日、か……。セシリアやエミーナの『調達』の異能に頼れば、一時的に糧食を空間から召喚することも不可能ではないけれど……」
「それこそ悪手です」
ベルナデットは即座にその策を排した。
「出所不明の食料が数千人規模で配給されれば、一族の秘匿された能力が公に露見する引き金となりかねません。それに、あの超天然な泣き虫に兵糧の調達を命じれば、兵站の計算が狂うばかりか、過酷な労働だと騒ぎ立てて戦線に不要な混乱を招くだけです」
リゼリアは小さく頷いた。一族の秘密を守りつつ、民を飢えから救う。そのためには、奇跡ではなく「構造の変革」が必要であった。
「ならば、手段は一つ。軍の兵站を割かせる他ないわね」
「御意。すでにフェルゼンヴァルデン砦で防衛体制を整えているイリアード殿下に対し、軍糧の15%を民間へ緊急融通させるための提案書――いえ、要求書は作成済みにございます」
ベルナデットは、狂いのない論理で埋め尽くされた軍令の草案を差し出した。 リゼリアはそれを受け取ると、凛とした微笑を浮かべた。
「殿下に直接この要求をお願いするわ。いくら帝国軍の主力部隊とはいえ、我が夫たる親王が、避難民の暴動という不合理を望むはずもないもの」
「最速での決裁を。リゼリア様の念話があれば、殿下も三分で署名せざるを得ないでしょう」
戦火の裏側で繰り広げられる、もう一つの兵站戦。 若き王妃と「無慈悲」なる侍女の策謀により、飢えに瀕した藩地の運命は、かろうじて破滅の淵で踏みとどまろうとしていた。
◇
避難民藩地から遥か西、堅牢なる石造りの要塞――フェルゼンヴァルデン砦。 そこではアルヴェリア親王イリアードが、押し寄せるであろう敵軍に備え、帝国軍主力の防衛体制を整えるべく、連日容赦のない軍議を重ねていた。
「これ以上の防衛線の縮小は認めん。各部隊は速やかに陣地構築を完了させよ」
二十一歳という若さでありながら、帝国軍主力を率いる総大将としての風格を漂わせるイリアード。その峻烈な声が軍議室に響いたその瞬間、彼の脳裏に、突如として鈴の音のような、しかし拒絶を許さぬ明確な「声」が直接響き渡った。
『――殿下、聞こえるかしら』
親王の身体が微かに硬直する。一族の秘中の秘、リゼリアの「念話」による精神干渉であった。
『アンチルマ避難民藩地の食料が、あと12日で底を突くわ。原因は軍の輜重隊によるルート占有よ。今すぐ軍糧の15%を民間に融通してほしいの。詳細な合理的根拠(要求書)は、今、ナデットの早馬に持たせたわ。許可してくれないと、あなたの足元で数万人の暴動が起きるわ。おねがいしますね』
脳内に直接刻まれる、我が妻にして親王妃の冷徹な分析と要請。 イリアードは眉間を押さえ、深くため息をついた。周囲の将兵たちは、総大将が突如として沈黙したことに色めき立つ。
「殿下、いかがなされましたか!?」
「……いや、何でもない。物見より急報だ。避難民藩地にて兵糧危機、放置すれば後方暴動の懸念あり。まもなく藩地より要請書が届く。受領次第、軍糧の15%を即座に引き渡し、輸送ルートの一部を民間に開放せよ」
将軍たちが驚愕の声を上げる。
「しかし殿下! 敵を前に軍糧を削るなど、あまりに不合理――」
「不合理ではない」
イリアードは遮った。
「後方で数万人の暴動が起きる方が、戦術的に遥かに不条理だ。……それに、あの完璧主義者の侍女が動いている。断れば、こちらの兵站の不手際を徹底的に数字で叩き潰されるぞ。最速で手配せよ」
総大将の絶対的な命令により、頑迷な軍の兵站組織は、わずか三分でその方針を強制転換させられることとなった。
◇
一方その頃。軍の物資が届くまでの「空白の数日間」を繋ぐため、藩地の裏側では、もう二人の異能の持ち主が暗躍していた。
「エミーナ、泣いてる暇はないわよ。いくらお姉様たちが軍を動かしたとしても、今晩の子供たちのスープに入れる具材が足りないわ。……さあ、やるわよ」
そう不敵に微笑むのは、イリアードの側室であり、十九歳の若き美貌に「物理的破壊と空間調達」の圧倒的異能を秘めたセシリアであった。日頃の天使のような愛らしさは影を潜め、その瞳には最凶の魔女のごとき輝きが宿っている。
「うぅ……セシリア様ぁ、過酷な労働ですぅ……。私、悲劇のヒロインとして一日中泣いて暮らしたいのにい……」
十六歳の侍女エミーナは、ぽろぽろと涙をこぼしながらも、その手は恐ろしい速度で動いていた。彼女もまた、セシリアと同系統の調達能力を持つリヴィエール一族の娘であった。
「つべこべ言わないの。ほら、お得意の空間跳躍で、近くの原生林から野生の芋と木の実を『調達』してきなさい。一族の能力だとバレないように、ちゃんと泥をつけた状態で天幕の裏に山積みするのよ。……あ、お菓子は混ぜちゃダメだからね? 太るバツを与えるわよ」
「ひゃんっ! 焼き菓子はダメですね、分かりましたぁ!」
エミーナがふっと空間に手を伸ばすと、次の瞬間には、天幕の裏に大量の新鮮な根菜類が、まるで最初からそこに実っていたかのように音もなく出現した。侍女としての過酷な労働――数千人分の隠密兵糧調達を、彼女たちは文字通り「瞬時」に片付けていく。
その様子を、物陰からじっと見つめる少女がいた。十六歳の黒髪の美少女、セシリアのもう一人の侍女・ロゼッタである。彼女はリゼリアに近い「千里眼」と「予知」の能力を使い、周囲に軍の斥候や他国の間諜がいないかを完璧に監視していた。
「セシリア様、エミーナ。半径200メートル以内に監視の目はありません。一族の秘密は守られています。ですがエミーナ、物資の量が多すぎます。あと3パーセント減らさなければ、不自然極まりない供給量としてナデット様に勘付かれます」
「ひえぇ! ナデット様に見つかったら、眼鏡の奥の目で文字通り査問にされますぅ!」
「ふふ、大丈夫よ。あとの調整は、私がお茶目にちょっとした『悪戯(物理的隠蔽)』で誤魔化しておくわ」
セシリアは楽しげに笑い、調達された芋の山の一部を、念動力で精巧にカモフラージュしていった。
表舞台で論理と権謀を振るうリゼリアとベルナデット。そして、その裏で圧倒的な異能を悪戯っぽく行使するセシリアたち。 リヴィエールの血を引く美しき女性たちの、公にされぬ「二連の兵站戦」によって、アンチルマの民は知らぬ間に滅亡の危機を脱しつつあったのである。




