第67章『北進の死闘と最期』
ヴェロニカ峠にて異教徒軍の先鋒三万を粉砕したブランガ・オデュヌの名は、オーレリア帝国全土に轟いていた。火縄銃の三段撃ちと精密な陣形運用により圧倒的大軍を無力化した若き天才は、自らのもたらした勝利の余韻に浸るどころか、すでに次なる野望の盤面を見つめていた。
彼が次に見据えたのは、古都アンチルマの解放であり、そして帝国の絶対権力であった。しかし、その足元にはいまだ歪で巨大な障壁が残されていた。ボルゲーゼ親王イザーク――皇帝の異母弟であり、名目上は未だこの南西領域の絶対的君主として君臨する男である。イザークはヴェロニカ峠の危急を救われたものの、武功と民衆の支持を独占するブランガを極度に恐れ、同時に深く憎悪していた。
城砦都市アクスアルブ近郊の館。ヴェロニカの勝鬨の舌の根も乾ぬうちに、親王イザークからの招宴が届いた。名目は「異教徒撃退の戦功を称える戦勝宴」である。
「ブランガ、行くな」と、流浪の吟遊詩人であり副官のヴォルフラムは引き留めた。「老豚は追い詰められている。奴の手元には、帝都から逃れてきた重装騎士団の生き残りと、暗殺の毒杯しか残っておらん」
しかしブランガは漆黒の鞘を腰に打ち当て、不敵に鼻で笑った。「構わん。老いぼれがどのような死に顔を用意しているか、見届けてやるまでのこと。ヴォルフラム、お前は外で三千の鉄砲隊を待機させろ。合図が出れば、館ごと蜂の巣にしろ」
豪奢な大理石の宴会場には、重苦しい空気が立ち込めていた。長テーブルの奥には、肥満した体を金糸の衣装に包んだイザーク親王が座し、冷や汗を拭いながら酒杯を傾けていた。周囲を取り囲むのは、かつて異教徒の前になす術なく逃げ惑い、今やブランガへの嫉妬と恐れに狂う帝国騎士たちであった。
ブランガは長靴の音を響かせて堂々と中央へ進み出ると、礼すら取らずに酒を求めた。イザークは脂ぎった顔を歪め、偽りの笑みを浮かべた。「よくぞ参った、アクスアルブの英雄ブランガよ。お前の武勇は誠に見事であった。つきましては……この勝利の杯を、皇帝陛下に代わって授けよう」
差し出された銀の杯。その緑がかった酒面から漂う微妙な杏仁の匂いを、ブランガの鋭敏な嗅覚は見逃さなかった。ブランガは杯を受け取ると、飲む仕草をしながらそのまま床へとぶちまけた。強い毒素を含んだ酒は大理石の床を白く泡立たせた。
「ほう……これが親王家の最高の歓待か?」ブランガの目が漆黒の光を放った。「知恵の回らぬ老いぼれめ。毒を仕込むなら、もう少し上等の香辛料で消すことだ」
「不敬者めが!」イザークは立ち上がり、悲鳴のような声を張り上げた。「貴様のような出自も知れぬ野良犬に、オーレリアの権威が渡せるか! 者共、殺せ! この異端者を斬り捨てろ!」
一斉に鞘走る音。二十人を越える重装騎士が剣を抜き、ブランガへと飛びかかった。しかし、ブランガの動きは彼らの予想を遥かに超えていた。右手の片刃の剣が疾風のごとく閃き、最前列の騎士の喉元を正確に穿つ。血飛沫が舞う中、ブランガは一歩踏み込み、倒れ込む騎士の体を盾にして後続の突きをかわした。
「腰の入っておらん剣撃だと言ったはずだ!」
ブランガは凄まじい脚力で踏み込み、剣を旋回させた。鎧の隙間、首筋、関節を的確に断ち切っていく。狭い宴会館は瞬く間に凄惨な屠殺場へと化した。襲いかかる騎士たちが次々と血の海に沈む中、イザークは恐怖に顔を痙攣させ、館の奥の抜け道へと逃げ込もうとした。
「逃がすか」
ブランガは落ちていた騎士の長槍を拾い上げ、渾身の力を込めて投擲した。唸りを上げて飛んだ長槍はイザークの背中を深く貫き、分厚い扉にそのまま縫い付けた。イザーク親王は絶叫を上げ、口から血を吐いて息絶えた。
館の外に待機していたイザークの残党たちが騒ぎに気づいて押し寄せようとしたが、その時、ヴォルフラム率いる火縄銃隊が一斉に門を破って雪崩れ込んだ。イザークの死体を見下ろしながら、ブランガは血に染まった剣を振り払い、冷徹に言い放った。
「イザークは異教徒の手先と内通し、余を暗殺しようとした罪により誅殺した! これより当軍の全権はブランガ・オデュヌが握る。不服のある者は前に出よ!」
圧倒的な力と決断力。ひれ伏す騎士たちを背に、ブランガは即座に全軍へ命令を下した。「休む暇はない。北へ行くぞ。グラッデェの本隊を叩く」
◇
イザークを排し、南部の全兵力と物資を完全に統括したブランガは、直ちに軍勢を北へと向けた。彼の率いる「アクスアルブ義勇軍」は、いまや六千の火縄銃歩兵、三千の超長槍隊、そして新しく編成された二千の軽騎兵からなる計一万一千の精鋭となっていた。
北への行軍は苛烈を極めた。すでに旧都アンチルマを中心とする北方領土は、異教の騎馬民族「グラッデェ」の大軍勢勢力下に落ちていた。グラッデェは中央アジアの広大な草原から押し寄せた遊牧騎兵の連合体であり、その総兵力は十五万を超えると囁かれていた。彼らは圧倒的な機動力と弓術、そして恐れを知らぬ狂乱の突撃でオーレリア帝国の正規軍を次々と壊滅させていたのである。
ブランガの軍は、焦土と化した村々を駆け抜けた。グラッデェの掠奪によって焼き払われた集落、路上に放置された死骸。それらを見下ろしながら、ブランガの胸中に湧き上がったのは哀れみではなく、純粋な戦慄と昂揚であった。
「良いぞ……グラッデェ。これほどの惨禍をもたらす大軍勢、踏みにじり甲斐があるというものだ」
行軍中、ヴォルフラムが焦りを色濃くして報告に訪れた。「ブランガ、敵の偵察兵と接触した。グラッデェの総大将カザンは、我が軍の北進を知り、全軍の焦点を我々に絞ったようだ。敵の規模は……およそ十万。果てしない馬の波だ」
「十万か」ブランガは冷たく笑った。「ヴェロニカ峠のように狭い谷間があれば容易かったが、この先は広大な『アイゼン平原』だ。遮るもののない大平原で、十万の騎兵が押し寄せる」
「平原で騎兵の大群とぶつかるつもりか!? それは自殺行為だ!」ヴォルフラムが叫んだ。「平原では側面を包囲される。三段撃ちの火縄銃とて、四方から波のように押し寄せられれば旋回が追いつかん!」
「だからこそ面白いのよ」ブランガは甲冑の胸を叩いた。「敵の強みは機動力だ。ならば、その機動力を自ら殺すような『泥沼』を用意してやればいい。ヴォルフラム、工兵隊を呼べ。今夜からアイゼン平原の南端に、巨大な野戦陣地を構築する」
◇
雲が低く垂れ込め、血のような赤と灰色の空が広がるアイゼン平原。夜が明けると同時に、地平線の彼方が黒く蠢き始めた。
グラッデェの大軍勢であった。地鳴りのような馬蹄の音が大地を揺らし、無数の旗印が風にたなびく。彼らは異教の神を称える異様なたけり声を上げ、渡り鳥の群れのごとく見渡す限りの地平線を埋め尽くしていた。その数、十万。対するブランガ軍は一万一千。
ブランガは平原の中央に、数日かけて築き上げた膨大な「馬防杭」と「野営土塁」を背に陣を敷いた。陣の前方には深い空掘が掘られ、掘り起こした土は三段の土塁として積み上げられていた。しかし、それだけでは十万の包囲を防ぐことはできない。
「放てっ!」
先陣を切って突撃してきたグラッデェの軽騎兵一万に対し、ブランガの火縄銃隊が第一射を放った。凄まじい轟音とともに鉛の弾丸が乱射され、突進する馬と兵が次々と薙ぎ払われる。しかし、グラッデェの兵はヴェロニカ峠の過ちを繰り返さなかった。
「敵の正面は固い! 左右に広がれ! 側面から包囲せよ!」
グラッデェの全軍指揮官カザンの号令のもと、無数の騎兵が扇状に広がり、ブランガ軍の左右の側面に旋風のごとく襲いかかった。彼らは馬上から強弩と弓を放ち、黒い矢の雨がブランガ軍の陣地へと降り注いだ。
「怯むな! 第二列、前へ! 側面へ筒を向けよ!」
ヴォルフラムが血汗を流しながら怒号を上げる。だが、平原という広大な戦場において、グラッデェの機動力は圧倒的であった。矢の雨によって火縄銃隊の兵士たちが次々と倒れ、陣形の隙間を突いてグラッデェの剛勇な騎兵たちが土塁を乗り越え始めた。
「ぬおあああ!」
曲刀を振るう異教の騎兵が土塁へとなだれ込み、白兵戦が勃発した。ブランガの誇る超長槍隊が必死に突き立てるが、グラッデェの騎兵は仲間が刺されても構わず馬ごと槍の群れに突っ込み、力任せに陣形を崩していく。泥と血、煙と絶叫がアイゼン平原を完全に覆い尽くした。
「ブランガ! 持ちこたえられん! 側面が破られた!」ヴォルフラムが剣を振るい、迫る敵を斬り伏せながら叫んだ。
ブランガは本陣の丘の上で、全軍の崩壊を目の当たりにしながらも、その瞳から恐れの光を一切発していなかった。むしろ、その口元には狂気を含んだ凄絶な笑みが浮かんでいた。
「見事だ……グラッデェ。実に素晴らしい強さだ」
ブランガは腰の片刃の剣を抜き放ち、赤いマントを投げ捨てた。「ヴォルフラム! 予備の騎兵隊と残存の歩兵を集めろ! これより全軍、敵本陣へ突撃する!」
「正気か!? この乱戦の中で突撃など、包囲されて全滅するぞ!」
「防御で耐えられる規模を超えた! ならば首を取るしかない! カザンの本陣を穿ち、奴の首を挙げる! それ以外にこの戦を終わらせる道はない!」
◇
「ブランガ・オデュヌに続け! 死にたい奴から前に出ろ!」
ブランガは漆黒の愛馬に跨がり、自ら先頭に立って敵の渦中へと飛び込んだ。彼の周囲には、死を覚悟した側近たちと、生き残った軽騎兵、そしてヴォルフラムが続いた。
ブランガの剣は冴え渡り、襲いかかるグラッデェの勇士たちの首を次々と飛ばした。黒色火薬を詰めた手榴弾を敵の密集地帯へ投げ込み、爆風と炎のさ中に突っ込んでいく。
「魔王だ! 黒い魔王が来るぞ!」
凄まじい突破力にグラッデェの兵たちが恐怖に慄き、一時的に道がひらかれた。ブランガの突撃は敵の膨大な陣形を深く穿ち、ついに総大将カザンの本陣へと肉薄した。
カザンの親衛隊が群がり、ブランガの愛馬が倒れるも、彼は素早く着地して地を蹴った。凄まじい剣戟の音とともに親衛隊を薙ぎ払い、ついに総大将カザンと刃を交える。
「我らグラッデェの前に立ちはだかるか、異国の悪鬼よ!」
重厚な大剣を振るうカザンに対し、ブランガはニヤリと笑うと、鋭い踏み込みから一閃。カザンの大剣を弾き飛ばし、その喉元を深く穿ち抜いた。
「このブランガ・オデュヌが、誰かに膝を屈することなど万に一つもない」
総大将カザン討ち死にの知らせは、瞬く間に十万のグラッデェ軍へ駆け巡った。極度の恐慌に陥った敵軍は陣形を崩し、雪崩を打って北へと撤退を始めた。
◇
アイゼン平原に勝鬨が響き渡る。一万一千の兵で十万の精鋭を打ち破るという、歴史に類を見ない大勝利であった。
泥と血にまみれた剣を鞘に収め、ブランガは息を荒らげながら空を見上げた。側には傷つきながらも生き残ったヴォルフラムが立っていた。
「やりやがったな、ブランガ……歴史がひっくり返るぞ」
「ふん、言ったろうヴォルフラム。俺の道は俺自身で切り開く」
北方最大の脅威であったグラッデェは壊滅し、もはやブランガの野望を阻む者はどこにもいなかった。古都アンチルマの解放、そして帝都オクタヴィアの玉座――若き凄ノ王の圧倒的な覇道は、ここから本格的に幕を開けるのだった。




