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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴303年
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第64章『サンブリア沖海戦』2

ダラーン王国の首都ビガンテが陥落し、オーレリア軍を率いるアルヴェリア親王イリアードは、残党の掃討と各都市の帰順を進めていた。本来なら同地はラシル王国領とされる予定であったが、ラシル側に統治の余力が無かったためである。 一方、ノバージェ水軍による半島南部への侵攻は、セシリア率いるアルヴェリア水軍が一度は退けたものの、依然として大きな懸念材料であった。敵が再び大攻勢を仕掛けてくることは明白だったからである。

サンブリア海戦に勝利した四十隻のうち、海域にとどめたのは十三隻のみ。残りの艦隊は一度ビガンテ近海へ戻し、南部への補給任務に就くよう手配された。残留した十三隻の警戒艦隊は、二番艦「グリーンジェイド号」を旗艦とし、セシリア自らが乗り込んで指揮を執った。

早朝の濃霧がうっすらと晴れ渡ると同時に、地平線を埋め尽くす黒い影が現れた。ノバージェ軍の大船団である。その数、およそ三百三十隻余り。対するセシリア率いるアルヴェリア水軍は、わずかに十三隻。

誰の目から見ても、勝敗は明白だった。全滅——それこそが、この場にいる誰もが胸の中で噛み締め、決して声には出せない言葉であった。

ロゼッタはセシリアの補佐として、常にその背を守るよう命じられていた。手拭いと水筒を腰にくくりつけ、予備の弓弦を懐に忍ばせると、冷や汗に濡れた太刀の柄を握りしめながらセシリアの真後ろに控えた。

セシリアは、甲板の先頭に静かに立っていた。 赤い大衣を風になびかせ、腕を組んだまま、迫り来る敵船団をじっと見つめている。その背中は華奢でありながらもどこか大きく、そしてあまりにも孤独に見えた。

前夜、セシリアが将校たちを集めて告げた言葉が、ロゼッタの耳の奥で何度も反響していた。

『死ねないと思えば生き残り、もう駄目だと諦めたらやられる』 『たった一人の将が必死で守れば、一万の兵であってもそこは通れない』

それは死を覚悟せよという脅迫ではなく、絶対に勝つという執念すら超えた、静けさそのものの声であった。しかし、目の前に広がる敵の「黒い山脈」を前にして、その言葉通りの平静を保てる者がどれだけいただろうか。ロゼッタの膝は、甲板の板を鳴らすほど細かく震えていた。

「……怖気づいたか、ロゼッタ」

不意に、凛とした良く通る声が侍女を呼んだ。セシリアは振り返ることもなく、静かに呟いたのだった。

「……は、はい。恐縮に存じます、セシリア様。されど……この数の差では……」

ロゼッタは素直に胸中を明かした。嘘をつく余裕などどこにもなかった。 セシリアはわずかに息を吐き、静かに首を振った。

「恐れることはない。潮流は私達に味方する。私達が退かなければ、敵の膨大な数こそが、自らを縛る縄となるのだ」

セシリアは腰の宝剣の鞘に手をかけ、一歩、甲板の端へと踏み出した。

「陣鼓を鳴らせ! 旗を揚げよ!」

地の底から響くような号令が飛んだ。ドォン、ドォンと重厚な太鼓の音が海原に響き渡り、旗艦グリーンジェイドの柱に「蓮の花の軍旗」が翻る。 ついに、海戦の火蓋が切られた。

この海域は、「鳴き声の出る瀬戸」と呼ばれる激流の難所である。狭隘な海峡に潮が流れ込むと、まるで海底で巨大な滝が渦を巻いているかのような鳴動が響き渡るのだ。

潮は東から西へ、猛烈な勢いで流れ始めていた。敵の先鋒たる数十隻の小回りが利く中型船が、潮流に乗って怒涛の如く旗艦グリーンジェイドへと押し寄せてくる。

「放てっ!」

セシリアの指揮棒が一閃した。旗艦の砲門が一斉に火を噴く。大型の大砲が激しい爆音とともに反動で跳ね、鉄弾が敵船の腹をぶち抜いた。

ドカンッ! バリバリバリッ!

木屑が激しく舞い散り、敵船の甲板から悲鳴が上がる。しかし、敵の数は圧倒的だった。一隻を沈めても、後ろから二隻、三隻と群がり寄ってくる。敵の鉄砲隊が放つ鉛の弾丸が、雨のように味方の楯板に突き刺さった。

バンッ! ババンッ!

「ひっ……!」

ロゼッタのすぐ脇の楯板に弾丸がめり込み、木の粉が顔に降りかかる。思わず身を縮めたロゼッタに対し、セシリアは眉ひとつ動かさず、降り注ぐ弾丸の中で仁王立ちしていた。

「セシリア様、危険です! お下がりください!」

ロゼッタが叫ぶと、セシリアは鋭い眼光で一瞥し、短く言い放った。

「私が退けば、誰がこの船を導くか。退く場所など、最初からこの海にはない!」

その時、ロゼッタは恐ろしい光景を目にした。旗艦グリーンジェイドが前線で踏みとどまり猛然と応戦しているにもかかわらず、後方に控えさせるはずだった我が軍の他十二隻の船が、敵の圧力に恐れをなしてはるか後方へ退いていたのだ。

侍女エミーナが率いる三番艦「ブラッドエミーナ」も、他の船も、旗艦の戦闘を遠巻きに見ているだけで近づこうとしない。

「そんな……! 皆、怯えて逃げようとしております!」

ロゼッタが血を吐く思いで叫ぶと、セシリアの顔に怒りの形相が浮かんだ。旗艦は完全に孤立していた。三百を超える敵船の渦の中に、たった一隻で取り残されたのだ。

周囲は一面、敵の船、船、船。敵兵たちが鉤縄を旗艦の舷に投げかけ、這い登ろうとしてくる。

「招集旗を揚げよ! エミーナを呼べ!」

セシリアの命令で招集の信号旗が揚げられた。同時にセシリアは船上に立ち、後方の船に向かって声を限りに叫んだ。

「エミーナ! お前は軍法に触れて死にたいか! 退いて生き残れるとでも思っているのか!」

その声は潮流の轟音をも切り裂き、後方の船まで届いたようだった。そして実際、念話を通じたセシリアの凄まじい気迫は、怯えて泣いていたエミーナにダイレクトに届いていた。

「うぇーん! 死んじゃう、こわいよー!」

エミーナはマストの柱にしがみついていた。

「エミーナ艦長、どうしましょう! 旗艦が呼んでおります!」

困惑する航海長に対し、エミーナは泣き叫んだ。

「行って! 来いって言ってるんだから、行くしかないじゃない! 今度こそ死ぬしかないの!?」

エミーナの船と、それに続く数隻の船が意を決したように櫂を漕ぎ出し、旗艦グリーンジェイドの救援へと向かってきた。

「よし……来い! 全軍、敵をこの海峡の狭間に引きずり込め!」

激闘は数時間に及んだ。太陽が天頂を過ぎた頃、鳴梁の海に劇的な変化が訪れる。

「……セシリア様! 潮が……潮が変わります!」

見張りの兵が叫んだ。さっきまで猛烈に押し寄せていた潮の流れがピタリと止まり、次の瞬間、逆方向——西から東へと怒涛の逆流が始まったのだ。

これこそが、セシリアの待ち望んでいた「その時」であった。

海峡の狭い水路に押し込められていた三百隻の敵船団は、突然の激しい逆潮に煽られて舵を失った。船同士が激しく衝突し合い、将棋倒しのように破壊されていく。

「全船、前進! 敵を挟撃せよ!」

セシリアの指揮棒が躍動した。逆潮に乗った十三隻のアルヴェリア水軍は、まるで解き放たれた龍のように敵陣のど真ん中へ突撃した。

アルヴェリアの頑丈な松で作られた船体が、敵の杉で作られたしなやかだが脆い船体に激突する。

ズドオオォン!

雷鳴のような破砕音が響き、敵船の腹が易々と叩き割られた。海へ投げ出される敵兵たち。そこへ味方の弓兵を一斉に配置し、矢の雨を降らせた。

「火薬を惜しむな! 砲撃を続けよ!」

セシリア自身も弓を手に取り、次々と矢を番えては放った。その矢はことごとく敵指揮官クラスの兜を射抜き、陣形をさらなる混乱に陥れた。ロゼッタは必死で予備の矢を抱え、セシリアの傍らへ送り続けた。手は血と硝煙で黒く汚れ、呼吸をするたびに胸が焼けるように痛んだが、恐怖などとうに消え失せていた。

目の前にいるセシリアという女性は、神か、あるいは悪魔か。この地獄のような狂瀾の海を、まるで自らの庭の手入れでもするかのように完璧に支配している。 ……その唇には、わずかな微笑みさえ浮かんでいた。

その時、一人の潜水兵が甲板へ駆け上がってきた。

「セシリア様! 海上に……敵の将と思われる豪華な甲冑を着た死体が浮いております!」 「何だと?」

セシリアが船べりから海を覗き込んだ。引き揚げられた死体を見て、投降していたノバージェ人の通訳ジュンサが絶叫した。

「セシリア様! 総大将のミヨウラ・クルカです!」 「なに、クルカだと!?」

セシリアの目が鋭く光った。 遺体は心臓部分が破裂して命を落としていた。 このような芸当ができるのは、リヴィエール家の娘達の中でセシリアとエミーナしかいない。エミーナが遠隔で念力を使ったのだ。

セシリアは軽く笑った。 超常的な能力を持つ彼女達にとって、命懸けの戦いすら遊戯に過ぎないのかもしれない。数千キロ離れた誰かを一瞬で殺めることすら可能なのだから。ただ彼女達は普段、その力を隠して暮らしているだけに過ぎないのだった。

「その首を斬り、船首の竿の先に掲げよ! 敵に見せつけてやれ!」

命令は即座に実行され、敵の総大将ミヨウラ・クルカの首級が旗艦の先端高く掲げられた。 それを見た敵船団に、壊滅的な動揺が走る。

「海将が討たれたぞ!」 「退け! 退けぇ!」

悲鳴のような叫び声が潮流に乗って聞こえてくる。総大将を失い激流に翻弄される敵船団は、完全に戦意を喪失した。互いに衝突し、重なり合っては沈んでいく。

アルヴェリア水軍十三隻は、怒涛の勢いで崩れ去る敵を追い詰め、徹底的に打ちのめした。かつてこの海を荒らし回った誇り高き大艦隊が、ただの木の葉のように海峡の渦の中へ呑み込まれていく。 海は敵兵の血で赤く染まり、無数の壊れた船の残骸が泡立つ波間に漂っていた。

夕刻。海峡に吹き荒れていた風が、嘘のように静まり返った。 あれほど響き渡っていた砲声も悲鳴も波の音の中に消え、残されたのは沈みゆく赤夕日と漂う残骸、そして……奇跡的に傷一つなく浮かぶアルヴェリア水軍十三隻の船団のみであった。

討ち取った敵船、三十一隻を完全破壊。損傷を与えた船、数十隻。対する味方の被害は——死亡者わずか数名、船の損失ゼロ。

十三隻で三百三十隻を打ち破る。歴史のどこを探しても存在しない、文字通りの「奇跡」が達成された瞬間であった。

甲板の上に重々しい静寂が訪れる。兵士たちは武器を手にしたまま呆然と海を見つめ、やがて歓声ではなく、絞り出すような泣き声を上げ始めた。生きて帰れたのだ。あの地獄から、誰もが諦めていた勝利を掴み取って。

ロゼッタは膝から崩れ落ち、荒い息をついた。全身の力が抜け、太刀を握っていた手が痺れて動かない。 ふと見上げると、セシリアが船首に立ち、沈みゆく夕日を見つめていた。豪華な甲冑は血と硝煙に汚れ、顔には疲労の色が濃く刻まれていたが、その瞳は深く澄み渡っていた。

ロゼッタは這うようにして足元へ寄り添い、震える声で尋ねた。

「セシリア様……勝ちました。私達は……私達は勝ったんですね……!」

セシリアはゆっくりと振り返り、ロゼッタを見下ろした。そしていつもの厳格な表情をほんの少し緩め、静かに答えた。

「……ロゼッタ。勝ったのではない」 「え……?」 「天が……私達を見捨てなかったのだ。そして、死を恐れず戦った兵たちのおかげだ」

セシリアはそう言うと両手を合わせ、海に向かって深く頭を垂れた。戦死した味方のため、そしてこの海で散っていった数多の命のために祈りを捧げたのだ。

その背中を見つめながら、ロゼッタは溢れ出る涙を止めることができなかった。この女性は「海の英雄」などという言葉では収まらない。わずか十三隻の船でこの海に送られながらも弱音一つ吐かず、民のため、国のためにただ一人絶望の海に立ち続けたのだから。

セシリアは静かに振り返り、ロゼッタに手を差し伸べた。

「立ちなさい、ロゼッタ。港へ戻ろう。……私達の戦いは、まだ終わってはいないのだから」

ロゼッタはセシリアの力強い手を取り、立ち上がった。 風が再び吹き始め、旗艦の旗を大きく揺らす。 沈みゆく夕日を背に受けて立つセシリアの姿は、まるでこの海そのものを護る鬼神の如く力強く、そしてどこまでも高貴であった。

(エミーナ、聞こえる?)

セシリアの念話であった。

激しい戦闘を終えた三番艦「ブラッドエミーナ」の甲板の上。衣服も荒れ果て、満身創痍のようになってしまったエミーナが、未だメインマストの柱にしがみついて泣いていた。

(はい……聞こえます、セシリア様……) (よくやったわね! ありがとう、頑張ったね!)

セシリアは、エミーナが敵の総大将ミヨウラ・クルカを念力で暗殺したことを一切責めなかった。

『新星爆発(スーパーノヴァ)』。 遠く離れた相手の頭部や心臓を念力で破裂させる大技である。エミーナは恐怖のあまり、禁じられていた真の力を解放してしまったのだった。

「わ、私……怖かったんです、セシリア様。ごめんなさい、ダメって言われていたこと、やってしまいました……」

エミーナは柱にしがみついたまま泣きじゃくった。

(いいのよ、エミーナ。全部わかっているから。殿下も姉様も貴女を責めたりしないわ。大丈夫、貴女は貴女らしく生きていいの。私は貴女を良くわかっているから。大丈夫、愛してるよ! 私の可愛い侍女だもの)

セシリアの温かい念話を聞き、エミーナは柱を抱いたまま空を見上げた。 初夏の海の夕焼けは、どこまでも美しく、眩しかった。

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