第59章『背水の攻防と黄山原の鬼神』
重く垂れ込めた鉛色の雲が、荒れ果てた黄山原の泥土を暗く覆っていた。吹き抜ける風には、冷ややかな雨
の予感と、すでに幾千の生命を吸い上げた血と鉄の臭気が濃密に立ち込めている。
ラシル王国軍総司令官、ムジン・ユシンは、馬上から眼前で繰り広げられる惨烈極まる地獄絵図を凝
視していた。
ラシル王国は、永きにわたる隣国ダラーン王国の苛烈な侵略により絶体絶命の淵まで追い詰められてい
た。狂気と猜疑心に苛まれたダラーンの王、ギジル。かつて「ダラーンの奇跡」と称えられた英明さを失った
その暴君は、忠臣ソージュを獄で死せしめ、直言の臣スライロを流罪に処し、ただ自らの征服欲のままにラシ
ルを叩き潰そうとしていた。
だが、天の配剤か。ラシルの絶対の危機に際し、大国オーレリア帝国十三万の巨兵が動いた。親王イリアー
ド殿下率いる援軍が水陸より迫り、ダラーン軍の背後を撃つ挟殺陣形が完成しつつある。
ラシル軍五万の命運は、この王都ビガンテの南西に広がる荒野、黄山原を突破し、帝国軍と合流して敵
城ビガンテを陥落させることにあった。勝利は目前にあるはずだった。五万 対 五千。圧倒的な戦力差。誰も
がラシル軍の容易な圧勝を疑わなかった。
しかし――ラシル軍の破竹の進撃を阻んだのは、ただ一人の男、そして彼が率いる五千の鬼卒であった。
ダラーン王国将軍、クラーク・ダナミア。
出陣に際し、彼は自らの手で愛する妻子を殺め、「生きて辱めを受けるより、死して忠義を全うせよ」と兵
に言い含めたという。自らの退路を断ち、生への未練を一切捨て去った五千の決死隊。それは兵法における最
も恐ろしい存在、「死卒」の群れそのものであった。
「総司令官殿! 第四陣の若き騎士隊、またしても敵の黒き防壁に跳ね返されました! 敵将クラーク、自ら
刃を振るい、我が方の先鋒を悉く切り伏せております!」
血煙に塗れた伝令が騎上から飛び降り、悲痛な声を張り上げた。
「……何ということだ」
私は苦く身もだえした。ラシル王国は長年の防衛戦で錬度を欠き、死兵と化した敵の狂気に呑まれかけ
ていた。このまま停滞すれば、背後から接近するオーレリア帝国十三万の大軍の足止めを食らわせ、兵糧線が
◇
途絶え、連合軍全体の優位性が揺らぎかねない。何より、大国の面前でラシルの武威がそこなれることな
ど、許されなかった。
「士気が鈍っているぞ! 若き騎士たちを先鋒に立てよ! 彼らの尊い犠牲をもって、我が軍の悲憤の火を燃
やし続けるのだ!」
ラシル軍は断腸の思いで次々と命を下した。若き血が、次々と敵陣の黒い渦の中に飛び込んでいく。一人、また一
人と若き騎士の首が討ち取られ、陣外へと投げ捨てられる。そのたびにラシル軍からは怒号が湧き起こり、悲
痛と怒りに狂った兵士たちが波のように敵陣へ押し寄せた。
一回、二回、三回、四回――。
怒濤のごとき我が軍の猛攻を、クラークの五千はすべて押し返した。敵の勝鬨が地響きとなって我が本陣ま
で揺らす。しかし、私には見えていた。押し返すたびに、敵の黒い群れは着実に縮み、朱に染まっていくの
を。
泥に倒れたダラーン兵は、足を貫かれてもなお立ち上がり、もはや剣を振るえぬ者は素手で我が兵の脛に噛
み付いた。命を捨てることでしか表現できない凄絶な忠義。我がラシル兵の心には、恐怖を遥かに超えた異様
な脱力感と不気味な気圧感が忍び寄っていた。




