第66章『オーレリア帝国軍の帰還』
大陸の最東部――。
ダラーン王国が滅亡し、オーレリア帝国軍の主力が半島の最南端サンブリアに到達した頃、帝都より非常事態を告げる急報が届いた。
異教の遊牧民族グラッデェの侵攻により、西の要衝である古都アンチルマが陥落したという。帝国の誇る重装騎士団が敗北したとの報は領民に大きな衝撃を与えたが、それもそのはずであった。その正体は、先の燕国戦で大敗を喫した近衛兵団を形ばかりに再編した、未だ実戦経験の乏しい部隊だったからである。
帝国の真の主力は、この最東端の地に温存されていた。13万の軍勢を率いるのはアルヴェリア親王イリアード。彼はこの主力を率い、急遽帝都へと引き返さねばならない急務に直面していた。
本来、古都アンチルマと帝都オクタヴィアの間には2か所の強固な砦があり、騎馬民族の襲来を過度に恐れる必要はなかった。事実、南下政策をとった敵軍は、4000の義勇兵を従えたブランガ・オデュヌの前に惨敗を喫している。
これらの戦況は通常、伝令によってもたらされるものであったが、イリアード親王は違った。超常的な能力を持つ妻リゼリアを介し、リアルタイムで情報を把握していたのである。
親王妃リゼリア、そして側室のセシリアは、いずれもリヴィエール一族の娘であった。リヴィエール家はアルヴェリア周辺に根を張る土豪であり、遥か昔にこの地へ流れ着いた「異国の漂流民」の血を引くという伝説がある。一族には独特の雰囲気を纏った美貌の持ち主が多く生まれるとされていたが、彼らが秘める真の謎はそれだけではない。
一族の根幹に関わる「もう一つの秘密」――それについて語ることは、一族の間で暗黙のタブー、すなわち公然の秘密となっていた。そのタブーこそが、千里眼や念話、念力といった異能の力である。
リゼリアからの報を受け、イリアードは決断を下した。
「帝都に引き返す。先発隊は船を出せ。全軍の準備を待つ時間はない。支度が整った部隊から、順次帰投せよ!」
こうして、帝国のダラーン討伐隊は帰路についた。平定されたダラーン領は二分され、その半分はラシル王国へと割譲されることとなった。
一方、ノバージェ共和国はサンブリア沖の海戦にて二度の大敗を喫していたが、彼らは本質的に商人の国であり、統一された王権を持つ国家ではない。イリアードが彼らに対し、金・銀・銅などの鉱石や、木材・硫黄の輸入を約束したことで、共和国内では半島への軍事的侵攻に否定的な声が大勢を占めるようになり、戦火の懸念は自然と立ち消えていった。
これにより帝国の極東は安定し、背後の憂いは完全に払拭されたのである。
12万もの大軍を運ぶ大船団は、一度、大河コミュシュルツの河口に位置する港町マゲリュウトへと入港した。そこからさらに吃水の浅い船へと乗り換え、川を西へと進む。イリアードが交易の要衝キャニオンポートに到着したのは、それから一か月後のことであった。
キャニオンポートは、東西を結ぶ街道と河川交易が交差する、旅人と商人が絶えず行き交う港町である。ここは二つの要塞、フェルゼンヴァルデンとグリムシュルヒトの中間に位置していた。すでに陥落した古都アンチルマにほど近いフェルゼンヴァルデン要塞であったが、こちらは依然としてその堅牢さを保ち、敵を阻み続けている。
しかし、その先に広がる古都アンチルマは、無残にも略奪と放火に晒され、風光明媚だった古き良き街並みの多くを失っていた。
「文明を知らぬ蛮族の凶行だ」
それは、かつて麗しき古都アンチルマを愛した、名もなき誰かの嘆きの言葉であった。アンチルマは古代の国々の首都として栄華を極めた歴史ある街であり、この街から大陸東部の文明が育ち、栄えていったと言っても過言ではない。
フェルゼンヴァルデンの城壁に立ち、遥か遠くに霞む古都アンチルマの痛々しい景色を眺めながら、イリアードもまた深く心を痛めていた。帝都の後宮という閉ざされた世界で育った彼は、その生涯において一度も、あの素晴らしい古都の街並みをその目で楽しむことが叶わなかったからである。
しかし、フェルゼンヴァルデンの城壁に立ち、失われた古都を憂う時間は、ほんの数瞬のことであった。イリアードは小さく息を吐くと、背を向け、すでに背後に控えていた将兵たちに鋭い視線を走らせた。
「感傷に浸る時間は終わりだ。蛮族の足がここで止まると思うな。フェルゼンヴァルデンを絶対の盾とし、帝都防衛の牙城とする。直ちに陣地を再編せよ」
13万の軍勢がキャニオンポートから陸路を進み、要塞へと雪崩れ込んでいく。イリアードの容赦なき軍令は、まるで精密な歯車のように機能し始めた。
まず着手したのは、圧倒的な火力の増強であった。要塞の胸壁や銃眼へ、大船団から荷揚げされたばかりの最新式の大砲が次々と運び込まれていく。死角となる谷底や街道の曲がり角を完全に射程に収めるよう、砲座の位置はミリ単位で調整された。同時に、歩兵たちには十分な数の鉄砲と弾薬が行き渡るよう、兵糧倉から武器庫へと絶え間ない兵站線が敷かれた。
「一瞬の油断も許さぬ。グラッデェの騎馬兵が近づく前に、鉄の雨で塵に帰せ」
防衛戦において最も重要なのは籠城の維持、すなわち食料の確保である。イリアードはキャニオンポートに集う商人たちから臨時の徴発を行い、数か月におよぶ長期戦にも耐えうる穀物や干し肉を強制的に買い上げ、要塞深奥の地下倉へと運び込ませた。同時に、大河や周辺の井戸の水源地には、毒を投げ込まれぬよう厳重な警備兵が配置された。
しかし、戦は兵士たちだけで行うものではない。古都から逃れてきた無数の避難民が、恐怖に震えながら要塞の周囲に押し寄せていた。彼らをそのまま放置すれば、治安の悪化を招き、あるいは敵の突撃の盾にされかねない。
イリアードは要塞の防衛線の外側、かつ大砲の射程に守られた安全な平原を指定し、避難民のための臨時営所の造成を命じた。
「男手にはすべて土木作業を手伝わせろ。天幕を張り、炊き出しを行え。生き延びた民を飢えさせるな。彼らが帝国の盾となり、また未来の剣となるのだ」
またたく間に、幾百もの白い天幕が整然と立ち並び、即席の防衛集落が姿を現した。統制された軍の動きと、行き届いた配慮を目にした民たちの間には、絶望の代わりに「アルヴェリア親王」への絶対的な忠誠心と安堵が広がり始めていた。
要塞の最上階に設けられた軍議室。戦術地図の上に次々と防衛線の駒が置かれていく中、イリアードは窓の外を睨みつけた。
遠く地平線の向こうから、砂塵を巻き上げて迫る不穏な気配がある。グラッデェの先遣隊だ。しかし、この一か月の移動と、わずか数日で完成させた完璧なる迎撃準備により、フェルゼンヴァルデンはもはやただの石造りの砦ではなかった。
「来い、異教の徒ども。帝国の真の主力を前に、その足がすくむのを教えてやろう」
重装騎士団の汚名を雪ぎ、帝都を守り抜くための、凄絶なる防衛戦の幕が切って落とされようとしていた。




