第57章『サンブリア沖海戦』
春の風は湿気を帯び、海の匂いを運んでいた。 アルヴェリアの艦船と同じ志を持つ海の義賊達。その中央には
『蓮の花』の軍旗を掲げた旗艦『水龍』が出撃を洋上で待っていた。 「姉様」 セシリアは海を見つめたまま、低く呟
いた。
「見えましたか?ノバージェが南端の港町サンブリアを落としました。そのまま北上されてはクムソニアのウォンソ
ン城が危ういです」
「ですがセシリア。アルヴェリアの兵をサンブリアへ動かすには、殿下にお願いして許可を貰わねば」 「時がない
です」
セシリアはリゼリアの言葉を短く遮った。その声には何の迷いもなかった。
「姉様から殿下にお願いして下さい。私達だけでサンブリアへ向かいましょう!」
セシリアは振り返ると、副官のベルナデットに鋭い視線を向けた。
「出陣する。アルヴェリア艦10隻海賊船30を選抜して下さい。私達は敵を求めてサンブリアへ向かう」
ベルナデットは胸の奥が熱く煮え立つような感覚を感じ、「はっ!」と強く答えると、急ぎ伝令へと走った。
1 時間後、ビガンテの沖合から、四十隻の艦隊が静かに滑り出した。 夜明け前の海は濃い霧に包まれていた。
「セシリア。敵は無数、サンブリアから沖合の島まで海を埋め尽くしています」
リゼリアは冷静を装っていたが、見えた光景に困惑しているようであった。 旗艦の将校たちも、露骨な不安の色が
走った。連れて来た味方の数が圧倒的に少なかったからである。 だが、セシリアだけは表情一つ変わらなかった。
「艦隊の後方の艦数隻遊撃に当てるわ。『水龍』が先陣を切る」 冷徹なまでの冷静さ。それが、全軍の空気を一瞬
で引き締めた。セシリアは陣図を広げ、各将に命を下していった。 「エミーナ3番艦で前方左翼。ロゼッタ2番艦
で右翼。私たちは一列の陣を組み、敵の隙を逃さず叩く。良い?、決して深追いはしてはだめ!私達の強みは船の
頑丈さと、火砲の遠戦能力にあるから」
そしてセシリアは、リゼリアの目を見つめて言った。
「姉様、旗の合図を完璧にお願いします。一瞬の遅れが全軍の生死を分けます。姉様が頼りです」
「わかったわ。任せて下さい」
正午頃。初夏の太陽が真上に昇り、眩しい光が海面を照らし出していた。艦隊がサンブリアの入江に差し掛かった
その時―― 偵察にあたっていた海賊船から、鋭い煙信号が上がった。
「敵船発見! 敵船発見!」
見張りの兵が叫んだ。サンブリアの港内に、大小あわせて五十隻余りのノバージェの艦隊が停泊しているのが目
に入った。 ベルナデットは望遠鏡を覗き込んだ。敵の船は、大型のガレー船に加えて、コック船(円胴型帆船)であ
る。船体には黒い漆が塗られ、色とりどりの家紋を描いた軍旗が風になびいていた。
「セシリア様! 敵はサンブリアの村を襲撃中! 陸上に多数の煙が上がっております!」
見張りの報告通り、港の奥にある村からは黒煙が立ち上り、民家に火が放たれているのが見えた。敵兵たちは陸に
上がり、掠奪に夢中になっているようだった。こちらの接近にまったく気づいていない。
「千載一遇の好機……!」
セシリアは呟き、静かに剣の柄に手をかけた。その瞳に、青白い炎のような光が宿っていた。 村が焼かれ、民が踏
みにじられている光景に、セシリアの胸中で激しい怒りが燃え上がっているのだ。しかし、その声はどこまでも冷や
やかだった。
「全軍、陣形を整えよ。『鶴翼の陣』をとる!」
「鶴翼の陣!」
ベルナデットはすぐさま信号旗を掲げ、太鼓を打ち鳴らした。ドンドンと響く太鼓の音に合わせ、四十隻の船が左
右に翼を広げるように美しく展開していく。サンブリアの狭い湾口を塞ぐように、アルヴェリア艦隊が立ち塞がった。
「ベルナデット、軽はずみな行動は禁物だ」
セシリアは静かに言い渡した。
「『山のように重々しく落ち着き、慎重に行動せよ』兵たちにそう伝えて」
「山のように重々しく落ち着き、慎重に行動せよ……!」
ベルナデットはその言葉を全船に伝えるべく、旗を振った。武者震いしていた兵たちの顔から雑念が消え、静かな
覚悟が宿っていくのが分かった。 ついに、港内のノバージェ軍がアルヴェリア艦隊の存在に気づいた。
「帝国の水軍だ!」
「挟み撃ちにされるぞ!」
遠くから狼狽する叫び声が聞こえてくるようだった。陸にいた敵兵たちが慌てて船に飛び乗り、錨を揚げようと混
乱に陥っている。
「敵船、出港を試みております!」
「来させて」
セシリアは静かに言った。
「港の狭い出口に重なったところを叩くわ。火砲の準備を急いで!」
アルヴェリア艦隊の側面に配された砲門が一斉に開かれた。重厚な青銅の砲身が、ギラギラと日光を反射して敵
船に向けられる。 ノバージェのガレー船が数隻、我々の陣形を突き破ろうと、必死に櫂を漕いで突進してきた。船
首には弩弓を構えた兵たちが密に並んでいる。
「距離、二百歩!」
ベルナデットが叫んだ。
「百五十歩!」
「放て!」
セシリアの剣が、一閃した。
「ドンッ! ドドドドーーーン!」
雷鳴のような大砲の轟音が、サンブリアの海を揺らした。旗艦をはじめ、二十四隻の船から一斉に放たれた砲弾
が、空を切り裂いて敵船に降り注いだ。 敵の船首を木っ端微塵に粉砕する。乾いた木片が飛び散り、悲鳴が海上
に響き渡る。
「当たった! 直撃です!」
甲板の兵たちが歓声を上げた。 ノバージェの船は松の木で作られており、構造が軽量で速力は出るが、衝撃には
脆い。これに対し、アルヴェリアの艦は頑丈なクヌギやエストロの木で造られており、大砲の反動にも耐え得る要塞
のような船体を持っている。 敵は必死に弩弓を撃ち返してきた。タタンッ! タタンッ! 甲板の防楯に弩弓の矢が
激しく当たる音が響く。しかし、厚い木板に遮られ、我が兵に大きな被害は出ない。
「怯むな! 砲弾を再装填せよ! 次の斉射用意!」
ベルナデットは叫びながら、矢の雨の中を駆け回った。 敵の将と思われる豪華なガレーが、アルヴェリア艦隊の隙
を突いて湾の外へ逃れようとしていた。
「セシリア様! 敵の旗艦が逃走を図っております!」
「エミーナに命じよ。斜め前から塞ぎ、側撃を加えよ」
侍女エミーナが艦長となった3番艦が素早く旋回し、逃走を図るガレー船の側面に割り込んだ。
「ぶ、ぶ、つかれですって!?」
エミーナは甲板で恐れ慄いて涙を流した。
「うわぁ〜〜ん。ぴぃ〜〜」
ひとしきり泣く事10数秒。 心を決めたようであった。
「こうなったら破れかぶれよ!行くわよー!突っ込んで!!」
エミーナ船長の叫び声とともに、頑丈な3番艦の船首が、敵ガレーの脇腹に激しく激突した。
**ガガガガッ!**という凄まじい破壊音が響き、敵船の脇腹が大きくへこみ、浸水が始まった。そこへ至近距離
から散弾砲が打ち込まれる。敵船は真っ二つに裂け、炎を上げて傾いていった。
「見事だわ……!」
リゼリアは思わず息をのんだ。 セシリアの戦法は、徹底して『自軍の被害をゼロに抑え、一方的に敵を粉砕する』
ことに徹していた。無謀な突撃や、敵の得意とする船上での白兵戦には絶対に付き合わない。徹底した火力の優
位と、船体の強度を生かした距離の保持。 湾内に取り残された敵船は、アルヴェリア水軍の「鶴翼の陣」によって
完全に包囲されていた。逃げ場を失った敵船同士が衝突し、港内は大混乱に陥っていた。そこへ、天から降る矢
と、海を誇る砲弾が容赦なく襲いかかる。 黒煙が空を覆い、海面は燃えあがる船の破片と、真っ赤な血で染まって
いった。
「セシリア様、敵船の半数以上が沈没または炎上! 陸に逃げ延びる兵が多数おります!」
ベルナデットが報告に走ってきた。
「深追いは不要よ」
セシリアは冷徹に言い放った。
「陸の敵を追えば、我が兵に無用な損害が出る。我らの目的は海の制圧にある。燃える敵船を掃討し、戦利品を回
収して」
「はっ!」
戦闘が始まってからわずか数時間。かつて半島の民が恐れていたノバージェの水軍は、跡形もなく打ち破れてい
た。 海の海面に漂うのは、燃え盛る敵船の煙と、勝鬨をあげる我が兵たちの歓声だけだった。この戦いで、我が軍
が破壊・焼失させた敵船は二十六隻。対して、我が水軍の被害は――戦死者ゼロ、負傷者がわずか数名という、
信じられないほどの完勝であった。 夕刻。赤く染まる海を背に、艦隊はサンブリアの港からゆっくりと離れていっ
た。 甲板に立つセシリアの元へ、エミーナとロゼッタは一通の戦勝報告の草案を持って向かった。
「セシリア様、朝廷へ送る報告の控えでございます。このサンブリア海戦の大勝利、必ずや親王殿下も、皇帝陛下
もお喜びの事と思います。」 エミーナは興奮を抑えきれずに語りかけた。このサンブリア海戦の勝利は、自分達だ
けの軍功であった。しかし、セシリアは静かに水平線を見つめたまま、首を振った。
「エミーナこれはまだ初戦でしかないわ」
「え……?」
「敵の海軍は今この瞬間も、半島を目指して北上している。この海で我々が勝利したとて、半島の危機が去ったわ
けではないのよ」
セシリアの声には、勝利の余韻すら漂っていなかった。すでにその心は、次なる戦い、そしてこの凄惨な戦争の行く
末を見据えていた。
「敵は必ず、水軍の補給ルートを確保しようと、より大きな艦隊を送り込んでくるでしょう。私達は一刻も早く補給を
整え、次の戦いに備えねば」
セシリアはエミーナの差し出した書状に目を落とすと、短く「よく書けている」と言い、彼女の肩をポンと優しく叩い
た。その手の温もりに、エミーナは胸が締め付けられるような思いがした。 このお方は、勝利の喜びすら己に許さ
ず、国のすべての重荷をその背中に背負おうとしている。
「エミーナ、ロゼッタ」
「はい!」
「日が暮れる。明日の航路の確認と、各船の弾薬の残り具合を改めて。私達の戦いは、今始まったばかりよ」
「畏まりました!」
エミーナとロゼッタは深く頭を下げ、セシリアの前を辞した。 振り返ると、夕闇が迫る海の上に、セシリアのシルエ
ットがくっきりと浮かび上がっていた。その姿は、荒波を突いて進む巨艦の船首像のように、強く、気高く、そしてどこ
までも孤独に見えた。 エミーナとロゼッタは心の中で誓った。このお方が率いる限り、私達の水軍が敗れることは
絶対にない。たとえどんな困難が待ち受けていようとも、私達はこのお方の側近として、この背中をどこまでも追い
続けよう、と。 サンブリアの海に響き渡った砲声は、アルヴェリア水軍の激闘の火蓋を切る、その始まりに過ぎな
かったのであった。




